こんにちは、みちのくです☀️
今回は大宝元年6月から8月の記事を取り上げていきます!
よろしくお願いします!
大宝元年(西暦701年)現代語訳・解説
持統上皇の吉野行幸
6月29日(庚辰) 持統太上天皇は、吉野の離宮に行幸した。
秋 7月10日(辛巳) 車駕は、吉野の離宮から還幸した。
太上天皇について
太上天皇とは、天皇の位を譲った「元天皇」のことです。一般的にはこれを略して「上皇」と呼んでいます。天皇などの呼称を定めた律令の「儀制令」にも以下のように規定があります。
律令 巻第7
儀制令 第1 天子条
太上天皇 譲位の帝に称する。
「上皇」が略称なのは初耳です!
太上「天皇」だから、上皇もやっぱり天皇なんですね。
はい。太上天皇は、表面上は一線を退いた存在ですが、やはり元天皇の影響力は強く、ややもすれば、国に天皇と上皇の2人の君主が存在する不安定な状況が生まれやすいです。
持統太上天皇は、文武天皇の祖母であり、先代の天皇です。
『続日本紀』記事中にあまり出てこないため存在を忘れがちですが、まだまだ若い(20歳ほど)孫の文武天皇を常に補佐する存在で、政治権力の実態は文武天皇ではなく持統上皇にあったことは確実です。
のちの時代には上皇による「院政」が行われましたよね♨️
この行幸の記事が史料上の「太上天皇」の初見です。
天皇の位を譲ることを「譲位」といいます。
吉野行幸の復活
持統上皇は、しばらく絶っていた吉野への行幸を再開しました。
持統上皇は在位期間中に吉野への行幸を非常に頻繁に繰り返しており、合計31回の吉野行幸が記録されています。
吉野以外の場所への行幸もありましたが、吉野行きは持統上皇にとって特別な意味を持っていたと見られます。
特別な意味…これほど頻繁に訪れるわけとはいったい…?
持統の夫である、「亡き天武天皇を偲ぶ」という目的があったと言われています。
吉野は、持統と天武夫婦の人生の転機となった場所と言えるのです。
持統が上皇として、孫の文武が天皇として君臨していられるのは、天武天皇が壬申の乱というクーデターを成功させたからです。吉野は、天武が持統とともに挙兵した地であり、現政権の始まりの地として象徴的な場所になっていました。
なるほど!いわば「聖地」なんですね。
このタイミングで吉野行幸が復活したのには何か理由があるのでしょうか?
はっきりとはわかりませんが、翌年12月に持統上皇は崩御しています。
もしかしたら、自らの死をこのときすでに予期していたのかもしれませんね。
勅による食封下賜、左大臣多治比嶋の死去
7月21日(壬辰) 親王以下に勅を下し、その官位に応じて食封(領地)を賜った。
また、壬申の乱の功臣にも、その功の大きさに応じて食封を賜った。
また、次のように勅を下した。「先朝では、論功行賞で封を次のように授けた。
- 村国小依に120戸
- 当麻公国見、県犬養公大侶、榎井連小君、書直知徳、書首尼麻呂、黄文造大伴、大伴連馬来田、大伴連御行、阿倍普勢臣御主人(右大臣阿倍御主人)、神麻加牟陀君児首たち11人に100戸
- 若桜部臣五百瀬、佐伯連大目、牟宜都君比呂、和爾部君手たち4人に80戸
これら15人は、賞はそれぞれ異なっているとはいえ、功の程度は中級に及ぶ。よって令の規定に基づき、これらの封戸の1/4をそれぞれの子に継承すること。」
また、皇太妃(阿閇皇女、のちの元明天皇。文武天皇の母)・内親王・女王・嬪(文武天皇の配偶者)にもそれぞれ差をつけて封を賜った。
領地の相続に関する取り決めですね。
大宝律令には、禄令の「功封条」に以下のように規定されています。
禄令 功封条
およそ五位以上、功を以て封食まば、その身亡しなば、大功は半減して3世(子・孫・曾孫)に伝えよ。上功は2/3を減じて2世に伝えよ。中功は3/4を減じて子に伝えよ。下功は得ず。
この功績の4段階の「中功」が適用されたんですね。
(続き)
この日、左大臣正二位多治比真人嶋が薨じた。
詔して、右少弁従五位下波多朝臣広足・治部少輔従五位下大宅朝臣金弓を遣わして葬儀を監護させた。
また、三品刑部親王・正三位石上朝臣麻呂を左大臣邸に遣わして贈り物を賜った。正五位下路真人大人が公卿の誄(死者を弔い、生前の業績などをたたえる言葉)を、従七位下下毛野朝臣石代が百官の誄をそれぞれ代表して読み上げた。
大臣は宣化天皇の玄孫(4世孫)で、多治比王の子である。
左大臣。太政官のトップが亡くなったんですね。
これは大きな出来事です。
多治比氏は、皇族の出自で、第28代宣化天皇につながります。
嶋の父は3世の多治比王といい、この人が臣下に下って多治比の姓を賜りました。
公卿のメンバーは以下になりました。
太政大臣 空席
左大臣 空席
右大臣 従二位阿倍御主人
大納言 正三位石上麻呂、藤原不比等、従三位紀麻呂
(中納言は廃止)
太政官処分(官制について)
7月27日(戊戌) 太政官は次のように処分した。「造宮の官は職に準じ、造大安寺・薬師寺の二官は寮に準じ、造塔丈六(仏塔や仏像を造ること)の官は司に準じること。
選任された者のうち、奏任以上の者は名簿を太政官に送り、判任の者は式部省が評議検討の上、その名簿を太政官に送ること。
職・寮・司は、八省が管轄する各官司につけられた名称で、その機構の大小によって区別されたものです。
たとえば、
⭐️京職(京の行政)、中宮職(後宮のこと)、大膳職(朝廷での会食の料理のこと)
⭐️陰陽寮(天文、暦、占いなど)、縫殿寮(女王や女官など)、大学寮(大学の試験等)
⭐️内礼司(宮中の礼儀や監察)、主水司(水の供給のこと)、正親司(皇族の戸籍のこと)などがあります。
勅任・奏任・判任は、官職任命の形式です。
勅任は、天皇のご意志(勅旨)により任命するもの。
奏任は、太政官が任命すべき者を天皇に奏上して任命するもの。
判任は、式部省が選考し、太政官に申し出て官職に任命するもの。
壬申の乱功臣の子や養子への相続などについて
(続き)
また、功臣の封はその子に相続すべし。もし子がなければ、他の誰にも継承させてはならない。
ただし、兄弟の子を養子とした場合は許すこととする。その養子もまた封を継承する者がいない場合は、さらに養子を立てて授けることを許す。
その世代の数え方としては、正子(嫡子)と同じとする。ただし、孫を継承者(嫡孫)にする場合は封を継承することはできない。
功臣は、ここでは壬申の乱の功臣のことを指していると思われます。
蔭の制度
(続き)
また、五位以上の子は蔭により出身(出世のこと)するが、兄弟の子を養子とした場合も蔭による叙位を許す。ただし、嫡孫の場合は許可しない。また、書工及び主計、主税、笇師、雅楽の諸師の類は判任の官に準ずることとする。」
蔭(おん)とは、貴族の子が、その「貴族の子」という出自をもって特別に恩典を受けられる制度です。
律令の選叙令には以下のように定められています。
選叙令
38 五位以上子条
一位の嫡子に従五位下。庶子(嫡子以外の子)に正六位上。
二位の嫡子に正六位下。庶子に従六位上。
三位の嫡子に従六位上。庶子に従六位下。
正四位の嫡子に正七位下。庶子に従七位上。
従四位の嫡子に従七位上。庶子に従七位下。
正五位の嫡子に正八位下。庶子に従八位上。
従五位の嫡子に従八位上。庶子に従八位下。
三位以上の蔭は、孫に及ぼせ。
親のお蔭様ということで「蔭」の制度というわけです。
貴族とは具体的に「位階が従五位下」以上の人のことをいいます。
完全に生まれで身分の上下が決まってしまうんですね。
今の時代だと公的には絶対に無理な制度。
この時期の僧侶の還俗について
8月2日(壬寅) 僧の恵耀・信成・東樓に勅して、還俗(僧をやめ、民間に戻ること)し本姓に復させた。代わりに各1人ずつを度した(僧になることを許可すること)。
恵耀は、姓を録、名を兄麻呂。信成は、姓を高、名を金蔵。東樓は、姓は王、名を中文と賜った。
大宝律令完成前後から、僧侶を還俗させる命令が何度か下されています(文武天皇4年8月20日条、大宝元年3月19日条)。
通常、還俗は僧侶として不適切な行為があった場合に懲罰的に辞めさせられる制度です。しかし、これらの事例に関しては異なり、彼らの持つ特殊な専門的技能を政府が必要としたためです。
今も昔も、国家運営にはさまざまな特殊な技能や知識が必要になります。
具体的には、法律…明法博士。土木建築…匠寮、木工寮。暦術や天文…陰陽寮。算術…主計寮。調理…大膳職、大炊寮。音楽…雅楽寮。調薬…典薬寮。造船…主船司。など
これら技術者や有識者を朝廷は抱える必要があるわけですが、当時は律令施行にともない多くの人材が求められたにもかかわらず、規模に比べ人員がまだまだ乏しかったんですね。苦肉の策といえばそうかもしれません。
僧を還俗させて人材の不足を補ったというわけですね!
そういえば、以前道照和尚の話がありましたが、道照さんももともとは造船を担当する氏族出身でしたね✨
僧侶はさまざまな学問を勉強しており、仏教を学ぶ中でも医療、土木、暦術などの知識を身に付けていました。
宗教家であることには違いありませんが、現代の僧侶とはその立ち位置はまったく異なっていたのです。
大宝律令の完成
8月3日(癸卯) 三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養たちに撰定させていた律令がここに完成した。大部において、浄御原令の規定を踏襲した。よって、各自差をつけて禄(給与)を賜った。
律令、とうとう完成♨️
浄御原令は、天武天皇の時代に作られた大宝律令の前身といえる法です。
浄御原は宮廷のあった場所です。
8月4日(甲辰) 太政官は次のように処分した。「近江国の志我山寺の封は、庚子の年(文武天皇4年、700年)で満30年に達し、観世音寺と筑紫尼寺の封は、大宝元年で満5年に達した。そのため、封を停止する。皆、封に準じた物を施すこととする。
また、斎宮司は寮に準じることとし、所属の官は長上官(常勤の官)とする。
金発見の褒賞・後の詐欺発覚
8月7日(丁未) これより先、大倭国(奈良県)忍海郡の人、三田首五瀬を対馬島に遣わし黄金を冶金(金属の精錬)させていた。ここに至って詔により五瀬に正六位上を授け、封50戸・田10町並びに絁・綿・布・鍬を賜い、雑戸(特定の官司に所属し、特殊な技術をもつ者)の名を免じた。
対馬島司及び郡司主典(第4等官)以上の者に位一階を進め、金を産出した郡の郡司には位二階を進ませた。
金を発見した家部宮道には正八位上を授け、絁・綿・布・鍬を賜った。その戸は終身、百姓は3年間税を課さないこととした。また、贈右大臣大伴宿禰御行は五瀬に金を冶金させたため、大臣の子に封100戸・田40町を賜った。
【註:年代暦に曰く、これは五瀬の詐欺であることが発覚した。贈右大臣は五瀬に騙されていたのである。】
「大宝」は、対馬から金が産出されたことを祝って立てられた元号ですが、後になって詐欺だったことが判明しました。
これは…大宝元年3月21日条の話の続きですね。
この8月7日の時点ではまだバレてなかったということですよね。朝廷の高官を騙して、天皇や上皇を喜ばせて…。
犯人の三田五瀬はいったいどんな心境だったでしょう?
まさかこんなことになるとは思っていなかったかもしれません。
右大臣という国の大物に頼まれた以上、成果なしの報告ができず、金が採れたと嘘をついてしまったとか…?
苦し紛れについた嘘がこんなことになり、あとになってバレて…。
極め付けは国史に永久に記録されてしまうなんて…。こんなかたちで自分の名前を歴史に残すのはイヤすぎます…。
このあと、五瀬がどのような処遇を受けたのかは定かではありません。
発掘されたという金も、実際は新羅から輸入してきたものではないかといわれています。
(続き)
撰令所は次のように処分した。「職事官に禄(給与)を給う日は、五位以下は全員大蔵省に来庁して、その禄を受けること。もしこれに従わない者は、弾正台がこれを取り締まる」と。
職事とは、律令に規定のある官職、またはその官職に就いている官人のことです。
たとえば、
神祇伯(神祇官の長官)、衛門督(衛門府の長官)、内蔵助(内蔵寮の次官)などなどが職事官です。警察機構である弾正台もこれに含まれます。
職事以外の官もあるということですか?
律令に規定のない官であり、これを令外官(りょうげのかん)といいます。
また、これといった官職に任命されていない人を散位や散官といいます。
参考書籍など
次回予告
次回は文武天皇の紀伊国行幸や、のちの聖武天皇である首皇子の誕生などについて取り上げていきます!
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