【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝元年④ 4月〜5月 遣唐使に節刀を授ける

大宝年間(701-704)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
節刀は、天皇の権威を象徴する重要な刀なんです。

いづみ
いづみ

命令違反をした遣唐使のメンバーはそれでズバッといっちゃうわけですね!

※節刀は命令違反者をその場で斬るための刀ではありません。




大宝元年(辛丑・西暦701年)現代語訳・解説 4月〜5月

日蝕

夏 4月1日(甲辰きのえたつ) 日蝕があった。

日有蝕之。

NASAによると今回の日蝕は部分日食でした。
しかし発生時の日本は夜の時間帯にあたるため当時観測することは不可能だったようです。

律令制と日蝕の関わりについては、こちらをご覧ください。



勅(中臣氏に神に奉納するための稲を支給)

4月3日(丙午ひのえうま) 勅により、山背国葛野かどの郡の月読つくよみ神・樺井かばい神・木嶋このしま神・波都賀志はつかし神の神稲(社地に属する田から収穫される稲か)は、今後は中臣氏に給うこととした。

勅。山背國葛野郡月讀神。樺井神。木嶋神。波都賀志神等神稻。自今以後。給中臣氏。
みちのく
みちのく

「神稲を中臣氏に給う」というのは、神事として奉る稲の管理を任されたということですから、中臣氏にこれらの神の祭祀を行わせるという意味でしょう。
中臣氏は朝廷の神事・祭祀を担う氏族でした。

いづみ
いづみ

以前、「意美麻呂たちは神事に奉仕する者である」という詔が出され、藤原氏から中臣氏に復帰するといった出来事もありましたね。(文武天皇2年(698)8月19日条)

「葛野郡」はどこまでかかっているのか

「山背国葛野郡の月読神・樺井神・木嶋神・波都賀志神」とありますが、
この「葛野郡」は、
・月読神だけにかかっているのか
・四神すべてにかかっているのか
という問題があります。

10世紀の『延喜式』では、月読神と木嶋神が葛野郡、樺井神が綴喜郡、波都賀志神が乙訓郡に比定されます。
しかし、大宝元年時点と10世紀時点でのそれぞれの郡の範囲が一致するとは限りません。

しかも、藤原宮跡からは「弟国評鞆岡」と書かれた木簡が見つかっており、8世紀初期までには乙訓郡がすでに成立していたことがうかがえます。
弟国評鞆岡三木簡(木簡庫)

いづみ
いづみ

「弟国」は「乙訓」に通じ、評は律令制の「郡」の前身ですね。

みちのく
みちのく

そのため、葛野郡にかかるのは月読神だけと読むのが自然だと思います。

なお、綴喜郡については成立時期は不明です。

木嶋神社(木嶋坐天照御魂神社)

木嶋このしま神社の名は神社境内の案内板によると通称であり、正式な名前は「木嶋坐天照御魂このしまにますあまてるみたま神社」といいます。しかし『続日本紀』には「木嶋神社」とあるように、大宝以前から存在する古い名前であることが分かります。
また、「蚕の社やしろ」とも呼ばれ、古墳時代に朝鮮半島から渡来してきた秦氏が養蚕や機織りなどの技術を有していたことにちなむものです。

みちのく
みちのく

「天照」とありますが、祭神は天照大神ではないようです。


木嶋坐天照御魂神社(蚕の社・京都市右京区)



大宝令の講義

4月7日(庚戌かのえいぬ) 右大弁従四位下下毛野しもつけぬ朝臣古麻呂たち3人を遣わして、初めて新令(大宝令)を講じさせた。親王、諸臣、百官人(多くの官人)たちがこれを習った。

遣右大弁從四位下下毛野朝臣古麻呂等三人。始講新令。親王諸臣百官人等就而習之。

親王、諸臣百官ですから、かなり大規模に大宝令の講義・学習が行われたようです。

みちのく
みちのく

下毛野古麻呂は、律令撰定で主要な役割を果たしたメンバーです。
前年(700)6月17日、律令撰定の功により禄を賜ったという記事があり、19名中、古麻呂は4番目に記載されています。

いづみ
いづみ

まさに律令の専門家と呼ぶに相応しい人選だったわけですね!✨

今回の記事には「親王」(天皇の子または兄弟)とあるところ「王」(天皇の二世〜四世)が明記されていないところはやや不審です。王は講義の対象になっていなかったのでしょうか?それとも、単に文を簡略化して王を省略しただけなのでしょうか?

継続的に行われている講義

大宝令の講義、学習については前年3月15日にもすでに行われており、
「諸王と諸臣に詔し、令の条文を読み習わせた」とあります。

令文の内容は膨大で分野も多岐にわたるため、複数回に分けて継続的に行われていたと理解するのが自然でしょう。



賜姓(垂水君)

4月10日(癸丑みずのとうし) 遣唐大通事だいつうじ(遣唐使の上級通訳官)大津造広人おおつのみやつこひろひとに垂水君たるみのきみの氏姓を賜った。

遣唐大通事大津造廣人賜垂水君姓。
いづみ
いづみ

これは、氏(ウジ)・姓(カバネ)の両方を賜った事例ですね。

・改姓前
氏……大津
姓……造(みやつこ)

・改姓後
氏……垂水
姓……君

遣唐使出発との関係

この賜姓は、遣唐使の出発準備が進められていた時期に行われています。

  • 4月12日:遣唐使が朝廷を拝する。
  • 5月7日:遣唐使の粟田真人に節刀を授ける。
みちのく
みちのく

広人への賜姓も遣唐使派遣に関連した待遇だった可能性がありますが、賜姓の理由は原文に記されていません。

いづみ
いづみ

でも敢えて「遣唐大通事」って肩書を置いているわけですし、やはり関連はあるのではないですか?



遣唐使が朝廷に拝礼する

4月12日(乙卯きのとう) 遣唐使たちが朝廷を拝した。

遣唐使等拜朝。

遣唐使が朝廷を拝したということは、出発の日が近いということでしょう。
しかしながら、出発当日は筑紫から船を出したものの、風波の激しさのため引き返すことになり、翌年の6月29日になるまで再出航は見送られました。



名山・大川に祈雨する

4月15日(戊午つちのえうま) 幣帛へいはく(神への供え物)を諸社(複数の神社)に奉って、名山・大川に祈雨きうした。

奉幣帛于諸社。祈雨于名山大川。

諸社に幣帛を奉納し、名山大川に祈雨するというのは珍しいことではなく、
直近例では、3年前の文武天皇2年(698)5月1日と5月5日にも記録されています。

大宝元年も雨不足だったらしく、6月25日には四畿内の国に祈雨を命じています。

いづみ
いづみ

祈雨の願いはすべての人の切実な思いですね。



田領の廃止

(続き)

 田領たつかいを廃止し、これを国司に委ね、巡検(巡り見て点検すること)させることにした。

罷田領委國司巡検。

田領(たつかい)は、
『日本書紀』欽明天皇17年(556)7月条と、同30年(569)4月条に、「田令たつかい」として見え、「田領」の前身だったのではないかと推定されています。

みちのく
みちのく

『日本書紀』では「田令」の訓を「たつかい」としています。

いづみ
いづみ

突然出てきた単語ですが、
「田領=田令」ではないか?ということですね。

田令は、中央から派遣されて、朝廷の直轄地である「屯倉みやけ」の管理・監督にあたった官人です。

山川 日本史小辞典 改訂新版 「田令」の解説(コトバンク)

今回はこの旧制度「田領」を廃止し、律令制のもと中央から派遣され、それぞれの国の行政全般をつかさどる「国司」が担当することになりました。

「屯倉」自体は既に廃止されている

この屯倉そのものは、大化2年(646)正月1日の「改新の詔」で廃止されています。
となれば、これを管理する田令も不要となるはずですが、実態としては廃止命令が出されても屯倉はしばらく存続し続けたものとみられます。

みちのく
みちのく

まあ、詔が出されたからといってすぐに屯倉が消滅するわけではないですよね。
実際には年月をかけ段階的に整理されていったのでしょう。

いづみ
いづみ

逆に言えば、大宝に「田領」が廃止されたということは、まだ屯倉やこれに準じる土地があったということですもんね。



太政官処分(五位以上の出勤記録の扱いについて)

5月1日(癸酉みずのととり) 太政官の処分があった。王臣(皇族と臣下)のうち、五位以上(ここでは四位と五位のみ)の者の上日じょうにち(出勤日、出勤日数)については、その所属の官司が月末に式部省に報告し、その後に式部が抄録(文章から必要部を抜き書きすること)して太政官に申し送ること。

太政官處分。王臣五位已上上日。本司月終移式部。然後式部抄録。申送太政官。
いづみ
いづみ

五位以上官人の勤務日数を把握するということですね。

みちのく
みちのく

担当官司の長官が式部省に報告 → 式部省が上日を抜き書きして太政官に申し送る
という流れで伝達されるというわけです。
これは五位以上官人の勤務評定に関わるものでしょう。

式部省は、文官の名帳(名簿)の管理、考課(勤務評定)・選叙(叙位・任官する者を選ぶ)などを任務としていました。

ただし、勤務評定は式部省だけで行われるわけではありません。
四位・五位についてまとめると、後の養老令(考課令第1「内外官条」、同第59「内外初位条」)では以下の段階で行われることなっています。

① 所属官司の長官
部下の勤務を評価し、考文(勤務成績の報告文書)を作成する
② 式部省(武官は兵部省)
考文を調査・照合して太政官に申し送る
③ 太政官
四位・五位の評定を量定(審議・決定)し、天皇に奏聞する

いづみ
いづみ

今回の制定は、まさにこの律令規定に関わる内容ですね。
四位・五位官人の勤務評定の最終的な審議は太政官なので、式部省は勤務日数を報告せよということですか。

大宝元年当時は文武官問わず式部省が担当していた?

後に定められる養老令では、文官の考課は式部省が、武官の考課は兵部省が担当します。
しかし今回の記事を見るに、五位以上官人の上日はすべて式部省に送るように読み取れます。

これを裏付けるように、慶雲4年(707)5月2日条では、
「初めて兵部省が五衛府の五位以上の朝参(官吏が朝廷に参内すること)及び上日を記録し、太政官に申し送った」
とあります。

そのため、大宝元年時では文武を問わず、式部省が考課を担当していた可能性があります。



走馬(競馬行事の初見)

5月5日(丁丑ひのとうし) 群臣の五位以上の者に、走馬はしりうまを出させ、天皇が臨御してご覧になった。

令群臣五位已上出走馬。天皇臨觀焉。

走馬(はしりうま)とは、二頭の馬を騎馬で走らせ順位を争う競技で、後世の宮中行事である競馬(くらべうま)につながるものです。
走馬と競馬が直結するものであれば、この記事は史書に現れる競馬行事の初見になります。

ただし、「二頭の馬」というのは後世で明確になる形式であるため、大宝元年5月5日の走馬も二頭を競わせていたかどうかといった厳密な内容は不明です。

5月5日の端午の儀礼

この行事は「端午の節」につながるものでしょう。

延長5年(927)『延喜式』の「五月五日条」には、この日に天皇が騎射と走馬を観覧することが明記されています。
さらに、この日に文武の官人はみな菖蒲(あやめ、しょうぶ)の飾りを冠に着けることとされていました。

つまり、5月5日に天皇が走馬を観覧する行事は、平安時代には明確に端午の儀礼として制度化されていたわけです。

みちのく
みちのく

菖蒲は古くから「尚武」(しょうぶ)の意味が込められ、武の精神を表すとされていました。
また薬効も知られ、邪気を払う力があるとも言われていたようです。

いづみ
いづみ

武を尚とうとぶ…なんだか菖蒲の花がかっこよく見えてきました。
騎射も走馬も武術に直接つながることですもんね。



遣唐執節使・粟田真人に節刀を授ける

5月7日(己卯つちのとう) 遣唐使粟田あわた朝臣真人に節刀せっとうを授けた。

入唐使粟田朝臣眞人授節刀。

粟田真人は正月23日に、遣唐執節使という、遣唐使の最高責任者に任じられています。
「執節」の「節」とは皇権の象徴物を意味し、「執」は手に取ること、執り行うことを意味します。

ここでの「節」は「節刀」という形で表れており、粟田真人は遣唐使の責任者として、天皇の権威を象徴する節刀を授けられたということです。

いづみ
いづみ

乱暴に言えば、
「粟田朝臣真人の命令は天皇のご命令であるぞ!」というわけですね。

みちのく
みちのく

乱暴に言えばそうですが、あらゆる命令が天皇の命令と同等になるわけではなく、使節団の指揮に必要な権限を委任されたと理解するべきでしょう。

以後、軍事行動に際して天皇が将軍などに節刀を授ける例が見えますが、今回の記事は節刀下賜の史料上の初見です。



勅(一位以下官人の休暇について)

(続き)

 次のように勅した。一位以下に休暇を賜う場合は15日を超えてはならない。ただし、大納言以上の者はこの限りでない。

勅。一位已下。賜休暇不得過十五日。唯大納言已上。不在聽限。

特筆すべきは、大納言以上は例外としているところです。

「一位以下」というのは位階による区分です。一方、「大納言以上」というのは官職による区分です。
つまり、一位以下は原則として休暇は15日以内としながら、大納言・大臣など、特定の高官については例外を認めたわけです。

なお、大納言以上なら無制限に休めるという意味ではなく、15日という一律の上限を適用しないという趣旨です。大臣や大納言の職責や立場から考えるに、長期の休暇を取ることはむしろ国政上避けられたのではないでしょうか。

官人の休暇

みちのく
みちのく

今回の「15日」というのは、年間休日のことを言っているわけではありません。
後の養老令の「仮寧令」にはいくつかの種類の官人休暇が示されています。

休暇の種類 内容
休仮(きゅうけ) 在京の官司では原則6日ごとに1日の休日
田仮(でんけ) 5月と8月にそれぞれ15日間の農繁期休暇
定省仮(ていせいけ) 畿外の父母を訪問するため、原則3年に1回、30日間
請仮(しょうけ) 個人的な事情で申請する臨時休暇

したがって、今回の勅を「すべての官人は年間15日しか休めない」と解釈するのは違います。

いづみ
いづみ

よかったです。
年間休日が15日間だったらどう考えても超ブラック律令国家でした。



冠位から位階へ名称を改め、更に1階級昇進させる

5月27日(己亥つちのとい) 初めて勤位ごんい(旧冠位制の勤冠で、位階制の六位に相当)以下の号を改め、内外(内官と外官。京官と地方官)の六位以下の位階を持つ者の位を一階級進めた。

始改勤位已下之号。内外有位六位已下者。進階一級。

これは、冠位制から位階制への移行を示す記事です。

勤位とは冠位制における「勤冠ごんかん」を指し、勤位以下とは具体的にはこれの他、務冠・追冠・進冠を指します。
位階制に相当させると、正六位上〜少初位下までの16階にあたるものです。

今回はこれら勤冠以下の官人たちを、新制度の名称に改めたということです。

そして、単に名称が変わっただけではなく階層の数そのものが変わっています。
従来32階あった勤位以下の冠位が、新制度では16の位階に再編されました。

いづみ
いづみ

階数が半分になったとは、思い切った改革ですね。
32階もあったというのは、これはちょっと実際には煩雑だったのではないでしょうか。

みちのく
みちのく

勤位以上も含めると臣下の冠位は全部で48階層もありました。
最初は聖徳太子の「冠位十二階」でしたが段階的に増えていったという経緯があります。

五位以上は先行して移行が始まっていた

みちのく
みちのく

なお、五位以上官人については、3月21日条に「諸王14人と諸臣105人の位の号を改め」とあり、先行して行われていたことが分かります。

いづみ
いづみ

今回は初めて六位以下にあたる人たちの改称に手がつけられたわけですね。

そして、名称の変更と同時に、内外の六位以下を1階級進めています。
無位を除く全国の官人を対象に、しかも文官と武官の別もないため、かなり広範囲に行われたようですが、その理由については明らかではありません。



次回の記事

工事中

コメント

タイトルとURLをコピーしました