こんにちは、みちのくです☀️
今回は第53代淳和天皇の御陵を訪ねてきました!
11月半ば、体を動かすには絶好の気温。紅葉も始まっていてとってもきれいでした。
前回に引き続き、天皇御陵ですね!
この間は嵯峨天皇陵、今回はどうでしたか?
淳和天皇陵は、御歴代の天皇陵の中でも訪問するのが大変なところだと思いました。
前回の嵯峨御陵も山登りでしたがまだピクニック気分…。いっぽうこちらはそれなりの準備をして行った方が良いと思いました!
淳和天皇について
淳和天皇は、今から約1200年前、平安時代初期に在位された第53代目の天皇です。
系図
承和の変で、皇子が皇太子を廃される
淳和天皇は第50代桓武天皇の皇子で、母は夫人の藤原旅子です。
兄の第51代平城天皇と第52代嵯峨天皇がまず皇位につき、嵯峨天皇の譲位を受け弘仁14年(823)に即位します。
桓武天皇の皇子たちがつぎつぎに皇位を継承していったんですね!
即位した淳和天皇は、先代嵯峨天皇の皇子である正良親王を皇太子に立てます。のちの第54代仁明天皇です。
即位から10年後の天長10年(833)、淳和天皇は皇太子正良親王に譲位、仁明天皇として即位します。
ここまでは予定通りですね。
そして、仁明天皇は先代淳和天皇の皇子である恒貞親王を皇太子に立てました。「先代天皇の皇子を皇太子に立てる」という、淳和→仁明と同じ流れを踏襲しようとしたわけですね。
しかし仁明天皇は心変わりし、自分の皇子に皇位を継承させたいと思うようになります。また、仁明天皇の女御・藤原順子の父藤原良房もまた、自分の娘が生んだ皇子を天皇にしたいと考えたのでした。
出ましたね、藤原氏…! ややこしいことになってきました。
結局、承和9年(842)、藤原良房の陰謀により恒貞親王は皇太子を廃されてしまいます。有名な「承和の変」です。
系図を見ると、恒貞親王の母親は内親王、これ以上はないほど貴い血統だったんですね。本来なら藤原氏の出る幕はないはずですが。
だからこそ、これを排除して覆すためには陰謀が必要なわけです。
承和の変により、良房の思惑通り仁明天皇の皇子(道康親王)が新たに皇太子となり、のちに第54代文徳天皇として即位することとなりました。
淳和天皇の血の系譜は途絶えた…。
今回の目的地、淳和天皇陵「大原野西嶺上陵」
山奥にひっそりと立てられた拝所☀️
御霊がお眠りになっているところですので、心静かに安楽をお祈りし奉りましょう。
御陵までの道
一般車両通行止めの山道
おお、これは…。ぐにゃぐにゃ道になっててまさに山道といった感じ。
でも道は広そうだし車で行けばいいのでは?
このように一般の自動車やバイクは通行止めとなっております。
道中にラジオや電力会社などのアンテナがあり、宮内庁陵墓関係の車以外にこれらの維持管理車両の専用道になっています。
ええ〜…💦Googleマップで調べると
歩きだと、このゲートから…90分近くかかりますね…
前線舗装路だし、電波もちゃんと通じます。ただ、当然のように交通量は少ないので、天候や路面状況、体力、時間、また季節によっては熊の出没もありますので、お出かけになる場合はくれぐれも怪我のないようにお願いします。
ビューポイント
やはり山はいい…
山のふもとには藤原氏の氏神社である大原野神社があります。
淳和天皇の時代の少しあと、嘉祥3年(850)に社殿が造られたそうです。
ひたすら歩いて1時間ほど
休み休み歩きつつ1時間ほど経ったころでしょうか、舗装路の脇に細い山道がありました。見ると「淳和天皇陵へ」の案内があるではないですか!
突然の本格的山道ですね、、
ちょっと焦りましたが、案内板があるということはおそらく舗装路をこのまま進むよりも近道なんだろうと信じて、少々急な坂ですが脇道を進むことにしました。
何気に「クマ出没注意」が気になりますが…
登りながらだんだん怖くなってきたのでChatGPTに聞いてみました笑
11月半ばは熊が多く出没する季節ではないようです。だから大丈夫…大丈夫…
御陵に到着
未舗装の山道を無事抜けて、さらに15分ほど歩いたらついに御陵の参道に到着しました!
逆に言うと、ここまでの長い道はまだ天皇陵の参道じゃなかったんですね…!
木漏れ日の中にひっそりと…。
拝所は裏に回ることができて、そこには山の頂上を示す看板が。
御陵の立つこの山は「小塩山」、「おしおやま」というんですね。
六国史『続日本後紀』の記述
淳和天皇は史書でどのような形で人生の最後を迎えられ、葬られたのか?
国史の記事を紹介します。
『続日本後紀』巻第9 仁明天皇紀 承和7年(840年)
5月5日(庚辰) 端午の節会をとりやめた。淳和太上天皇(上皇)の病気のためである。
5月6日(辛巳) 淳和太上天皇が、皇太子恒貞親王に顧命(天子が臨終のさいに発する命令のこと。遺詔)して次のように仰せになった。「私はもとより華美を好まない。人々の心を消耗させることについては言うまでもない。葬儀は一切を薄葬とし、朝廷から賜る葬具は固辞して返還すること。葬儀が終われば喪服は脱ぎ、国の人を煩わせてはならない。「葬」とは隠すことである。人の目にするところとなるのを私は望まない。そのため、夜間に葬ること。(以下略)」
淳和太上天皇は重ねて皇太子に命じられて次のように仰せになった。「私は、人は死ぬと魂が天に還り、空虚となった墳墓には鬼や物の怪が取り憑いて祟りをなすと聞く。後に多く災いを残すことになるだろう。よって陵の造営はせず、遺骨は砕いて山中に散骨せよ」と。
5月8日(癸未) 淳和太上天皇が淳和院において崩御された。宝算55。
5月13日(戊子) 夕刻、淳和太上天皇を乙訓郡物集村において葬り、粉骨して大原野の西の山の山頂に散骨した。
散骨で葬られた天皇は、御歴代で淳和天皇のみです。
陵の造営をせず…となると今回訪れた御陵は一体?
そう、天皇が崩御されたときは御陵を造営せず、山の頂上に散骨したのです。
今ある御陵は江戸時代の幕末期に、史料をもとに散骨した地点を求めて造られたものなのです。
なぜまたそんなに時間が経ってから…?
江戸幕府はしばしば放置されていた天皇陵を修理する事業を行ってきましたが、幕末といえば、尊王思想が過熱した時代。天皇でありながら奉拝する御陵がないとはけしからぬこととして、改めて造営されることとなったのです。
前回の嵯峨天皇陵もそうでしたけど、天皇ご自身が山陵を営むことを望まないのにわざわざ造るのは実際どうなのでしょう…?
そうですね。これは遺詔に反することですし、正しいことではないかもしれません。ただ、国や国民の負担を減らすために行われた薄葬は、結局は長い目でみれば天皇の権威をおとしめるひとつの原因になったと言えると思います。
淳和天皇は、天皇権力が低下し始めた時代です。薄葬は一見すると謙虚ですばらしいことと言えますが、天皇の存在を小さいものにしかねない危うさもあるでしょう。
参考書籍など
淳和天皇の時代の歴史を知るには、まずは正史の『続日本後紀』から!
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