【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝2年⑤ 5月〜6月 遣唐使、再出発

大宝年間(701-704)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
いづみさん、旅行に出かけたのに、目的地に着く前に足止めされて、再出発まで一年以上もかかったらどうしますか?

いづみ
いづみ

帰ります!




大宝2年(壬寅・西暦702年)現代語訳・解説 5月〜6月

勅(訴訟時の五世王の優遇)

5月5日(辛未かのとひつじ) 次のように勅した。
「 もし五世王が自ら辞訟じしょう(訴訟)し、当然受理すべき場合には、特に座席を給して裁定を下すこと」と。

勅。
若五世王自有辞訟須受理者。特給坐席而与所分。

五世王の特別待遇

みちのく
みちのく

五世王は親王を一世と数え、五世に当たる子孫です。
大宝令の「継嗣令けいしりょう」では、皇親(皇族)の範囲を以下のように定めています。

継嗣令第1【皇兄弟子条】
 天皇の兄弟と皇子は、皆これを親王とせよ【女帝の子もまた同じ】。これ以外は並びに諸王とせよ。五世王は、王の名を得ているとしても、皇親の範囲に入らない。

このように五世王は、「○○王」という王号を名乗ることはできるものの、皇親の範囲には入らないこととなっていました。

いづみ
いづみ

そんな中、今回の記事で五世王には訴訟の時の特別待遇が認められたということですね。

みちのく
みちのく

そう、しかも慶雲3年(706)2月16日条には継嗣令の規定にかかわらず、詔により五世王も皇親の範囲に入れることになりました。今回はこれに先行した、五世王に対する「礼遇」を定めたものと言えますね。




勅(朝政に参議させる)

5月21日(丁亥ひのとい) 勅により、従三位大伴宿禰安麻呂おおとものすくねやすまろ、正四位下粟田朝臣真人あわたのあそんまひと、従四位上高向たかむこ朝臣麻呂、従四位下下毛野朝臣古麻呂しもつけぬのあそんこまろ、小野朝臣毛野を朝政に参議まいりはからしめた。

勅從三位大伴宿祢安麻呂。正四位下粟田朝臣眞人。從四位上高向朝臣麻呂。從四位下下毛野朝臣古麻呂。小野朝臣毛野。令參議朝政。

参議の初見

参議は律令に規定のない「令外官りょうげのかん」ですが、大臣・大納言に次ぐ重要な立場で、国政の意思決定にかかわりました。そして、これが参議の史料での初見です。

みちのく
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ただし、今回の記事では参議を「サンギ」という名詞ではなく「まいりはからしめた」と動詞で訓ませており、官職名としての「参議」とは異なるともされます。

「令參議朝政」→ 「朝政に参り議らしめる」 または 「朝政に参議させる」

いづみ
いづみ

大伴安麻呂さんは武門氏族大伴氏の氏上、粟田真人さんと下毛野古麻呂さんは大宝律令編纂の主要メンバーですね。確かに大物がそろっています。

みちのく
みちのく

ちなみに小野毛野は遣隋使・小野妹子の孫にあたります。

表 議政官(太政官上層部)構成員

議政官の構成員は以下の通りになりました。

官職位階氏名備考
太政大臣―空席適任者がなければ置かれない
左大臣―空席多治比嶋の薨去以来空席
右大臣従二位阿倍御主人
大納言正三位石上麻呂
大納言正三位藤原不比等
大納言従三位紀麻呂
参議従三位大伴安麻呂
参議正四位下粟田真人
参議従四位上高向麻呂
参議従四位下下毛野古麻呂
参議従四位下小野毛野

※中納言は大宝元年(701)3月21日に廃止。

議政官は有力氏族の代表で組織された

みちのく
みちのく

時にいづみさん、この議政官の構成を見て何か気づくことはありませんか?

いづみ
いづみ

なんでしょうか…わかりません!

みちのく
みちのく

律令制の成立当初、議政官には有力氏族から原則として1人ずつ登用される慣行がありました。右大臣から参議まで全員違う氏族ですね。

もっとも、この慣行は養老元年(717)に早くも藤原氏によって破られることになります。




大倭国の二郡の課役を免除する

6月6日(壬寅みずのえとら) 大倭やまと国(後の大和国)の吉野、宇知二郡の百姓の課役を免除した。

復大倭國吉野宇知二郡百姓。

原文にある「復」は、律令制において一定の負担を免除する措置であり、基本的には調・庸・雑徭が対象となり、田租の免除とは区別されます。
なお、免除期間が書かれていないため、何年間の措置だったかは不明です。

突然の課役免除ですが、これは7月11日に行われることとなる天皇の吉野離宮行幸が関係しているのかもしれません。




疫病(上野国)

6月7日(癸卯みずのとう) 上野こうづけ国に疫病が流行した。そのため薬を支給して救援した。

上野國疫。給藥救之。

翌年の大宝3年(703)3月には、同じく上野国と隣国の信濃国で疫病が発生した記録があります。ただし、今回の疫病との連続性があるものなのかは不明です。




大伴安麻呂を兵部卿に任ずる

6月24日(庚申かのえさる) 従三位大伴宿禰安麻呂を兵部卿ひょうぶきょうに任じた。

以從三位大伴宿祢安麻呂爲兵部卿。

大伴安麻呂が兵部省の長官である兵部卿に任命されました。安麻呂は5月21日に参議に任命されたばかりです。
また、大宝2年正月17日に式部卿に任じられていたため、転任して兵部卿に任命されたことになります。
兵部卿の職掌は、

武官の人事に関すること
全国の軍団の統括
駅家うまや・駅馬の管理

などです。
軍事に関する職なので、古来からの武門氏族が担当することが多かったようです。

みちのく
みちのく

大伴氏は律令時代以前から軍人を多く輩出した氏族です。
軍団兵士の管理や、駅制という全国の交通網を管掌する重職であり、同時に「顕職」だったようです。

いづみ
いづみ

全国の軍団・兵士・兵器の管理とは…これは紛うことなき重職ですね!




海犬養門に落雷

藤原京復元模型 中央の空間が藤原宮

6月28日(甲子きのえね) 海犬養あまいぬかい門に落雷があった。

震海犬養門。

海犬養門(あまいぬかいもん)は、藤原宮の北面の西門に当たります。
藤原宮には12の宮城きゅうじょう門があり、海犬養門の遺構では現在も礎石を確認できます。
藤原宮と門(橿原市公式)

みちのく
みちのく

藤原宮は藤原京の中枢であり、天皇の御所や行政の官衙などが集中しており、国家の核となる空間でした。宮城門はその出入り口です。

いづみ
いづみ

その場所に落雷ともなると、なかなか当時の人としてはショッキングだったのではないでしょうか?落雷に限らずですが、当時にとって災害は単なる自然現象では片付けられないですよね。

みちのく
みちのく

そうです。落雷は最も分かりやすい神の怒り・災異なので、政治的にも大きな意味があったはずです。だからこそ、これをただの落雷で片付けず国史にも記録されているわけですね。

その後、8月8日には、倭建命やまとたけるのみこと(日本武尊)の墓にも落雷したという記事が登場します。




遣唐使が再び出船する

6月29日(乙丑きのとうし) 遣唐使は去年筑紫から入海したが、風浪が激しくなり渡海することができなかった。そのため、今に至って出発した。

遣唐使等去年從筑紫而入海。風浪暴險不得渡海。至是乃發。

遣唐使は、前年の大宝元年(701)4月12日、出発に先立って天皇に拝礼し、続く5月7日に遣唐執節使(最高責任者)である粟田真人が天皇から節刀を授けられました。

みちのく
みちのく

しかし、出船はしたものの悪天候のため海を渡れず断念し、1年以上経って今ようやく出発することができました。

いづみ
いづみ

当時船旅は特に命懸けですからね…。
学生や学問僧や、高官を含む多数の人が乗船していますから長期の延期も致し方ないところもあると思います。

ちなみに、これは一般的に「第八回遣唐使」とされるものです。



次回の記事 大宝二年七月〜八月




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