こんにちは、みちのくです☀️
大宝元年(701)正月の記事を解説していきます。
大宝元年!✨
なんだかすごくおめでたい元号ですねぇ♨️
元号ですからね!
間違いなく縁起がいいです☀️
大宝元年(西暦701年)現代語訳・解説
朝賀の儀 -文物の儀、ここに備われり-
春 正月1日(乙亥) 天皇は、大極殿に御して朝賀を受け給われた。
朝賀とは、新年1月1日の朝に、天皇が大極殿にお出ましになり、すべての臣下の拝賀を受ける儀式です。
朝賀の儀の初出は『日本書紀』で、孝徳天皇の大化2年(646)のことです☀️
「改新の詔」のときですね✨
律令制の始まりとともに朝賀の儀も始まった感じですね!♨️
ちなみに、あの蘇我入鹿暗殺事件の舞台も大極殿でした!
(続き)
その儀は、正門に烏形の幢を、左方に日像・朱雀・青龍の幡を、右方に月像・玄武・白虎の幡を立てた。そして、蕃夷(外国。ここでは新羅)の使者が左右に列した。
文物の儀は、ここに備わった。
大極殿の正門である大極「門」は、大極殿の南側に位置します。そこに7種の旗が立てられました。
幢も幡も訓読みで「はた」と読み、形状や用途により使い分けられますが、ここではすべて「旗」と記述します。
左から、青龍・朱雀・日像・烏像・月像・白虎・玄武です。
これらの旗は、この大宝元年(701)正月1日の朝賀の儀より始まって、江戸時代末・弘化元年(1847)孝明天皇の即位礼まで連綿と受け継がれ続けます。
1100年以上も続けられてきたんですね♨️
青龍・白虎・朱雀・玄武は、唐から伝来した伝説の四神であり、王城の東西南北を守護する神獣です。
司る方位はそれぞれ、青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)となっています。
四神は、同時代の古墳である高松塚古墳の石室内にも壁画として描かれています。
旗の細部の意匠については、時代により変化があり形状は異なると思いますが、
四神の図案、日月・烏の像を掲げることは長く長く継承されました。
太陽と月は感覚として納得できますが、カラスの旗はなぜでしょう?
しかも真ん中にありますから、きっと一番重要なんですよね…。
日月の旗は、星の運行の正しい調和と循環ですね。
烏は、『日本書紀』の神話に語られる八咫烏でしょう。
初代神武天皇を勝利に導いた神聖な鳥です。
四神の旗は古代中国の思想がもとになっているため、明治天皇以降は、王政復古の流れを受けて廃止されました。日月の旗が残り、新たに萬歳旗、天皇・皇室の称号である菊花紋の旗が掲げられることとなりました。
カラスの旗も失われてしまったのでしょうか?
残念ながら平成の即位礼以後は使われなくなりました。
「政教分離」ということで、神話にまつわる意匠は排除されてしまったのです。
八咫烏の旗は、明治時代に定められた「登極令」の「即位礼当日紫宸殿の儀」の条で、日像旗の南側に配置されることが規定されました。
そのため、戦後に登極令が廃止されるまで、すなわち昭和天皇の即位礼(1928年)までは八咫烏の旗は掲げられていたということになります。
突然ですが、最近になり驚きの発見がありました!!
文武天皇の朝賀の儀で立てられた7つの旗の遺構が見つかったのです!!
なんと!すごいです!!✨
古代文献の正しさが今の時代に裏付けられたということですね!
藤原宮跡に7つの柱穴 「律令国家の完成祝う」記述と一致
日本経済新聞 2016年9月28日
記事によると、
「大極殿院南門(正門)前の広場跡で出土。1.9メートル四方の柱穴を中心として、左右対称にそれぞれ三角を形作る配置で柱穴が3つずつ確認された。」とのことです。
↓実際に復元した旗を立てたときの写真がこちらです↓
わかりやすい!
前後の位置もそれぞれ違っていたんですね♨️
朝賀の大儀の体裁がここに整い、新しい年の夜明けとともに外国からの使者が列席し、文武百官が天皇を拝する。
それは律令国家の完成を象徴するに十分すぎる光景であったことでしょう。
『続日本紀』の編者は、その様子を「文物の儀、ここに備われり」と記し、後世に残しました。
祥瑞の奏上、新羅使の死去
正月4日(戊寅) 天皇は、大安殿に御し、祥瑞の奏上を受け給われた。その儀は告朔の儀のようであった。
正月14日(戊子) 新羅大使の薩飡(新羅の官位)金所毛が卒した。絁159疋・綿932斤・布100段を贈った。小使の級飡(新羅の官位)金順慶及び水手(船乗り)以上にそれぞれ差をつけて禄を賜った。
祥瑞は、珍しいもので縁起の良い物や動物などのことです。
正月には、前年に発見された祥瑞を天皇に奏上(ご報告)するのがしきたりでした。
祥瑞については、↓こちらの記事でも触れています☀️
「告朔の儀」とはどんな儀式でしょうか?
毎月ついたち(朔)に、天皇に対し前月の行政報告を行う定例行事です。
告朔の儀は、天皇が政治に実権がある時代が終わると次第に儀式化し、延喜5年(927)『延喜式』で定められた際には回数が減り、毎月ではなく、春夏秋冬の初月(1月、4月、7月、10月)に行われることとなりました。
大納言・大伴御行の死去、遣唐使の任命、県犬養大侶の死去
正月15日(己丑) 大納言正広参大伴宿禰御行が薨じた。
帝(天皇)は、甚だこれを惜み、悼んで直広肆榎井朝臣倭麻呂らを遣わして喪事を監護させた。
直広壱藤原朝臣不比等らを遣わして、大納言の邸宅において詔を述べさせ、正広弍右大臣の位を贈った。
御行は、難波の朝廷(孝徳天皇)の右大臣大紫(大伴)長徳の子である。
大納言は、太政大臣・左大臣・右大臣に次ぐ朝廷で第4のポストです。
天皇がその死を深く悲しんだと敢えて記録されるほどに、大伴御行は優秀な人物だったのでしょう。
それを裏付けるように、『万葉集』に御行は「大将軍」と呼ばれています。
壬申の乱の功績です☀️
大将軍贈右大臣大伴卿(大伴御行)が作
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
『万葉集』巻第19 4260番歌
(現代語訳)
我が大君である天皇は、神であらせられるので、馬が泥で足をとられ腹這ってしまう田んぼのあるところすら、立派な都としてしまわれる。
天皇への忠誠心が感じられる誠実な歌ですね✨
正月16日(庚寅) 皇親及び百寮を招き朝堂で宴を催した。直広弍以上の者には特に御器の膳(食器)と衣服を賜った。宴会は楽を極めて終わった。
正月18日(壬辰) 大射を取り止めた。贈右大臣(大伴御行)の喪のためである。
正月23日(丁酉) 民部尚書直大弍粟田朝臣真人を遣唐執節使に、左大弁直広参高橋朝臣笠間を遣唐大使に、右兵衛卒直広肆坂合部宿禰大分を副使に、参河守務大肆許勢朝臣祖父を大位に、刑部判事進大壱鴨朝臣吉備麻呂を中位に任命した。山代国(京都府)相楽郡の郡令・追広肆掃守宿禰阿賀流を小位に、進大参錦部連道麻呂を大録に、進大肆白猪史阿麻留・無位山於億良(山上憶良)を少録に任命した。
遣唐使の任命ですね。これは初回から第8回目の派遣になります。
注目は、遣唐大使の上に「遣唐執節使」が置かれていることです。
執節とはなんでしょう?
天皇から、その権威の印(節)を執るということです。
具体的には、天皇から下賜された刀である「節刀」を執り、日本国の使者であることを証明する地位が、「遣唐執節使」です。
天皇の権威を代行するということですから、遣唐執節使の言葉は天皇のお言葉であり、その命令は天皇のご命令であるぞ、ということになります。
すごいです!(語彙力)
正月29日(癸卯) 直広壱県犬養宿禰大侶が卒した。浄広肆夜気王らを居宅に遣わし、詔を宣して正広参を贈った。壬申の年の功をもってである。
この人物も、壬申の乱で天武天皇(大海人皇子)に最初から従った功績で、詔によって死後に高位を贈られました。
また、県犬養氏は天皇の姻戚でもあり、のちに皇位継承について重要な役割を果たす氏族です。
参考書籍など
次回予告
大宝元年2月からの記事を取り上げます☀️
「大宝」への改元について触れていきますよ!
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