
こんにちは、みちのくです☀️
大宝元年(701)正月の記事を解説していきます。大宝に改元されたのは3月のことなので正しくは文武天皇5年ですが、『続日本紀』の形式にならって大宝元年としています。

大宝元年!✨
なんだかすごくおめでたい名前の元号ですねぇ♨️

元号の名前は大体そういうものです!
大宝元年(辛丑・文武天皇5年・西暦701年)現代語訳・解説 正月
続日本紀 第2巻 巻頭
続日本紀 第2巻 大宝元年(701)正月から、大宝2年(702)12月まで。
従四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子学士臣菅野朝臣真道等が勅を奉じて撰す。
天之真宗豊祖父天皇〈文武天皇 第42代〉續日本紀卷第二〈起大寶元年正月、盡二年十二月〉
從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子学士臣菅野朝臣眞道等奉勅撰。
天之眞宗豐祖父天皇〈文武天皇 第卌二〉
朝賀の儀

春 正月1日(乙亥) 天皇は、大極殿に御して朝賀を受け給われた。
天皇御大極殿受朝。
朝賀とは、正月1日の朝に天皇が大極殿(藤原宮の中心的な施設で、重要な儀式の場に使用された)にお出ましになり、百官(すべての臣下)の拝賀を受ける儀式です。

朝賀の儀の初出は『日本書紀』で、孝徳天皇の大化2年(646)正月1日(甲子)条のことです。「朝賀」の語はないものの、正月の拝賀の儀式とあり朝賀を指すものでしょう。

「改新の詔」のときですね。
律令制国家の始まりとともに朝賀の儀も始まった感じですね!

文物の儀、ここに備わる

(続き)
その儀は、正門に烏形の幢を、左方に日像・青龍・朱雀の幡を、右方に月像・玄武・白虎の幡を立てた。そして、蕃夷(外国。ここでは新羅)の使者が左右に列した。
文物の儀は、ここに備わったのである。其儀於正門樹烏形幢。左日像青龍朱雀幡。右月像玄武白虎幡。蕃夷使者陳列左右。
文物之儀。於是備矣。
朝賀に際し、大極殿の南に位置する正門の前に、烏形の幢と、日・月・青龍・朱雀・玄武・白虎が描かれた6種の幡が立てられました。


左から、青龍幡・朱雀幡・日像幡・烏幢・月像幡・白虎幡・玄武幡。
こちらは江戸時代の図案であり、大宝の時もこのような形をしていたかは不明です。
幢と幡
幢
「幢」(どう)は竿の先端に象徴物を掲げる儀仗具で、大宝元年の朝賀では6種の幡(ばん)の中央に配置され、「烏」(からす)の形を掲げるものでした。

大陸では「赤烏」といって、太陽に烏が棲むという伝えがあり、天下泰平を象徴する祥瑞とされています。なので、この烏形幢も赤烏をかたどったものだったかもしれません。もっとも、大宝当時の幢の造形や色は不明なので三本足だったかなどは不明です。
文武天皇2年(698)7月17日(乙亥)には、下野国と備前国の2国が、和銅2年(709)9月26日(癸卯)には、越前国が赤烏を献上したと見えます。

烏の幢の左にある日像の中にも烏が描かれていますね!これはまさに赤烏ではないですか?
日本の神話でも「八咫烏」という三本足の烏の神話があり、赤烏の献上例も見えるように烏の持つ神秘性はすごいですね。
幡
「幡」は、竿から縦長の布を垂らし、そこに図像などを描いた旗です。大宝元年朝賀では、烏形幢以外のもの、すなわち日・月と青龍・白虎・朱雀・玄武の6種が掲げられています。
ただし、先に挙げた江戸時代の図案を見るに、日・月は「布に描かれた図」ではなく、烏と同じく、「幢」として太陽と月の象徴物が掲げられているようです。

『続日本紀』の時代では幢・幡を厳密に区別していなかった可能性もあり、大宝元年時の形式がどうだったのかは分からないものの、後世では日・月も描かれたものではなく「幢」として造形物で表現したようです。
青龍・白虎・朱雀・玄武は四神ともいい、東西南北の4方位を守護する神獣です。
- 青龍(東):川などの流水(守りと発展)
- 白虎(西):諸国から都につながる街道(商業や交流)
- 朱雀(南):開けた平地(発展・拡張)
- 玄武(北):高い山(守り・安定)

これらの意匠の幢幡を立てることは、この大宝元年の朝賀より始まって、江戸時代最後の天皇である孝明天皇の即位礼(弘化元年(1847))まで、戦乱などによる一時途絶を挟みながらも長く受け継がれて行きました。
なお、四神の旗は古代中国の思想がもとになっていることを忌避し、明治時代以降は王政復古の流れを受けて廃止されました。日月の旗が残り、新たに「萬歳旗」、天皇・皇室の称号である菊花紋の旗が掲げられることとなりました。
さらに、戦後は政教分離の影響により「烏」の図案を用いられることも停止されました。
大宝元年の朝賀の遺構が発見される

突然ですが、平成28年(2016)になり大きな発見がありました。
この朝賀で立てられた7本の幢幡の跡とみられる遺構が見つかったのです!

なんと、それはすごいです!
古代文献の正しさが考古学的発見により裏付けられたということですね!
藤原宮跡に7つの柱穴 「律令国家の完成祝う」記述と一致(日本経済新聞・2016年9月28日)

記事によると、
「大極殿院南門(正門)前の広場跡で出土。1.9メートル四方の柱穴を中心として、左右対称にそれぞれ三角を形作る配置で柱穴が3つずつ確認された」とのことです。
実際に復元した旗を立てたときの写真がこちらです↓

朱色に並ぶ柱は大極殿の南にある正門の復元遺構。その門前から遺構が発見されたことは『続日本紀』の記述とも符合します。

わかりやすい!「三角を形作る」という具体的な並びは文献で分からなかった新たな事実です。
「文物の儀は、ここに備わった」
この一文は非常に重要です。「文物」は単なる文化財という意味ではなく、礼制・服制・儀式・官僚制度など、文明国家としての制度と外観を指すものです。

つまりこの記事は、「大宝律令とともに、唐風の国家儀礼もこの朝賀において完成した」と評価しているわけです。
朝賀の大儀の体裁がここに整い、大宝元年正月元日の夜明けとともに外国の使者が列席し、文武百官が天皇を拝する。「文物の儀は、ここに備わった」という『続日本紀』の記述は後世の編者の筆ですが、それはこの時の朝賀が「律令国家の完成」を象徴する儀式となったことが後世にもしっかり伝えられていたことの表れでもあるでしょう。
祥瑞の奏上
正月4日(戊寅) 天皇は大安殿に御し、祥瑞の奏上を受け給われた。その儀は告朔の儀のようであった。
天皇御大安殿受祥瑞。如告朔儀。
祥瑞は、通常とは異なる姿をした動植物や稀な自然現象で、吉兆、つまり「縁起の良いもの」です。ただし、単に珍しい生き物という話ではなく、祥瑞は君主が徳をもって天下を治めていると天に認められた時に地上にあらわれるとされており、王権の正統性を証明するものでした。

祥瑞が現れるのは天皇が良い政治を行っていることの表れ、ということですね。
養老令(儀制令第8【祥瑞条】)によると、正月元日に、その前年1年間に発見された祥瑞をまとめて天皇に奏上することとされています。

具体的には、文武天皇4年8月10日に長門国から白亀が献上されたという記録があります。
告朔の儀とは

「告朔の儀」とはどんな儀式でしょうか?

毎月ついたち(朔)に、前月の行政報告を天皇に奏上する定例の儀式です。
養老令の儀制令第5【文武官条】には、その次第として、各官司から取り集められた公文書を、五位以上の官人が朝庭の案(つくえ)の上に置き、大納言がこれを天皇に奏上することが定められています。
今回は前月の政務報告というより、前年の祥瑞報告なので、告朔の儀に準じた形式で奏上が行われたということなのでしょう。
卒去(新羅大使・金所毛)
正月14日(戊子) 新羅大使の薩飡(新羅の17官位の内の第8位)金所毛が卒した。弔慰の品として、絁150疋・綿932斤・布100段を贈った。小使の級飡(新羅の17官位の内の第9位)金順慶及び水手(船乗り)以上の者にはそれぞれ差をつけて禄を賜った。
新羅大使薩飡金所毛卒。賻絁一百五十疋。綿九百卅二斤。布一百段。小使級飡金順慶及水手已上。賜祿有差。
前年の文武天皇4年(700)11月8日に来朝していた新羅使の金所毛が亡くなりました。新羅使は元日の朝賀記事に「蕃夷の使者が左右に列した」とあり、彼もまた新羅大使として列席していた可能性が高いです。

14日に亡くなったということは、元日にはすでに体調を崩しており、列席を見送った可能性もありますが…。とにかく、弔使として来朝していた金所毛自身が異国の地で亡くなってしまうというとても重たい出来事だったと言えますね。
薨去(大納言・大伴御行)
正月15日(己丑) 大納言・正広参(従二位相当)大伴宿禰御行が薨じ(三位以上が亡くなること)た。帝(天皇)は甚だこれを悼み惜しまれて、直広肆(従五位下相当)榎井朝臣倭麻呂たちを遣わして喪事を監護させた。
直広壱(正四位下相当)藤原朝臣不比等たちをその邸宅に遣わし詔を宣し、正広弍(正二位相当)・右大臣を贈った。
御行は、難波の朝廷(孝徳天皇)の右大臣・大紫(大化5年の冠位19階の第5位)の大伴長徳の子である。大納言正廣參大伴宿祢御行薨。帝甚悼惜之。遣直廣肆榎井朝臣倭麻呂等。監護喪事。
遣直廣壹藤原朝臣不比等等。就第宣詔。贈正廣貳右大臣。
御行難破朝右大臣大紫長徳之子也。
大納言は、太政大臣・左大臣・右大臣に次ぐ太政官第4のポストです。天皇がその死を悼み惜しんだと特別に記録されるほど大伴御行は優秀な人物だったのでしょう。

死後に贈られた右大臣により、お父様と同じ地位に昇りましたね。

御行は『万葉集』に歌を遺しており、そこでは「大将軍」とされています。歌の前書きには「壬申の乱が平定した後の歌」と書いてあることから、乱平定の功績によるものかと思いますが、壬申の乱における彼の具体的な活躍は不明です。
大将軍・贈右大臣・大伴卿(大伴御行)が作
大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
(我が大君である天皇は、神であらせられるので、馬が泥で足をとられ腹這ってしまう田んぼのあるところすら、立派な都としてしまわれる)
『万葉集』巻第19 歌番号:4260

天皇への忠誠心が感じられる誠実な歌ですね✨
表 大伴御行の略歴(日本書紀・続日本紀より)
| 年月日 | 官位 | 官職・地位 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 天武天皇4年(675)3月16日 | 小錦上 | 兵政官大輔 | 兵政官の次官に任じられる。長官は栗隈王。 |
| 天武天皇14年(685)9月18日 | 天皇が大安殿に御し、王卿らを殿前に召して博戯を行った。御行は宮処王・難波王・竹田王らとともに参加し、計10人に天皇の衣と袴が賜われた。 | ||
| 持統天皇2年(688)11月11日 | 天武天皇の葬送に際し、布勢御主人とともに進み出て、誄を奏上した。 | ||
| 持統天皇5年(691)正月13日 | 直大壱 | 封戸80戸を加増された。以前からの分と合わせて300戸。 | |
| 持統天皇8年(694)正月2日 | 正広肆 | 大伴氏の氏上 | 正広肆に昇階。封戸200戸を加増され、合計500戸となり、氏上に任じられた。 |
| 持統天皇10年(696)10月20日 | 正広肆 | 大納言 | 大納言として名前が見える。資人80人を仮に与えられた。 |
| 文武天皇4年(700)8月22日 | 正広参 | 大納言 | 善政を褒められ、阿倍御主人とともに正広参へ昇階。 |
| 大宝元年(701)正月15日 | 贈・正広弐 | 贈・右大臣 | 薨去(今回の記事)。 |
皇親と百官に宴を賜う

正月16日(庚寅) 皇親(皇族)及び百寮(多くの役人。百官)を招き朝堂で宴を催した。直広弍以上の者には特に天皇から御器(食器)と御膳(料理を載せる台)と衣裳(衣服)を賜った。宴会は楽を極めて終わった。
宴皇親及百寮於朝堂。直廣貳已上者。特賜御器膳并衣裳。極樂而罷。

年始の宴会ですね。「楽を極めて終わった」という表現から、音楽が奏でられる中、食事と酒盛りが行われ、盛大に行われた様子がうかがえます。

これは「宴会」ですが、朝堂という藤原宮内の施設で、朝廷主催により行われた公式の行事です。天皇から公式に、縁のある食器・御膳と衣服が下賜されていることからも分かります。朝廷の行事でありますが、「飲めや歌えの大盛り上がり」が許されなかったわけではない…というのが面白いところです。

文武天皇はこの時20歳くらいですよね。
お酒をお飲みになったのでしょうか…。
大射を中止する
正月18日(壬辰) 大射を取り止めた。贈右大臣(大伴御行)の喪のためである。
廢大射。以贈右大臣喪故也。
贈右大臣は正月15日に亡くなった大伴御行のことです。
大射の儀

大射(だいしゃ、おおいくは)は、正月中旬頃に親王以下、位階を有する者または有勲位者が天皇の御前で弓術を競い、これを披露する宮中行事です。養老令には以下のように規定されています。
養老令 雑令第41【大射者条】
大射は、正月の中旬に親王以下、初位以上が皆射ること。その儀式の次第及び禄(給与)は別式(別に定めた細則)に従うこと。

「いくは」とは「的」のことで、的の中心を弓で射て、その技術を競う行事です。

親王も初位もということは、身分の高い人も、そうでない人も…ということですから、かなりの大人数が参加することになりますね…!
中止の理由
そんな大射の儀ですが、15日に亡くなった大納言・大伴御行(右大臣を追贈)の喪のために中止となりました。原文の「廃大射」は、制度として廃止したという意味ではなく、その年の大射を中止にしたという意味です。

でも、16日の宴は開催されましたよね。
喪というものを考えれば、大射よりも飲めや歌えの宴の方が中止されそうな気がしますが…。

以下は推測ですが、その理由を考えてみます。
- 宴と大射では、喪による中止基準が異なっていた
- 16日の宴は御行の死の翌日で、すでに準備が整い変更しにくかった
- 大射は軍事的性格を帯びた儀礼であり、軍事氏族大伴氏の長老である御行の喪と切り離すことができなかった

3つ目の説は興味深いですね!
先の解説の通り、御行さんは『万葉集』で「大将軍」と肩書きされていることが明らかになってますし、大伴氏の長老であり、大将軍の存在なくして大射は決行できなかったというのはあり得そうです。
遣唐使の任命
正月23日(丁酉) 守民部尚書・直大弍(従四位上相当)粟田朝臣真人を遣唐執節使に、左大弁・直広参(正五位下相当)高橋朝臣笠間を遣唐大使に、右兵衛率・直広肆(従五位下相当)坂合部宿禰大分を副使に、参河守・務大肆(従六位下相当)許勢朝臣祖父を大位に、刑部判事・進大壱(大初位上相当)鴨朝臣吉備麻呂を中位に任命した。山代国(京都府。後の山背・山城国)相楽郡の郡令・追広肆(従八位下相当)掃守宿禰阿賀流を小位に、進大参(少初位上相当)錦部連道麻呂を大録に、進大肆(少初位下相当)白猪史阿麻留・無位山於億良(山上憶良)を少録に任命した。
以守民部尚書直大貳粟田朝臣眞人。爲遣唐執節使。左大辨直廣參高橋朝臣笠間爲大使。右兵衛率直廣肆坂合部宿祢大分爲副使。參河守務大肆許勢朝臣祖父爲大位。刑部判事進大壹鴨朝臣吉備麻呂爲中位。山代國相樂郡令追廣肆掃守宿祢阿賀流爲小位。進大參錦部連道麻呂爲大録。進大肆白猪史阿麻留。无位山於億良爲少録。

遣唐使の任命ですね。これは舒明天皇2年(630)の初回派遣から数えて第8回目の派遣になります。(※第7回目と説明される場合もあります)
第8回遣唐使メンバー表
| 役職 | 人物 | 任命時の官職 | 冠位(相当位階) |
|---|---|---|---|
| 遣唐執節使 | 粟田朝臣真人 | 民部尚書 | 直大弐(従四位上) |
| 大使 | 高橋朝臣笠間 | 左大弁 | 直広参(正五位下) |
| 副使 | 坂合部宿禰大分 | 右兵衛率 | 直広肆(従五位下) |
| 大位 | 許勢朝臣祖父 | 参河守 | 務大肆(従六位下) |
| 中位 | 鴨朝臣吉備麻呂 | 刑部判事 | 進大壱(大初位上) |
| 小位 | 掃守宿禰阿賀流 | 山代国相楽郡の郡令 | 追広肆(従八位下) |
| 大録 | 錦部連道麻呂 | 記載なし | 進大参(少初位上) |
| 少録 | 白猪史阿麻留 | 記載なし | 進大肆(少初位下) |
| 少録 | 山於億良 | 記載なし | 無位 |

大使の上にさらに「遣唐執節使」というものが置かれているのが気になりますね。

遣唐執節使は最高責任者といったところでしょう。
遣唐使では場合によって大使よりも上の役職を設定することがあるようで、白雉5年(654)には「遣大唐押使」、霊亀2年(716)には「遣唐押使」という大使の上の役職の例があります。
「執節」とは、天皇の権限の象徴物となる「節」を持ち、これを執行するということです。「節」は本来、君主が使者に持たせる権限の証で、日本ではそれを刀の形にし、「節刀」としました。
これには、遣唐使が日本からの使者であることを唐に証明するため、そして、船内や唐国内における使節団の秩序維持のため天皇権威を代行するという役割がありました。
この年の5月7日には実際に遣唐執節使の粟田真人に節刀が授けられています。

遣唐執節使の言葉は天皇のお言葉であり、その命令は天皇のご命令であるぞ、ということになるのですね!
卒去(県犬養大侶)
正月29日(癸卯) 直広壱(正四位下相当)県犬養宿禰大侶が卒した。浄広肆(従五位下相当)夜気王らを居宅に遣わし、詔を宣して正広参(従二位相当)を贈った。壬申の年の功をもってである。
直廣壹縣犬養宿祢大侶卒。遣淨廣肆夜氣王等就第宣詔。贈正廣參。以壬申年功也。
「壬申の年の功」とは天武天皇元年(672)の壬申の乱での戦功という意味で、県犬養大侶は大海人皇子(後の天武天皇)の挙兵の最初期から従っており、これに関わる功績で死後に高位を贈られました。
『日本書紀』の記述
大侶は、壬申の乱が始まった天武天皇元年(672)6月24日(甲申)条で、大海人皇子が吉野から東国へ脱出した際、最初から皇子に従っていた20数人の側近の1人です。皇子が徒歩で東国に出発したところ、途中で大侶(「県犬養連大伴」と表記)の馬に出会い、その馬に乗ったとも見えます。
乱後の天武天皇9年(680)7月5日(戊寅)条には、病になった大侶を天皇が見舞って、恵み深いお言葉を賜ったとあります。
天武天皇14年(685)9月18日(辛酉)条には、天皇が王卿たちを召して博戯(すごろくなどの賭け事)を行ったとあり、大侶も参加して他の9人と共に天皇の衣と袴を賜ったとあります。
天武天皇が崩御した朱鳥元年(686)9月27日(甲子)条には、大侶が宮内官を代表して誄(弔辞)を奉ったとあります。

壬申の乱だけでなく、天武天皇と信頼関係で繋がっていたことを思わせる記事が目立ちますね✨

文武天皇は天武天皇の孫ですが、邸宅に皇族の勅使を遣わして高位を贈っていることから、その長年の忠節に応えられたように見えます。
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