【現代語訳】続日本紀 文武天皇3年① 正月〜2月 難波宮行幸

巻1(文武天皇元年8月〜4年12月)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
大嘗祭を終え、正月を経た2月に文武天皇は難波に行幸していました。

いづみ
いづみ

難波へお出かけですか。しかも25日間とはかなり長く滞在してますね…一体何をしに行かれたのでしょうか…?




文武天皇3年(己亥・西暦699年)現代語訳・解説 正月〜2月

朝廷の子ども手当

春 正月26日(壬午みずのえうま) 京職(藤原京内の行政全般をつかさどる官職)が次のように言上ごんじょうした「林坊(藤原京内の地名)に住む新羅人の女の牟久売むくめが、1度に二男二女を産みました」と。そのため、あしぎぬ5ひき、綿5屯、布10端、稲500束、乳母1人を賜った。

京職言。林坊新羅子牟久賣。一産二男二女。賜絁五疋。綿五屯。布十端。稻五百束。乳母一人。

※原文の「新羅子」は「新羅女」としている本もある。

多胎児出産をした女性は支援が受けられる

『続日本紀』には多胎児出産に衣食と乳母を与える記事が何度も出てきます。

年月日母・居住地出産朝廷からの給付・措置
文武3年(699)正月26日林坊・新羅人 牟久売2男2女=四つ子絁5疋・綿5屯・布10端・稲500束・乳母1人
慶雲元年(704)6月11日河内国古市郡・高屋連薬女3男=三つ子絁2疋・綿2屯・布4端
慶雲3年(706)2月14日山背国相楽郡・鴨首形名3回の出産で双子×3組=6人(2男→2女→2男)最初の男子2人を詔により大舎人とする
慶雲3年(706)3月13日右京・日置須太売3男=三つ子衣類・食料・乳母
慶雲4年(707)5月16日美濃国・村国連等志売3女=三つ子穀40斛・乳母1人
和銅元年(708)3月27日美濃国安八郡・国造千代の妻 如是女3男=三つ子稲400束・乳母1人
和銅4年(711)7月5日山背国相楽郡・狛部宿禰奈売3男=三つ子絁2疋・綿2屯・布4端・稲200束・乳母1人
和銅7年(714)5月27日土佐国・物部毛虫咩3人=三つ子(性別不明)穀40斛・乳母
みちのく
みちのく

このように、今で言うところの「子ども手当」のような社会保障的施策が行われていたことが分かります。

いづみ
いづみ

乳母という人的サービスもあるとは、なかなか手厚いですね。

「新羅人」を理由に特別な扱いはされていなかった

この記事で分かることは、

★ 新羅人も藤原京内で生活していたこと
★ 新羅人であっても朝廷による救済の対象となっていたこと

です。
唐・新羅と日本の間には過去に戦争があり、日本側が大敗しました(白村江の戦い。663年)。その後、新羅との国交は回復したとはいえ、両国の関係には複雑な歴史的背景がありました。

しかし、この新羅人女性の牟久売の記事を見る限り、新羅人であることを理由に朝廷の救済措置から排除されることはなく、多胎出産に際して日本人と同様に衣料や食料、乳母の支給を受けています。

いづみ
いづみ

少なくとも、こうした庶民に対する救済で差別的な扱いがされていた様子はうかがえないみたいですね。




(叙位、賜姓)

正月27日(癸未みずのとひつじ) 詔により、内薬官の桑原加都くわはらのかと直広肆じきこうし(従五位下相当)を授け、むらじかばねを賜った。勤務を賞してのことである。

授内藥官桑原加都直廣肆賜姓連。姓賞勤公也。

『日本書紀』に同様の記事がある

みちのく
みちのく

この記事は怪しく、『日本書紀』に同一人物らしき、同じような内容の記事があります。

朱鳥元年(686)4月8日(丁丑)条に「侍医桑原村主訶都直広肆を授け、姓を賜ひてという」とあり、桑原訶都はおそらく『続日本紀』の桑原加都と同一人物です。

内容も同じであり、『続日本紀』か『日本書紀』のどちらかが誤りではないかと思います(江戸時代の『大日本史』もこの矛盾を指摘し「重出が疑わしく、おそらくいずれかが誤りではないか」としている)。

内薬官、侍医

内薬官や侍医は、後の「養老職員令」にある「内薬司」所属の官人につながるものと思われ、内薬司は宮中の医薬や香薬をつくったり、診察などを担当した官司です。

養老令 職員令第11【内薬司条】

長官は、薬物と香料のことに奉仕する。御薬ごやく(天皇のお薬)の調合を行う。(中略)。侍医は、診察に奉仕する。医薬のことを担当する。(以下略)

とあり、桑原加都が「内薬官」としてどのような職務にあったのかは分かりませんが、『日本書紀』に従えば「侍医」として天皇を診察して薬を処方する立場であったことがうかがえます。

いづみ
いづみ

そう考えるとかなりの重職と言えますね。

みちのく
みちのく

勤務を賞して」今回の叙位と賜姓があったとのことですから、もしかしたら天皇のご病気の回復に貢献したとか、そういった具体的な功績があったのかもしれません。

連の姓

むらじかばねは、天武天皇が定めた氏族序列「八色やくさの姓」のひとつで、8種のうち第7番目の姓です。
桑原加都は、『続日本紀』の名を見る限りでは姓を持っていなかったようです。
ただし『日本書紀』では「村主すぐり」の姓を持っており、その点はどちらが正しいのかは謎です。

八色の姓に存在しない「村主」から新たに「連」を授けられたということは、朝廷の氏族秩序の枠に組み込まれたものといえ、桑原氏が朝廷で一定の立ち位置を確認したものと理解することができます。




行幸(難波宮)

(続き)

 この日、天皇は難波宮なにわのみやに行幸した。

是日。幸難波宮。

正月27日から2月22日まで、文武天皇は難波宮におでかけになりました。
難波には「難波津」という津(港、船着場)があり、瀬戸内海を経由して藤原京と西国・大宰府・朝鮮半島・大陸とを結ぶ重要な拠点でした。

みちのく
みちのく

仁徳天皇や孝徳天皇など、過去には難波に宮を定めたこともありました。


難波宮跡(大阪市中央区)

行幸の目的は何なのか

いづみ
いづみ

『続日本紀』には、行幸した、帰ってきたという往復の事実しか書かれていないですね。ということは…

みちのく
みちのく

はい、この行幸の目的については史料上「不明」としか言えないです。
ただ厳密には、還幸翌日に「諸国から行幸に従った騎兵の今年の調と課役を免除することとした」あるので、諸国から騎兵を集める規模の行幸が行われた…ということくらいは言えそうです。

「八十島の祭」の原型か?

史料上不明ということを前提にした上ですが、今回の難波行幸は後世に言う「八十島やそしまの祭」の原型だったのではないかとする説があります。

『日本文徳天皇実録』嘉祥3年(850)9月8日(壬午)条には、

宮主の占部雄貞・神琴師の菅生朝臣末継・典侍の藤原朝臣泉子・御巫の榎本連浄子らを摂津国に遣わし、八十島を祭らせた。

とあり、さらにそこから半世紀ほど後の『延喜式』では具体的に、八十島の祭の使者について、「難波津に赴き、これを祭る」と明記されています。
ただし、後世では天皇自身は難波には行っていなかったようです。

いづみ
いづみ

文武天皇の難波宮行幸もこの「八十島の祭」だったのでは?ということですね。

みちのく
みちのく

そうですね。『延喜式』そのものには「即位に伴って行う」とは明記されていません。ただ、文徳天皇の例では即位後間もなく行われており、後世には新天皇の即位に関係する祭祀として行われるようになります。

文徳天皇は即位の約5ヶ月後に八十島の祭を行っており、「即位後間もなく」という時期も合っています。

元正天皇と聖武天皇も即位後間もなく難波に行幸している

この例は文武天皇だけではなく、これに続く元正天皇と聖武天皇も難波に行幸しています。

天皇即位難波宮行幸
元正天皇霊亀元年(715)9月2日霊亀3年(717)2月11日
聖武天皇神亀元年(724)2月4日神亀2年(725)10月10日
いづみ
いづみ

確かにこれだけ前例があると、祭の原型、または「八十島」という名前が出てこないだけで同類のものだったのではないかという推測がはたらくのも分かります。

古代の難波堀江南岸における“諸宮”の実像 佐藤隆(『大阪歴史博物館 研究紀要』第22号、2024年3月、PDF)



去(坂合部女王)

正月28日(甲申きのえさる) 浄広参じょうこうさん(正五位下相当)坂合部女王がしゅっ(四位または五位が亡くなること)た。

淨廣參坂合部女王卒。

坂合部女王の出自は不明です。

ただ、この記事は「女王」という皇親(皇族)の称号が史料上確認できる最初期の例として挙げられることがあるようです。

女王は後の養老令によると、天皇の二世以下、つまり、孫以下の女性皇族に与えられた称号です。




難波宮から還幸

2月22日(丁未ひのとひつじ) 車駕しゃが(天皇の乗る車。転じて天皇自身を指す)は、難波宮から還った。

車駕至自難波宮。
いづみ
いづみ

行幸開始が正月27日だったので25日間も藤原宮を留守にしていたということになりますね。政務に支障はなかったのでしょうか…?

みちのく
みちのく

朝廷の行政そのものが止まっていたとは考えにくいですね。日常的な政務はそれぞれの官司で処理することができたでしょうし、重要な案件については行幸に随行した官人を通じて、難波宮にいる天皇のもとで処理したと考えるの自然だと思います。




(行幸に従った諸国騎士の調役を免除)

2月23日(戊申つちのえさる) 詔により、従駕じゅうが(行幸に従うこと)した諸国の騎兵たちの今年の調と労役を免除することとした。

免從駕諸國騎兵等今年調役。

これは先述しましたが、今回の難波行幸の目的は史料からは不明ですが、少なくとも諸国から騎兵を徴発する程度にはまとまった規模の行幸であったことが分かります。




次回の記事 文武天皇3年 4月〜5月




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