元明天皇

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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年② 和銅の新体制、春の管理職人事。国防の要職に護衛武官を賜う

和銅に改元され、新しい天皇の時代が本格的に始動した。国政を主導する太政官の人事が行われ、元老と呼ばれるにふさわしい69歳の忠臣・石上麻呂が右大臣から昇進し首席として左大臣に任じられる。しかし、当時の政権の中心は麻呂と入れ替わりに右大臣に就任した藤原不比等だった…?
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年① 和銅改元、平城遷都の詔 -平城之地、四禽叶図、三山作鎮-

元明天皇が即位し、初めて年が明けた。正月の早々に東国の武蔵国から和銅が発見され、献上される。天皇はこれを大いに慶び、元号をそのものズバリ「和銅」と改めた。そして平城京への遷都の詔…。新たな御代が天からの賜り物が贈られると共に大きく動き出した。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 慶雲4年② 凡為政之道、以礼為先。全ての政道は礼を先とする

君主の代替わりは政変が起きやすいもの。そこで朝廷は新たに授刀舎人寮を設置した。これはのちの近衛府の原型組織であり、天皇や皇太子の側衛を担ったと思われる。そして元明天皇は官吏の綱紀粛正を図って改めて正しい礼法の徹底を命ずる。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 慶雲4年① 元明天皇即位。史上唯一、子から母への皇位継承

文武天皇には皇子がいた…のちの聖武天皇である。しかし、未だ数えで7歳の幼少であり皇位を継承することは不可能であった。病に倒れた文武天皇は苦渋の中で母に譲位することを決断し、今際の際にあった天皇であり我が子を前にして元明天皇はやむを得ぬまま宝祚を受け入れる決断をしたのであった。