
こんにちは、いづみです♨️
和同開珎がとうとう市場に出回るということですか、これは歴史の大きな一歩ですね!

そうですね、ただ今の感覚みたいにすぐ市民のもとに新貨幣が出回るような感じではなく、初めはごく限られた範囲での流通だったのではないでしょうか。
歴史的な一歩ではありますが、小さな一歩ですね!
和銅元年(戊申・西暦708年)現代語訳・解説 8月〜閏8月
和同開珎銅銭の流通が開始する

8月10日(己巳) 初めて銅銭を行った。
始行銅錢。

銅銭を「行う」というのは流通を開始させたということでしょう。
「行銅銭」とは、銅銭を鋳造したという意味ではなく、朝廷が銅銭を公的な貨幣として通用させ始めたことを言うと思います。すでに5月11日(壬寅)には銀銭が通用開始されており、7月26日(丙辰)には近江国に銅銭を鋳造させているため、この8月10日条は銅銭の施行・流通開始を示す記事と考えられます。

和同開珎の流通は銅銭よりも銀銭の方が先だったんですね。
兵部省などに史生を増員
8月21日(庚辰) 兵部省に更に史生(下級書記官)6名を増員した。前回と合わせて16名である。左右の京職にはそれぞれ6名、主計寮には4名を増員した。前回と合わせて10名である。
兵部省更加史生六員。通前十六人。左右京職各六員。主計寮四員。通前十人。
史生は公文書の処理を行う書記官です。律令制は文書主義なので、さまざまな役所が設置され、多様な行政文書を扱うようになった日本政府には実務を行う史生の存在が不可欠でした。律令には史生の定員が規定されていますが、当初想定されていたよりも膨大な数の書類が出たため増員をやむなくされたということでしょうか。
★律令に規定された史生の定員
兵部省 10名
左右京職 規定なし
主計寮 6名
本来、左右京職には史生の規定がありませんでしたが、今回の6名の増員で合計10名になったということは、もともとの史生の人数は4名だったことが分かります。左京職は藤原京の左京、右京職は右京の行政全般を担う重要な官司なので、もとの人数が4名というのは明らかに少なかったと思われます。

なお、「前回と合わせて」ということなので以前にも増員があったようですが、その前回の増員の記事はありません。
袖や襟についての服制を定める
閏8月7日(丙申) 次のように制定した。今後は、衣の褾(袖口)の広さは8寸以上1尺以下とする。着用する人の大小に合わせて衣服をつくること。また、衣の領は他の素材からつぎ足して作ってもよい。ただし、褾を小さくしたり、領を細くしたり狭くしたりすることはできない。
制。自今以後。衣褾口闊。八寸已上一尺已下。隨人大小爲之。又衣領得接作。但不得褾口窄小。衣領細狹。
服制が定められました。しかし、単に「衣」とあるだけで礼服なのか朝服なのか、制服なのか、官人の服なのか、武官なのか文官なのか、庶民の服なのか、男女どちらの服なのかは不明です。
1寸は当時の規格で2.96cmであることが平城宮から出土した物差しで明らかになっているため、8寸は23.68cmとなり、1尺は1寸の10倍ですので29.60cm。よって、袖口の広さとしてはかなりゆったりしたサイズ感ですね。

薨去(高向麻呂)
閏8月8日(丁酉) 摂津大夫(摂津国の行政の長官)従三位高向朝臣麻呂が薨じた。麻呂は難波朝廷(孝徳天皇の難波における朝廷)の刑部尚書・大花上(孝徳天皇の時代の冠位)国忍の子である。
攝津大夫從三位高向朝臣麻呂薨。難波朝廷刑部尚書大花上國忍之子也。

亡くなった本人よりも父親の情報の方が多いですね。父がどんな人物なのかが本人の評価に大きく関わってくる時代というわけですね。
『日本書紀』の記述 父、高向国押

『書紀』では高向国忍は「国押」と表記されていますので、以下は『書紀』の表記に従います。
山背大兄王の追討を命じられる
皇極天皇2年(644)11月1日(丙子)、麻呂の父である高向臣国押は、蘇我入鹿たちにより斑鳩宮を焼かれ、そこから逃れた山背大兄王(聖徳太子の王子)の追討を命じられました。この命令に国押は「私は天皇の宮をお守りしていますので、外に出ることはできません」と答えたとあります。

入鹿の命令を拒絶して山背大兄王の命をお守りしたのですね!

このときの拒絶の意思が積極的だったのか、消極的だったのかは分かりませんが、高向氏は蘇我氏と同祖であり、立ち位置的には蘇我氏に従っていました。
高向朝臣は『新撰姓氏録』によると祖は武内宿禰(第8代孝元天皇の3世孫で、何代もの天皇に仕えたとされる古代の伝説的な官吏)であり、蘇我氏と同祖です。
乙巳の変で中大兄皇子率いる官軍の手から逃走する

皇極天皇3年(645)6月12日(戊申)、天皇の御前で、中大兄皇子と中臣鎌足たちにより誅殺された蘇我入鹿。皇族と群臣たちがことごとく中大兄皇子に従う中、国押は蘇我氏の配下にあり、入鹿の父である蘇我蝦夷を守るべき立場にありました。しかし、国押は官軍から「天地開闢(世界の始まり)以来、この国は君臣の別(君主と臣下の弁別)が定まっている」ことを説かれ、抵抗を諦め剣と弓を捨てて逃げ去って行きました。

この翌日、蘇我蝦夷は自邸に火を放って自害し蘇我氏の宗家は滅亡しました。

「大化の改新」の始まりとして歴史の授業で習った記憶があります!
ところで国押さんは一体どこに行ってしまったのでしょう…?

『日本書紀』における麻呂の父、国押の記述はここで終わっています。『続日本紀』には事績は記されていませんが、刑部尚書(大宝令における刑部卿?)という官職に就いており、「大花上」という冠位は大宝令において四位に相当する位ですので、好待遇といえるでしょう。
『日本書紀』の記述 高向麻呂編
天武天皇10年(681)12月29日(癸巳)に、高向臣麻呂は小錦下(従五位下相当)の冠位を授けられました。
同13年(684)4月20日(辛未)に遣新羅大使として新羅に派遣されました(翌年5月16日に帰国)。
同年11月1日(戊申)、他の51氏族と共に朝臣の姓を授けられました(高向臣→高向朝臣に改姓)。

お父様の国押さんと違って個人的なエピソードはあまりないようですね。
でも遣新羅大使に任命されるなど朝廷において重要な役割を担っています。
高向麻呂 『続日本紀』の記述
大宝2年(702)5月21日(丁亥)条において、従四位上として国政に「参議しめた」とあり、国史上初めて参議に任命されました。
慶雲2年(705)4月22日(辛未)条において正四位下として参議から中納言に昇格しています。
和銅元年(708)正月11日(乙巳) 従三位に昇叙されました。
同年3月13日(丙午) 摂津大夫に任じられました(中納言からの転任とみられる)。

最終的に従三位にまで昇格し、その死にあたっては貴人が亡くなることを意味する「薨」の字が与えられました。
表 高向麻呂の経歴
| 年月日 | 位階・官職など | 内容 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 天武10年12月29日(681) | 小錦下(従五位下相当) | 高向臣麻呂ら10人が小錦下を授けられる | |
| 天武13年4月20日(684) | 小錦下/遣新羅大使 | 新羅へ派遣される | |
| 天武13年11月1日(684) | 高向臣 → 高向朝臣 | 八色の姓により、高向臣氏が朝臣姓を賜る | 以後「高向朝臣麻呂」となる。 |
| 天武14年5月26日(685) | 遣新羅使帰国 | 新羅から帰国。学問僧の観常・霊観が従って帰国し、新羅王の献物をもたらす | 馬・犬・鸚鵡・鵲などをもたらしたとされる。 |
| 大宝2年(702)5月21日 | 従四位上/参議朝政 | 大伴安麻呂・粟田真人・下毛野古麻呂・小野毛野らとともに、朝政に参議する | |
| 慶雲2年(705)4月22日 | 正四位下/中納言 | 粟田真人・阿倍宿奈麻呂とともに中納言となる | |
| 和銅元年(708)正月11日 | 正四位上 → 従三位 | 和銅改元の日に、従三位を授けられる | |
| 和銅元年3月13日 | 従三位/摂津大夫 | 摂津大夫に任じられる | 難波・摂津を管掌する重要官職。中納言からの転任と見てよさそう。 |
| 和銅元年閏8月8日 | 摂津大夫/従三位 | 薨去 | 今回の記事 |
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