こんにちは、みちのくです☀️
文武天皇3年1月から6月までの記事を解説します。
難波宮の行幸、祥瑞、役小角と修験道などについてとりあげているよ。
よろしくお願いします♨️
文武天皇3年(西暦699年)現代語訳・解説
朝廷の子ども手当
春 正月26日(壬午) 京職が次のように言上した「林坊に住む新羅人の女の牟久売が、一度に二男二女を産みました」。
そのため、絁5疋、綿5屯、布10端、稲500束、乳母1人を賜った。
京職とは、律令によると、京(ここでは藤原京)の行政を担当した官職です。
具体的には、戸籍・百姓に関すること・役所の管理・訴訟のこと・倉庫のこと・兵士のこと・道路や橋のことなどをつかさどりました。
以下に、律令の規定を引用します。
令 巻第二 職員令
『日本思想大系3 律令』より 井上光貞、関晃、土田直鎮、青木和夫 岩波書店 p.189
66 左京職 右京職も此に准へよ。(略)
掌らむこと、左京の戸口の名籍(戸籍)のこと、百姓を字養せむ(いつくしみ養う)こと、所部を糺し察む(監察する)こと、貢挙(人材を官吏候補者に推薦すること)、孝義、田宅、雑徭(労働)、良賎(良民と賎民)、訴訟、市廛(市場の商店)、度量(ものさし、はかり)、倉廩(倉庫)、租調、兵士、器杖(武器)、道橋、過所(関所の通行許可証)、闌遺の雑物(失くし物、落とし物)のこと、僧尼の名籍の事。(以下略)
()は、引用者による補足。以下同じ。
「百姓を字養せむ」に該当しますね♨️
四つ子を出産した新羅人に対して布や稲などを支給したということですが、この記事から分かることは、
★ 外国人も都に住むことができた。
★ 外国人を差別することがなかった。
★ 庶民に対して社会保障的な施策があった。
ということです。
これはちょっと意外でした!
特に新羅とは敵対することも多く、日本は過去に新羅との戦争で大敗(白村江の戦い・663年)したこともあります。そのため、日本の新羅人に対する感情は複雑なものがあったのではないかと思うのですが、国同士はともかく、少なくともいち庶民に対しては対等に扱っていたのでしょう。
賜姓の詔、難波宮行幸
正月27日(癸未) 詔により、内薬官の桑原加都に直広肆を授け、連の姓を賜った。勤務態度が優秀だったからである。
この日、天皇は難波宮に行幸した。
「詔により」とあるように、冠位や姓名を授ける行為は天皇の専権です。
「直広肆」という冠位と、「連」の姓(カバネ)を授けられたことによって、桑原加都は、「直広肆桑原連加都」が正式な名前になります。
カバネは、氏族の序列制度のひとつで、「連」は天武天皇の時代に定められた8種のカバネうち、上から7番目のカバネです(八色の姓)。
内薬官は、律令「職員令」によると、宮中の薬(内薬)や香のものをつくったり、医薬の使用や診察を担当します。
「内」だけで宮中を意味するのですね♨️
律令の「職員令」では以下のように規定されています。
令 巻第二 職員令
『日本思想大系3 律令』より 井上光貞、関晃、土田直鎮、青木和夫 岩波書店 p.165
11 内薬司
掌らむこと、薬香に供奉せむ、御薬(天皇のお薬)和合(薬の調合)せむ事。(略)診候ふに供奉せむこと、医薬の事。(略)諸薬を搗き篩はむこと。
また、律令「医疾令」によると、天皇(中宮・東宮を含む)に薬を処方するときには、「甞よ」とあるように、舐めて毒味をすることが規定されました。
令 巻第九 医疾令
『日本思想大系3 律令』より 井上光貞、関晃、土田直鎮、青木和夫 岩波書店 p.428
23 御薬合和せむことは、中務の少輔以上一人、内薬の正等と共に監視よ。餌薬の日には、侍医先づ甞みよ。次に内薬の正甞みよ。次に中務の卿甞みよ。然うして後に御(天皇)に進れ。其れ中宮及び東宮も此に准へよ。
毒味役は3人もいたんですね!
調合する段階でも2人に監視されていますし、なかなか厳重です。
そして、この日から2月22日まで、文武天皇は難波宮におでかけになりました。
難波は、港があり、西国や大陸と都(ここでは藤原京)を結ぶ重要な地です。過去に難波を都に定めたこともありました。
卒去、難波宮還幸、調役免除の詔
正月28日(甲申) 浄広参坂井部女王が卒した。
坂井部女王の出自は不明です。浄広参は、正五位下相当です。
女王は、律令制において天皇の2世、つまり、孫の世代以下の女性皇族です。
「卒」は貴人が亡くなることです。詳しくは、文武天皇2年④ 参照。
2月22日(丁未) 車駕は、難波宮から還幸した。
車駕は、もともとは天皇の乗り物の呼称でしたが、天皇自身を指すことばに変化しました。
天皇が外出先から帰ることを「還幸」といいます。
行幸開始が正月27日だったので25日もの間、京を留守にしていたということになりますね。政務に支障はなかったのでしょうか…?
現代であれば、主に皇太子が代行するのですが、そもそもこのとき文武天皇には皇太子がいませんでした。となると、皇族の中で指導的立場にある人や、大臣が政務を代行していたと考えるのが自然でしょうか。
2月23日(戊申) 詔により、行幸に従った諸国の騎兵たちから、今年の調役を免除することとした。
調役は、「調」と「役」すなわち、貢ぎ物と労働です。
顔料(雌黄)の献上、祥瑞の献上
3月4日(己未) 下野国(栃木県)が、雌黄を献上した。
雌黄は色の名前で、やや赤く温かみのある黄色。オトギリソウという高木の樹液から採取される塗料で、日本画の絵の具として用いられています。藤黄ともいいます。
3月9日(甲子) 河内国が白鳩を献上した。詔して錦部郡に1年間の租役を免除することとした。
また、これをつかまえた犬養広麻呂の戸には3年間免除することとした。
また、畿内の徒罪以下の罪人を赦免した。
白鳩は祥瑞。つまり、縁起の良いもののことです。
律令には、これを献上または発見したことを朝廷に報告すると、このように税や労働を免除されることがありました。
祥瑞は、天からの授かりものであり、時の天皇が人民に良い政治を行っているときに地上にあらわれるとされていました。
そのために、罪人が許されたり、改元が行われることもあったりと、当時いかに祥瑞がありがたがられていたのかがよくわかりますね。
1年間非課税はかなり手厚いですね!
やっぱり白鳩は平和の象徴ですね(?)
祥瑞に関しても律令に規定があります、
令 巻第七 儀制令
8 祥瑞条
凡そ祥瑞応見せむ、若し麟鳳亀竜の類、図書に依るに、大瑞に合へらば、随ひて即ち表奏せよ。其の表、唯し瑞物の色目及び出でたる処所顕らかにせらば、苟も虚しく飾れるを陳べ、徒らに浮べる詞を事とすること得じ。上瑞以下は、並に所司に申して、元日に以聞せよ。其れ鳥獣の類、生けながら獲たること有らば、仍りて其の本性を遂げて、之を山野に放て。余は皆治部に送れ。若し獲べからざること有らむ、及び木連理の類、送りうべからずは、所在の官司、案験するに虚に非ずは、具に図を書きて上れ。其れ賞すべくは、臨時に勅聞け。
『日本思想大系3 律令』より 井上光貞、関晃、土田直鎮、青木和夫 岩波書店 p.345(現代語訳)
祥瑞を発見し、それがもし麒麟・鳳凰・亀・竜の類であれば図書を参照し、大瑞に合致していれば、ただちに奏上すること。ただしその上表が、祥瑞の特徴や特性、及び発見した場所を明記していないのであれば、虚飾を述べ、空虚なことばを並べるようなものであってはならない。上瑞以下は、所司(治部省)に報告して、翌年の元日にまとめて奏上せよ。それが鳥獣の類であり、生けどりにしたものであれば、これをその本性にしたがって山野に放つこと。他はみな治部省に送ること。もし、捕えることができないものや木連理の類、送ることのできないものは、その地の官司が勘案し、虚偽でなければこれを詳細に図にして書き、これを進上すること。進上を賞する場合は、臨時に勅を聞くこと。
捕らえることができないものとは、雲(瑞雲)や甘露(天子が仁政を施すと神が天が降らせるという甘い水)など実体のないものを指します。
木連理とは、2本の異なる木の枝が1本につながっているもののことです。
カメラで撮影もできないですから、図を詳細に描いたとしても、生き物はともかく雲や甘露は証明しようがないですよね、、
実際のところどれだけ祥瑞として認定されたのでしょうか?
多数の目撃証言があれば朝廷からも信用されそうですけどね
雲の場合だと、文武天皇の時代に「慶雲」と改元された実例はあります。
巡察使の派遣、蝦夷叙爵
3月27日(壬午) 巡察使を畿内に遣わして、違反を検察させた。
巡察使は、臨時に任命され、諸国を監察する官です。初見は『日本書紀』天武天皇14年(685)ですが、奈良時代においてもっとも多く派遣され一定の効果をあげていたようです。
この年は、ちょうど7ヶ月後の10月27日にも派遣されています。
夏 4月25日(己酉) 越後(新潟県)の蝦夷106人に、各自差をつけて爵を賜った。
太平洋側を「蝦夷」、日本海側を「蝦狄」と『続日本紀』では当初は区別して書き分けていましたが、この記事では越後にもかかわらず「蝦夷」という表記になっています。
「爵」とは、ここでは位や冠位を指すものと思われます。
蝦夷への懐柔策ですね。
征服しようとするだけでなく、位を授けて統治機構に取り込む方法もとられていたことがわかります。
故人を賞する詔
5月8日(辛酉) 詔に曰く「勲位を議することは前修より肇め(昔の名君の時代から始まり)不朽の名を著すところである。
汝、坂上忌寸老は、壬申の年の軍役に一生をかえりみず社稷(国家、朝廷)の急に赴き、万死を出て国難をこうむる。しかし、まだ顕秩(高い位)を加えぬままに、たちまちに死んでしまった。去っていった魂をいつくしみ、冥路をなぐさめようと思う。ここに直広壱(従四位下相当)を賜い、物を賜うべし。」
天皇が、壬申の乱で功績(武勲)のあった臣下を褒め称え、冠位を上げ、物を授けました。
壬申の乱は、この時点から27年前のできごとで、文武天皇の祖父である天武天皇が起こしたクーデターです。皇位継承問題から発した武力衝突で、乱を起こした側が正統者を倒したという、日本においては他に類がない事件です。
乱の勝利に貢献した人を賞する記事は他にも何度か出てきますが、天皇の詔とともに掲載されるのはこの条だけです。
よほど大きな功績があったのでしょうか?
ともかく、貴重な資料ですね♨️
坂上老は、蝦夷平定に活躍した征夷大将軍・坂上田村麻呂の先祖で、高祖父(祖父の祖父)にあたります。この時代から坂上氏は、軍事に長けた一族だったことがわかります。
修験道の祖・役小角の流罪
5月24日(丁丑) 役君小角を伊豆島に流罪とした。初め小角は、葛木山に住み、呪術をもって称賛されていた。外従五位下韓国連広足は、小角を師とした。のちに小角は、その能力を悪用し、人を陥れるために妖惑を使用した。そのため遠い地へ流されることとなった。世間が伝えていうには、小角はたくみに鬼神を使役して、水をくみ、薪をとらせた。もし命令に従わなければ、呪術でこれを縛りつけたという。
役小角は、今に伝わる修験道の祖とされる人物です。
修験道とは、日本にもともとあった山岳信仰が、神・仏教・道教(自然との調和や精神修行を通じて不老不死や悟りを追求する宗教)と融合したものです。
山中における修行の中で、神仏の力を授かり、仙人のような超自然的存在になることを目指す宗教であり、この修行者を修験者や行者といいます。神仏の融合という点において、日本のみの伝統であり、世界で唯一の存在といえるでしょう。
日本の国土のほとんどは山地だと習った気がします。
きっと山岳信仰が発展する地理的要因があったのですね♨️
大峰山で修験道を修めた小角は、蔵王権現(神仏や仙人が融合した象徴的存在のこと)を感得し、『続日本紀』の伝える、鬼神を操るような超自然的な力を手にしたといわれています。
それにしても、蔵王権現という徳の高い能力を得ていながら、鬼神を操って「水をくみ、薪をとらせた」とは、、
なぜそんな使い走りみたいなことを?
6月15日(戊戌) 山田寺に30年を期限として、封300戸を施した。
山田寺は、蘇我氏の氏寺です。
蘇我氏の本家は、大化の改新(645)のさなか滅ぼされましたが(乙巳の変)、分家は勢力を維持しました。蘇我氏の女性が天皇に嫁ぎ、持統天皇や元明天皇といった、のちに女帝として即位することとなる女性を産んでいます。
そのため、山田寺は朝廷が大きなスポンサーとなって繁栄していたことと思われます。
6月23日(丙午) 浄広参日向王が卒した。弔問の使いを遣わして物を贈った。
6月24日(丁未) 直冠以下159名に命じて、日向王の邸宅において葬儀に出席させた。
日向王は、出自・年齢・事績ともに不明です。浄広参は、正五位下相当。
直冠以下(正四位上以下)159名という大人数を葬儀に出席させるような人物でありながら、「皇族である」ということ以外分かりません。
「卒」の詳細は、文武天皇2年④ 参照。
6月27日(庚戌) 浄大肆春日王が卒した。弔問の使いを使わして物を贈った。
天智天皇の孫にあたる、春日王という同名人物がいますが、別人です。
春日王も日向王と同じく出自等の情報が不明です。ただし日向王と違い、大勢を葬儀に出席させたという記事はありません。
皇族であっても、出自不明ということがあるんですね。
参考書籍など
次回予告
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