こんにちは、みちのくです☀️
今回から年が変わって大宝2年(702)です。文武天皇の在位は697年から707年の10年間なので、この年で折り返しに入ります。
今までずっと『続日本紀』の記事を追ってきたので、長かったような気がしますが、もう折り返し!?という感もあります。
兎にも角にも今回もよろしくお願いします!
大宝2年(西暦702年)現代語訳・解説
朝賀、朝服と礼服
春 正月1日(己巳) 天皇は大極殿に御し、朝賀を受け給われた。親王及び大納言以上は初めて礼服を着用し、王臣(ここでは親王以外の皇族と臣下)たちは朝服を着用した。
大納言以上とのことですが、このとき太政大臣と左大臣は欠員となっていたため、公卿で礼服を着用したのは右大臣阿倍御主人と大納言石上麻呂、藤原不比等、紀麻呂の4名でした。
礼服(らいぶく)と朝服
礼服は現在の語と同様、儀礼で着用される服です。今回の朝賀で親王と大納言以上しか着用せず、王臣の物がなかったのは、おそらく制作が間に合わなかったのだろうといわれています
臣下全員分となるとかなりの数が必要ですからね
「この人は礼服だけど、この人は朝服」ではまとまりもわるいですし、、
朝服は、位階のある官人が朝廷に出仕し、普段の執務に着用するものです。史料上の初見は『日本書紀』天武天皇14年7月26日(庚午)条で、朝服の色がこのときに定められたとのことです。
朝廷で着用するから「朝服」なんですね!
ちなみに「位階のない官人」の服は朝服と呼ばず、また、庶民の服をあわせて制服と呼んで区別していました。
ヒイラギの献上、駅家設置
正月8日(丙子) 造宮職が杠谷樹の樹長八尋(非常に大きいこと)のものを献上した。【俗に比比良木という】
比比良木、つまり柊(ヒイラギ)です。柊の葉はギザギザとトゲのある形をしていて、魔除けになるとされてきました。その名の由来は古語動詞の「ひいらぐ」にあり、ずきずきと疼くように痛む…という意味です。
きれいな柊には…トゲがあるのさ
魔除けに相応しく、柊には薬用効果もあるとされ、抗炎症・抗菌・解熱作用があり民間療法として伝統的に利用されてきました。
正月10日(戊寅) 初めて紀伊国(和歌山県)に賀陀駅家を設置した。
駅家とは、国の使者や出張など公の旅行者が全国を移動するために建てられた交通の拠点です。
中央と地方を結ぶ当時の連絡道路のことを駅路といい、駅家は主に使者たちの休息・宿泊ために使われ、移動のための馬の管理が行われていました。
緊急のさいには1日に10駅以上を移動すると定められました。
原則、駅家は30里(16km)ごとに設置されるので、緊急時は160km以上を1日で移動したということですね。
律令 厩牧令
14 須置駅条(駅の設置に関する条)
凡そ諸道に駅を置くには、30里ごとに一駅を置け。もし地勢が険しく、(牛馬の飼料となる)水や草がないようなところでは、この規定にかかわらず利便に従って良い場所を選ぶこと。(以下略)(1里は約500m)
お馬さん、1日でそんなにダッシュできるものなんですか??
1頭の馬で駆け抜けるわけではなく、各地の駅家に別の馬がいるのでそこで乗り換えるのです。
!!!💡
賀陀は現在の和歌山市加太で、大阪府と接している県境地区です。
海辺の港町ですね!前年(大宝元年9月18日条)に文武天皇が紀伊国の温泉を行幸されましたが、紀伊は本当にきれいなところがたくさんですね🧡
そうですね、加太は当時の交通の要所になっていて、おそらく前年の行幸の時にも天皇の船団はここに停泊されたのではないでしょうか。
また、万葉集に歌われた地でもあります♨️
五帝(五常)太平楽の演奏
正月15日(癸未) 群臣を招き西閣において宴した。五帝太平楽を演奏した。歓を極めて終わった。各自差をつけて物を賜った。
五帝太平楽は、雅楽の楽曲です。
「五帝太平楽」という楽曲は現在はありませんが、「五常楽」、「太平楽」の2曲が現存し、「五帝」ではなく「五常」であり、これらが演奏されたものかといわれています。
「帝」と「常」って字面が似てますから、案外そういう単純な理由で混乱があったのかも?
今では、主として宮内庁式部職楽部によって天皇の即位や皇室の慶事のさいに奏されています。平安時代には曲の形式が完成し、ほぼ形を変えることなく伝承され続けています。
太平楽においては剣舞が行われますが、これは中国最初の統一王朝「秦」崩壊後の覇権を争った項羽と劉邦の物語にみえる「鴻門の会」の一幕が題材になっています。
会の宴席で剣舞が披露されました。そのとき、項羽の部下が剣舞に乗じ劉邦を暗殺しようとするも、項羽の叔父にあたる項伯が察知し剣舞に入り込み、同じく舞いを演じながら殺害を阻止したという逸話があります。太平楽の剣舞はこの様子を演じているのです。
楽器の演奏だけでなく、舞いも合わせての音楽が「雅楽」なんですね!
朝廷には「雅楽寮」という役所がありました。その読みは「うたまいのつかさ」。
音楽と舞はセットだったということが名前からも分かります。
大宝令において雅楽寮は、音楽を国家の枠に組み入れ、国の慶事や祭祀に奉仕させ、その技術を体系的に伝承させました。
任官記事、僧正など任命の詔
正月17日(乙酉) 従三位大伴宿禰安麻呂を式部卿に任命した。
正五位下美努王を左京大夫に、正五位上布勢臣耳麻呂を摂津大夫に任命した。
従五位下当麻真人橘を斎宮頭に、従四位上大神朝臣高市麻呂を長門守に任命した。
正六位上息長真人子老・丹比間人宿禰足島に従五位下を授けた。
大伴安麻呂
大伴安麻呂は、前年(大宝元年)正月に亡くなった贈右大臣・大伴御行の弟です。
対馬の金の発掘詐欺に遭った人ですね…
(大宝元年8月7日条参照)
兄の死去により安麻呂は大伴氏のリーダー(氏上)になっていました。
式部卿は式部省の長官で、官人の人事全般や大学における官僚の養成などを管掌していました。
また、万葉歌人としても有名で、3首が掲載されています。
安麻呂の子の旅人や、さらにその子の家持もまた、万葉集の歌人として有名です。
『万葉集』巻第3 雑歌 歌番号:299
大納言大伴卿が歌一首奥山の菅の葉しのぎ降る雪の消なば惜しけむ雨な降りそね
(現代語訳)
奥山の菅の葉を覆って降りしきる雪が消えてしまえば惜しいことだろう。雨よどうか降らないでほしい。
雪化粧をした山の美しさがいつまでも続いてくれないかな…という率直な気持ちが込められた歌ですね。安麻呂さんの気持ち、わかります!
美努王
美努王は、のちの奈良時代に藤原氏に代わって一時的に権力を掌握した橘諸兄の父です。左京大夫、つまり藤原京の左半分(左京)の行政をつかさどる役所の長官に任命されました。
美努王は「王」の名の示すように皇族ですが、文武天皇とは遠縁です。
橘氏は、「源平藤橘(源氏・平氏・藤原氏・橘氏の4氏)」と総称されるように、日本の政治の中枢にいて、のちの多くの家の祖となった氏族のひとつとされています。
この4氏のうち、源・平・橘はみな天皇から別れました。
いずみさん、藤原氏のルーツは覚えていますか?
藤原氏の最初は、天智天皇から藤原姓を授けられた中臣鎌足でしたね!
そう、そして中臣鎌足のご先祖は天皇ではなく、天児屋命という神様です。
先祖が神につながる氏族のことを「神別氏族」といいます。
でも天皇さまも天照大神から別れてるので神別氏族なのでは?
天皇は氏族ではないのです。ただし、天皇も神につながるわけですから、そういう意味では「神別」と言っていいかもしれませんね。
正月25日(癸巳) 詔により、智淵法師を僧正に、善往法師を大僧都に、弁照法師を少僧都に、僧照法師を律師に任命した。
官人の位階制度だけでなく、僧侶にも階級がありました。
この記事にあるように、上から僧正 僧都 律師の順番です。
法師というのはまた別の階級や地位だったりするのですか?
「法師」は単に僧侶という以上の意味はありません。
善往法師は『日本書紀』にも登場します。
『日本書紀』
持統天皇7年(693)11月14日(己亥) 沙門法員・善往・真義らを遣わして、近江国益須郡(滋賀県野洲郡)の醴泉をためしにお飲ませになった。
で、味は!?
日本書紀は沈黙しています、、
「こさけのいずみ」と読ませていることから、お酒のような、甘酒のような水だったのかもしれません。「醴」の訓読みも「あまざけ」ですね。
大宝律の頒布、疫病、大幣帛の班幣
2月1日(戊戌) 初めて新律(大宝律)を天下に頒布した。
律令の「律」は今でいう刑法のことです。
2月13日(庚戌) 越後国に疫病が流行した。医薬を送って治療させた。
この日、大幣帛を班つために諸国の国造(各地の有力豪族)たちを馳駅(緊急の通行。飛駅ともいう)により藤原京に召した。
幣帛(へいはく、みてぐら)は、神様にお供えする品全般を指していう言葉です。この幣帛を複数の神社に分(班)けて奉納することを班幣といいます。
2月は「祈年祭(きねんさい、としごいのまつり)」という、今年1年の豊作を神様にお祈りする国家の祭祀が行われるのです。記事中に祈年祭と書かれてはいませんが、おそらくはこれでしょう。
律令の「神祇令」には次のように規定されています。
神祇令 9(季冬条)
祈年・月次の祭には、百官は神祇官に集まれ。中臣は祝詞を宣り、忌部は幣帛を班て。
このように、祈年祭は、幣帛を諸国の神社に班幣することが、その大きな意義だったと考えられます。
緊急で呼び出された理由はよくわかりませんが、新しい律令の施行にかかわって、祈年祭をいつやるのか直前まで決まらなかったとか、そういった理由かもしれません。
そういえば、前年(大宝元年11月8日)に「造大幣司」という役所が急に出てきましたね。慌しかったんでしょうね、、
2月19日(丙辰) 諸国の大租・駅起稲・義倉・兵器の数を記した文書を初めて弁官(公文書を処理する実務官)に送付した。
と、このように「初めて」のことがこの時期には多数あり、官民そろって多くの人が戸惑いと混乱の中にあったとみられます。
律令制は現代社会にも通じ、法律と文書により統治する仕組みです。それはもう大量の文書が京や地方から中央に届いたことでしょう。
国師の任命、梓弓
2月20日(丁巳) 諸国の国師を任命した。
国師は、国ごとに1人置かれる僧侶で、その国の僧侶に関する行政を監督しました。
2月22日(己未) 歌斐国(甲斐国、山梨県)が梓弓500張を献上した。これを太宰府に充てることとした。
この日、伊太祁曽・大屋都比賣・都麻都比賣の三神の社を分かち遷した。
太宰府は、新羅や中国(唐)などの外国と日本との玄関口として機能していましたが、これらの国からの軍事侵略を想定し防備を整えていました。甲斐や信濃(長野)などのいわゆる「東国」は良質な梓の材木が採れるため、梓で作られた弓が豊富に生産されていました。
その太宰府におもむいて国の防衛にあたるのは、一応の決まりとして各国から兵士を「防人」として徴集することとなっていましたが、実際には主に東国から集められたといわれています。
どうしてわざわざ太宰府から遠く離れた東国から集められていたのでしょうか?
律令制が導入される以前から、大和政権の武力の基盤として東国の人々は重宝されていたようです。特に弓馬の技術に優れており、梓弓の産地であることとも関連があるでしょう。
そういえば、歴史全体を見てみても、東国は蝦夷が長い間抵抗したり、源頼朝や徳川家が鎌倉や江戸に幕府を建てたりなど「武人」に関わる事実が豊富ですよね。
『万葉集』には「防人歌」としてジャンル分けされており、84首もの歌が収録されています。
『万葉集』巻第14 防人歌 歌番号:3567
置きて行かば妹ばま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも
(現代語訳)
置いて行ってしまったら、あなたが心にかかり愛しくてたまらなくなるでしょう。あなたが持っていく梓弓の持ち手であったら良いだろうに。
梓弓は防人の手慣れた武器だったことがこの1首だけでわかりますね。
弓を「妹」になぞらえる。つまり、いつも手放さず持っているということですからね。
それにしても徴兵…つらいですね。この人はまた愛しの人に会えたのでしょうか…。
幸いにも、唐とも新羅とも戦争をすることはなかったようですが…。
正倉院宝物にも「梓弓 第1号〜第3号」の3張の梓弓が収蔵されています。
国司に倉庫のカギを支給
2月28日(乙丑) 諸国の国司に初めて鑰(かぎ、錠前)を支給して、任地へ向かわせた。【これより以前においては、税司が鑰のことを管理していたが、ここに至って国司に給うこととしたのである。】
税とはここでは租税をいうので、税司の管理していたカギ、つまり稲を収める蔵の鍵ですね。
参考書籍など
次の記事
今回もありがとうございました!♨️
↓のバナーから次の記事にジャンプできます!
コメント