【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝元年⑥ 紀伊国行幸、皇嗣・首皇子誕生

大宝
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回は大宝元年の年末までの記事をとりあげていきます。

いずみ
いずみ

6回目でようやく大宝元年ラストまで来ましたね…!なかなか大変でした。

大宝元年(西暦701年)現代語訳・解説

明法博士、皇親の給与

8月8日(戊申つちのえさる) 明法みょうぼう博士を六道に派遣し【西海道を除く】、新令(大宝令)を講義させた。

8月9日(己酉つちのととり) 皇親(皇族)の、年が満ちた者は、官職に就いているかどうかを問わず、全員に禄(給与)を支給することとした。

明法博士は、法律専門の学者です。大宝の時代には臨時の官でしたが、聖武天皇の時代に常置の官職となりました。

いずみ
いずみ

法に明るいから明法博士なんですね!

「年が満ちた者」が具体的に何歳なのかは明らかではないですが、これは成人を意味するものとおもわれます。当時は今のように画一的に○歳で成人という定めはありませんでしたが、10歳〜15歳が成人年齢だったようです。

みちのく
みちのく

ちなみに皇親とは、天皇の子(親王)から数えて4世代までと律令に規定されています!

いずみ
いずみ

皇族はやっぱり貴族以上に優遇されてるみたいですね!
4世代だから、天皇の子・孫・曾孫・玄孫までが皇族か

みちのく
みちのく

職についていなくても禄を支給するというのは、皇族の品位を保つための施策と思います。しかし、皇族数が増えると国の経済負担が大きくなるという影響が出てきてしまいます。

全国的な災害、行幸のための行宮造営

8月14日(甲寅きのえとら) 播磨、淡路、紀伊の3国が次のように言上した。「台風が吹き、潮により田園が損傷しました。」よって、使いを遣わして農桑を巡見し、百姓に状況を問わせた。
 また、使いを河内、摂津、紀伊の3国に遣わして行宮(天皇が行幸先で宿泊する仮設の宮)を造営させ、併せて御船38艘を造らせた。あらかじめ水行に備えるためである。

8月21日(辛酉かのととり) 参河、遠江、相模、近江、信濃、越前、佐渡、但馬、伯耆、出雲、備前、安芸、周防、長門、紀伊、讃岐、伊予の17国にイナゴと台風の被害があった。百姓の盧舎を壊し、秋稼(収穫)を毀損した。
 詔により、従五位下調忌寸老人に正五位を贈った。律令の撰修に貢献したためである。

みちのく
みちのく

行宮の造営は、9月に行われる紀伊国行幸のための準備ですね。

いずみ
いずみ

造船も行幸のためですか?
ということは海路をとったということですね!

みちのく
みちのく

はい、難波津から船で南下して紀伊国に向かうのでしょう。

高安城、廃城

8月26日(丙寅ひのえとら) 高安城たかやすのきを廃した。その舎屋と種々の物は、大倭(大和。奈良)・河内(大阪)の2国に移し貯蔵した。
 諸国に衛士えじを徴集させ、衛門府に配置させた。

高安城は天智天皇5年(666年。『日本書紀』は天智天皇6年とする)、主に大陸や朝鮮半島からの侵攻に備え大和の地を防衛するためにつくられました。当時の背景としては、663年に唐・新羅vs百済・日本という構図で戦争をし、これに大敗したという経緯があります(白村江の戦い)。

文武天皇2(698)年8月、同3年(699)9月に高安城を修理したという記事があります。

いずみ
いずみ

2年連続修理のすえに廃城。維持が難しくなったのか、
それ以上に維持する必要がなくなったのでしょうか?

みちのく
みちのく

山城は文字通り山を利用した自然の要塞ですから、修理に動員する人や物資を運ぶのも大変だったでしょう。それに、唐や新羅ともすでに関係を改善して久しいので、いずみさんの考えるように、そもそも必要がなくなったのかもしれません。

9月9日(戊寅つちのえとら) 諸国に使いを派遣して、産業を視察させた。百姓を賑恤しんじゅつ(恵みを施すこと)させた。

これは、タイミング的に行幸で訪れる紀伊国か、経由する河内国で行われたものでしょうか。

紀伊行幸

9月18日(丁亥ひのとい) 天皇は紀伊きい(和歌山県)に行幸した。

冬 10月8日(丁未ひのとひつじ) 車駕しゃが(行幸における天皇の呼称)武漏むろの温泉に至った。

いずみ
いずみ

藤原京から紀伊国まで20日の行程、長旅でしたね…!
大和国と紀伊国はお隣ですが、近くて遠そうなイメージです。

みちのく
みちのく

8月14日に船を用意していたように、海路をとったものと思いますが、当時はもちろんエンジンはなく人力が主です。1日で進める距離は30km程度だったそうです。まして天皇を乗せて38船の船団での旅程ですから、時間はかかりますよね。

武漏の温泉は、和歌山県南部の西牟婁郡白浜町で、現在でも「牟婁むろの湯」として入湯可能です。

この温泉は『日本書紀』の斉明さいめい天皇紀にも登場します。

いずみ
いずみ

斉明天皇の時代ということは、1350年以上もの歴史があるんですね!

みちのく
みちのく

はい。斉明天皇3年(657)9月、孝徳天皇の子である有間皇子が牟婁の湯を訪れ、
「あの辺りの景色を少し見ただけで、病がひとりでに消え去ってしまったようです」と斉明天皇に報告したとあります。これを喜んだ天皇もまた、牟婁を訪れたといいます。

いずみ
いずみ

天皇、皇族に湯治の実績があったわけですね。
そんなに素晴らしい景色なら私も行ってみたいです!

10月9日(戊申つちのえさる) 行幸に従った官人と、国司・郡司の位階を進め、並びに衣服を下賜した。及び国内の高齢者に、それぞれ差をつけて稲を賜った。
 並びに今年の租・調と、正税しょうぜいの利息の支払いを免除した。武漏郡については、正税の元本分も免除することとした。
 罪人を曲赦(特定地域の罪人のみを赦すこと。ここでは武漏郡)した。

10月19日(戊午つちのえうま) 車駕は、紀伊国より還った。

10月20日(己未つちのとひつじ) 行幸に従った諸国の騎士には、今年の調・庸及び担夫には田租を免じた。

正税とは稲によって納める税ですが、国には稲を民間に貸付けて、その利息を徴収する出挙すいこという制度がありました。今回は行幸先の紀伊国の民に対して、その利息の支払いを免除したということです。

特に武漏郡に対しては、利息分のみならず、貸し付けた稲の元本分も全て返済不要としました。

大赦、造大幣司、弾正台

11月4日(壬申みずのえさる) 天下に大赦した。ただし、盗人はこの赦に入れなかった。老人、病人及び僧尼に各自差をつけて物を賜った。

11月8日(丙子ひのえね) 初めて造大幣司ぞうだいへいしを任命した。正五位下彌努みぬ・従五位下引田朝臣爾閇にえを長官とした。

いずみ
いずみ

造大幣司…貨幣の製造を担当したところでしょうか?

みちのく
みちのく

この場合の「幣」は貨幣ではなく、神事に使われる幣帛へいはくのことのようです。
幣帛とは、神前にたてまつるお供え物のことです。
律令には規定がないため、具体的にどのような官司なのかは不明です。

11月9日(丁丑ひのとうし) 弾正台だんじょうだいに畿内を巡察させた。

弾正台の職掌は、大宝律令の職員令しきいんりょうに以下のように規定されています。

職員令

いん(長官)1人。職掌は、風俗(官人の綱紀粛正)しずめ清めて、内外の非違をただし奏さむ事。
ひつ(次官)1人、大忠(三等官)1人。職掌は、内外を巡察して、非違をただし弾さむこと。

この場合の風俗というのは、民衆の生活場面ではなく、あくまで行政や官人に対する綱紀粛正を意味しています。弾正台は一応、太政官の指揮下になく独立しているため、仕組み上は大臣の不正などを奏上できることとなっていますが、実態としてはあまり機能していなかったようです。

太政官処分(罪人の放免方法について)

11月17日(乙酉きのととり) 太政官は次のように処分した。「従来、罪を恩赦する日は、例によれば罪人を引率して朝庭ちょうていに集めさせていたが、今後はこのようなことがあってはならない。赦の令が下ったあとは、所司により罪人を放つこと」と。

朝庭とは、内裏だいり(天皇の御所)の中にあって儀式などの場として使用される広場です。

みちのく
みちのく

罪とはケガレであり、宮廷で最も忌避されるものです。
罪人はケガレを身にまとう者。そういった人を内裏に入れてはならないということですね。

皇族・公卿・貴族の夫人の服制

12月10日(戊申つちのえさる) 王卿たちに袋の見本を賜った。

いずみ
いずみ

何の袋ですか?

みちのく
みちのく

高位の官人(ここでは皇族と公卿)が朝廷の儀式や行事のとき、腰ベルトの右側に提げる飾り袋のことで、魚袋(ぎょたい)といいました。

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」
いずみ
いずみ

ちょっとイメージしてたのと違いました!袋というよりはケースのようですね。
お魚の飾りがついてるのがかわいいです!🧡

みちのく
みちのく

ただし、この魚袋は早くに廃止されてしまいました。
かわいいのに。

12月15日(癸丑みずのとうし) 次のように制した。「五位以上の者の妻は、夫と同じ服色を身につけてはならない。ただし、朝会の日は、夫の服色以下の色を身につけることを許す。」

官人の序列は服の色により区別がつけられるよう決められていました。
大宝元年3月21日条において、黒紫、赤紫、緋、緑、縹の順に高位となっています。

大伯内親王の薨去

12月27日(乙丑きのとうし) 大伯おおく内親王こうきょした。天武天皇の皇女である。

大伯内親王は天武天皇の皇女で、文武天皇からはおばにあたります。「大来」と表記される場合もあります。

史料に残る最初の伊勢の斎王

『日本書紀』によると、天武天皇2年(673年)4月、14歳のときに、伊勢神宮の天照大神に奉仕するため、約1年半にわたり泊瀬斎宮はつせのいつきのみや(奈良県桜井市初瀬)で潔斎けっさい(身を清め穢れを祓い、神に近づくこと)を行い、翌年10月に伊勢に遣わされました。

いずみ
いずみ

伊勢の斎王ですね!

みちのく
みちのく

はい、大伯内親王は史実上にみえる最初の斎王(または斎宮)です。
ただし起源としてはもっと古く、『日本書紀』崇神天皇6年、「天皇の居所に祀られていた天照大神を『倭の笠縫邑かさぬいのむら』に皇女の豊鍬入姫命とよすきいりひめのみことをつけて祀らせた」とあるのが始めといわれています。

伊勢に下って13年後の朱鳥元年(686年)9月9日、父の天武天皇が崩御。さらに、翌年の持統天皇元年(687年)10月3日、母を同じくする弟の大津皇子が謀反の罪で死を賜ったため、姉の大伯皇女は斎王を辞して京に退下たいげすることになりました。近親者が亡くなると斎王はその立場を去らなければならないのです。

」は神が最も忌み嫌う「穢れ」だからです。

この大津皇子の謀反事件は、無実であったとするのが通説です。

大伯内親王の万葉歌

みちのく
みちのく

大伯内親王と大津皇子きょうだいの間柄を『万葉集』でうかがい知ることができます。

『万葉集』巻第2 相聞歌(歌番号105,106)
大津皇子、ひそかに伊勢の神宮に下りて、上り来る時に、大伯皇女の作らす歌二首

我が背子せこを大和へるとさ更けて暁露あかつきつゆに我が立ち濡れし

ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ

(現代語訳)

大津皇子がひそかに姉のいる伊勢神宮に下って、飛鳥の宮に帰るときに、大伯皇女が作った歌二首

私の親しい弟を、大和へ帰すために見送っていると夜が更けて、夜明けの露で濡れるまで立ちつくしていた

ふたりで行っても通り過ぎるのが大変な秋の山を、どのようにしてあなたが1人で越えているのでしょうか

秋の夕暮れの山道(イメージ)
いずみ
いずみ

血のつながった姉と弟、とても仲がよかったんですね♨️
でも、なぜ大津皇子は「ひそかに」来なければならなかったのですか?

みちのく
みちのく

この歌が詠まれたときの背景を知ると判明します。
大津皇子は、天武天皇の忌中に斎王のもとを訪れたのです。

大津皇子は皇太子ではありませんでしたが、優秀な人物で周囲からの人望も厚かったため、密かに大津を次代の継承者に望む人もいました。そのため、我が子(草壁皇子)を継承者にすることを望む持統天皇(当時は皇后)から大いに警戒されていました。

いずみ
いずみ

おそらく大津皇子の行動は監視されていましたよね。そんな中で天皇の忌中にこっそり斎王の姉に会いにいくのは危険な行動ですね…。

みちのく
みちのく

万葉集に「ひそかに」会いに行っているはずのことがしっかり記録されているわけですからね。
この行いが謀反の罪を着せるための恰好のネタにされてしまったのかもしれません。

いずみ
いずみ

そもそもなぜ危険を冒してまで姉に会いに行ったのでしょうか?
もしかしたら、父(天武)が亡くなり、その後の自分の運命を悟ったのでしょうか…。だとしたら切ない。

そして、斎王を辞し伊勢を退下して京に戻る日、大伯内親王は次の歌を詠みました。

万葉集 巻第2 挽歌(歌番号163,164)
大津皇子の薨ぜし後に、大伯皇女、伊勢の斎宮より京に上る時に作らす歌二首

神風かむかぜの伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに

見まくり我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに

(現代語訳)

大津皇子が薨じたあと、大伯皇女が伊勢の斎宮から京に上るときに作った歌2首

神風が吹くという伊勢の国に居られたら良かったのに、私は何をしに帰ってきたのだろうか。もう君(大津皇子)もいないのに

会いたいと願う君ももういないのに、何をしに来たのだろうか、ただ馬が疲れるだけなのに

いずみ
いずみ

弟を失ったどうしようもない悲しみと、今はもう何も残っていないやるせなさが残る…。

みちのく
みちのく

京に退下して14年後、大伯内親王はこの世を去りました。
どのようにその後の人生を過ごされたのかは記録がなく不明です。

皇嗣・首皇子(のちの聖武天皇)の誕生

この年、夫人ぶにん藤原氏(宮子)に皇子首皇子おびとのみこ、のちの聖武天皇)が誕生した。

『聖武天皇像』 鎌倉時代・作者不詳
みちのく
みちのく

ついに文武天皇に皇子が生まれました☀️
首皇子、のちの聖武天皇です。

いずみ
いずみ

聖武天皇は全国の国分寺や奈良の東大寺、正倉院宝物などで一般的にも有名ですよね!待ち望まれた皇位継承者の誕生!✨

「この年」なので大宝元年の何月何日に誕生したのかは明らかにされていません。
天皇の生まれた日にちの記録がないことには驚きですが、当時の人は生まれた年はともかく、何月何日生まれかというのはあまり重視していなかったのかもしれません。

みちのく
みちのく

ここで文武天皇の系図を確認しておきましょう。

いずみ
いずみ

持統上皇からみると、聖武天皇は曾孫ですね。

みちのく
みちのく

翌年12月、持統上皇は崩御します。
想像ですが、自身の血統を受け継ぐ皇位継承者が誕生し、安息のうちに眠ることとなったのではないでしょうか。

ちなみに、のちに聖武天皇の皇后となる、光明皇后(光明子、藤原安宿媛)もこの年に誕生しました。光明子もまた、藤原宮子と同じく不比等の女子です。

参考書籍など

続日本紀(上)全現代語訳




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