こんにちは、みちのくです☀️
今回は大宝2年の6月から8月までの記事を取り上げています!
よろしくお願いします!!
大宝2年(西暦702年)現代語訳・解説
免税、疫病の発生
6月6日(壬寅) 大倭国(奈良県)の吉野・宇知2郡の百姓の税を免じた。
6月7日(癸卯) 上野国(群馬県)に疫病が発生した。そのため薬を支給してこれを救わせた。
突然の税の免除ですが、これは7月予定の天皇の吉野行幸が関係しているのかもしれません。
大伴安麻呂、参議につづいて兵部卿に
6月24日(庚申) 従三位大伴宿禰安麻呂を兵部卿に任命した。
大伴安麻呂は、大伴氏の代表者として5月に参議に任命され、今回は続いて兵部卿に任命。
兵部卿は兵部省の長官で、職掌は武官の人事に関すること、全国の軍団の統括、駅家・駅馬の管理など。軍事に関する職なので、古来から軍事で名を挙げた氏族が担当することが多かったようです。
大伴氏は律令時代よりはるか昔から軍人を多く輩出した氏族です☀️
軍団兵士の管理や全国の道路交通網を把握する要職で、競争率が高かったようです。
軍隊の掌握…穏やかではないですね…!
宮門に落雷
6月28日(甲子) 海犬養門に落雷があった。
藤原京の中心であり、天皇の御所や行政府の役所が1箇所に集められ、国家としての機能を集約していた空間が藤原宮で、その出入り口を宮城門といいます。宮城門は全てで12あり、海犬養門は北辺の西側に位置していました。
落雷は単なる災害ではなく、神の怒り「災異」なので、神の祭りを国家として行なっていた当時は、政治的にも大きな意味があるのです。
第8回遣唐使の出船
6月29日(乙丑) 遣唐使は去年筑紫から出船したが、風浪がにわかに激しくなり渡海することができなかった。そのためここに至って出発した。
遣唐使は、前年(大宝元年)4月12日、天皇に出発のお別れの挨拶をし、同年5月7日に最高責任者(遣唐執節使)である粟田真人が天皇から節刀を授けられました。しかし、結局悪天候のため海を渡ることはできず、1年以上経ってようやく出発することができました。
当時船旅は命懸けですからね…。
多くの学生や学問僧や、地位の高い官僚も乗船していますから致し方ない事情もあるでしょう。
ただ、このとき執節使である粟田真人は5月21日に参議として太政官に所属したばかりなんですよね。
連続する詔勅
その1 宮門通過時の下馬
秋 7月4日(己巳) 勅により、親王が乗馬したまま宮門に入ることを禁止した。
乗馬したまま内裏(天皇の居所)に進入するのは無礼ということですね。すべての親王ということですから、たとえ一品の長老親王であっても下馬して通行しなければならないことになりました。
のちに平安時代になると、馬ではないですが「牛車宣旨」といって、特別に牛車に乗ったまま宮門をくぐっても構わないという天皇の「お墨付」が登場しました。
その2 伊勢神宮封物の触穢、火雷神について
7月8日(癸酉) 次のように詔した。「伊勢太神宮の封物(土地と物品)は、神の御物である。よって神の供え物を扱うごとく、けがれに触れないようにすること。また、山背国(京都府)の乙訓坐火雷神は、旱のたびに祈雨を行ってきたが、しきりに効験がある。そのため大幣(祈念祭の幣帛)と月次祭の幣帛の例に入れること」。
山背国乙訓郡はのちの桓武天皇の時代、784年〜794年の10年間「長岡京」として都が置かれた場所です。火雷神が祭られているのは、この都の名をそのまま受け継いだ京都府長岡京市にある「角宮神社」です。
雷が鳴る→雨が降る なので雷神は雨をつかさどる神なんですね。
7月の上旬ということは今の暦だと8月半ばくらいということですね。
それは雨が降ってもらわないと困りますね!
その3 大宝令の読習
7月10日(乙亥) 詔により、内外の文武官に新令(大宝令)を読み習わせた。
詔というのは、天皇の御命令ですから、それだけ律令の全国普及が急務だったということでしょう。内外というのは、畿内国とそれ以外の国、要するに全国という意味です。
八蹄馬の献上
(続き)
美濃国大野郡(岐阜県大野町、瑞穂市、本巣市、揖斐川町、池田町など)の人、神人太が八蹄の馬を献上したため、稲千束を賜った。
蹄(ひづめ)というのは馬などの動物の足先にある大きな爪ですが、八蹄とは、蹄が8つあったということなのか(つまり、脚が8本あった??)、それとも「八」というのは蹄が大きいことを意味しているのか不明です。
「八」という数字は縁起が良く、たとえば有名な大国主神は別名「八千矛神」、日本列島の古名は「大八島国」など。また「八重」「八尋」のように数が多く、大きい様子を意味することがあります。
脚が8本は怖いので多分ひづめが大きかったんでしょう!!
天皇、2度目の吉野行幸
7月11日(丙子) 天皇は、吉野離宮に行幸した。
文武天皇の行幸は今回で2度目であり、前年(大宝元年)2月20日以来です。
吉野行幸をライフワーク?のように繰り返した、祖母であり先代天皇の持統上皇の意向が強かったのだと思います。
吉野は政権の聖地といえる場所だったんですよね!✨
大宝律の講義、罪人の赦免
7月30日(乙未) 初めて大宝律を講義した。この日、天下の罪人を赦免した。
律は刑罰を定めた法典です。令に比べてやや周知、浸透が遅れていたようです。
罪人赦免の理由は文武天皇の吉野行幸の関係でしょうか。
隼人の反乱
8月1日(丙申) 薩摩の多褹島が皇化を遠ざけ国家の命令に背いたため、兵を発して征討した。よって戸口を調査して官吏を常置した。
出雲狛に従五位下を授けた。
反乱!?これまた穏やかじゃないですね…!
当時の南九州に住んでいた隼人たちが政府に従わなかったのでしょう。
朝廷からみれば、率直に言って彼らは辺境の「蛮族」でした。
蝦夷と同じような扱いなんですね。
隼人が最初に国史に登場するのは『日本書紀』神代。海幸彦と山幸彦兄弟の物語です。
ここではかなり乱暴にまとめると、この2人が兄弟喧嘩をして、勝った弟(山幸彦)が天皇の直系の先祖となり、負けた兄(海幸彦)が隼人たちの先祖であるという神話です。
また、第22代清寧天皇の4年8月7日条に、隼人が蝦夷とともに服属したという記事があります。
天皇と隼人は同じ先祖を持つということですよね。なのに一方は辺境の蛮族…。
兄弟喧嘩はしちゃいけませんね…
今回の隼人の反乱は鎮圧され、その結果種子島に常駐の役人が設置。
律令にも「隼人司」という官司が設置され、隼人は律令体制に組み込まれています。
昔中学生の頃、テストで種子島はどちらか選べという問題があり、僕は迷わず左の島を選びました。左は屋久島なのですが、丸くてどう見てもそっちの方が種子島っぽいですよね。
今回の隼人征討ために発した軍が、律令制で規定されている「軍団」の初めての実戦だったといえます。
造大安寺司任命
8月4日(己亥) 正五位上高橋朝臣笠間を造大安寺司に任命した。
高橋笠間は、もともと第8回遣唐使の大使に任じられていました。しかし遣唐使は6月19日に出船しているため、笠間はどうやら同行しなかったようです。
大使なのに…??
解任されたという記事も特にありません。遣唐執節使という大使よりも上の立場である粟田真人がいるから問題なかったということでしょうか。
大和武尊(ヤマトタケル)の墓に落雷
8月5日(庚子) 駿河(静岡県)・下総(千葉県北部・茨城県南西部)の二国に台風があり、百姓の家屋を破壊した。稲の収穫を毀損した。
8月8日(癸卯) 倭建命の墓に落雷があった。使いを遣わして祭り鎮めた。
宮城門につづき、今度は皇族の…しかも英雄の墓に落雷ですか!?
不吉ですね。
ところでヤマトタケルのお墓は3箇所あるのですが、どのお墓に落雷があったのかはわかりません。
なぜお墓が3箇所も???
『日本書紀』によると、景行天皇治世43年のこととして、ヤマトタケルは東夷征討のさなか伊吹山の神の毒気によって病気になり、伊勢の能褒野で薨去され、そこに御陵を造ったとあります。
しかし、ヤマトタケルは白鳥に姿を変え飛び去り、倭(大和)の琴弾原にとどまっていたので、そこにも御陵を造った。その後白鳥は再び飛び去り、河内の旧市邑に行き着き、そこにもまた御陵を造った。この3箇所の御陵を名付けて「白鳥陵」といった。ついに白鳥は天に飛び去り消えていった。
というのが、ヤマトタケル薨去後の白鳥伝説です。
なので、この3箇所のどのお墓に落雷があったのかは不明なのです。
ちなみに、ヤマトタケルは天皇に即位していないので原則として「陵」ではなく「墓」とするのが正しいのですが、『日本書紀』では例外的にヤマトタケルの墓を「陵」と表記しています。
『続日本紀』では「墓」と表記し、現在でも皇室典範により、天皇・皇后などは「陵」とし、その他の皇族は「墓」と表記することと定められています。
『日本書紀』においては、ヤマトタケルは特に伝説の英雄ですから「陵」にしたんでしょうね!
勅(使部に禄の支給)
8月13日(戊申) 勅があった。五衛府の使部に、初めて兵衛に準じて禄(給与)を支給した。
五衛府は、宮城(天皇の居所)を護衛を担った職である、衛門府・左衛士府・右衛士府・左兵衛府・右兵衛府の総称です。
左右兵衛府は衛門府と左右衛士府に比べて職のとしての格は低かったようです。
使部とは雑用を任される下級役人ですが、「兵衛に準じて」とあることからも、待遇は良いとは言えなかったのでしょう。
太宰帥の任命
8月16日(辛亥) 正三位石上朝臣麻呂を太宰帥に任命した。
太宰帥は、太宰府の長官です。
石上麻呂は、大納言(左右大臣のひとつ下)という重職に就いていたため、太宰帥は兼職となりますが、実際には太宰府に行かず遙任(任命されるが赴任しないこと)だったと思われます。
麻呂は大納言に任命される前、文武天皇4年(700)10月15日に太宰帥の前身である「筑紫総領」に任じられたことがあり、その経歴を評価されての任官だったのでしょう。
遙任の場合あんまり経験とか関係なさそうな気もしますが…。
勅(伊勢神宮で製造される衣服の原資について)
8月28日(癸亥) 勅があった。伊勢太神宮の服に使われる材料は神戸の調を用いることとせよ。
服(はとり)とは機織りを専門にした職人で、「はとり」とは「はたおり」の音が変化したものです。
その機織りに使う糸・綿・絹などの物品は、神戸(伊勢神宮が租や調などを徴収することを許されていた人民)が納める調から調達せよということです。
参考書籍など
神代の時代をすべて現代語訳で読むことができます!
次回!?
今回はなかなかショッキングな記事が多かったですね!
そうですね、これらのできごとが「国史に収録されている意味」をよく考えて、当時の人たちの気持ちや考え方を意識しながら勉強していくと、学びがより深まるかもしれません。
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