こんにちは、みちのくです☀️
今回は、文武天皇治世2年(698)5月25日から8月26日までの記事を解説します。
太宰府の古代山城、日蝕、藤原氏・中臣氏などについて取り上げているよ。
よろしくお願いします♨️
文武天皇2年(西暦698年)現代語訳・解説
太宰府の古代山城 大野・基肄・鞠智
5月25日(甲申) 太宰府に、大野・基肄・鞠智の三城を修繕させた。
太宰府は、中国(唐)や朝鮮(新羅)に対する国家防衛の要所であると同時に、これらの国の外交使節受け入れを担っていました。
修繕をしたということは、
唐や新羅に侵攻される危険があったということですか?
そう。このときから35年前、日本は唐・新羅連合軍と戦いました(白村江の戦い)。
その戦いに負けた日本は本土での戦いに備え、防備を整える必要に迫られたのです。
それで3つもつくったんですね…
大野城跡
基肄城跡
鞠智城跡
3つのお城、全部山の中につくられていますね!
何気に全部場所が特定されてるのがすごい…✨
山は見晴らしもよく、海から攻めてくる船が発見しやすいこと。
急な斜面や曲がりくねった道は敵に攻められにくく、天然の砦になること。
山頂に立つ建造物は敵に対して威を示すことができる…など利点が多いのです。
このように、山の地形を利用して建てた城を山城といいます。
三城のうち太宰府から最も遠く離れた鞠智城は、遺構が多く発見され、百済の影響を受けたと思われる八角形の建造物が復元されています。
日本のお城というと、町中にあって天守閣があるようなのを想像しますが、
それとはずいぶん趣が異なりますね!✨
行ってみたい!✨
献上記事、律令における薨・卒
6月8日(丙申) 近江国が、白樊石を献上した。
6月14日(壬寅) 越後の蝦狄が、方物を献上した。
白樊とは、ミョウバンのことです。
衣服の染色にさいし、色を布の繊維に定着させるための薬品(媒染剤)として用いられたようです。
6月29日(丁巳) 直広参田中朝臣足麿が卒した。詔により、直広壱を贈った。壬申の乱の功があったからである。
卒するとは、四位または五位の官人が死亡することです。
「卒」の字には、「終わる」という意味があって、
それが転じて亡くなるという意味でも使われるようです!
(説明取られた…)
律令(当時の法令)の、喪葬令→薨奏条には、次のような規定があります。
凡そ百官身亡しなば、親王及び三位以上は薨と称せよ。五位以上及び皇親(皇族)は卒と称せよ。六位以下、庶人に達るまでは、死と称せよ。
『日本思想大系3 律令』 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫 岩波書店 p,438
(現代語訳)
官人が亡くなったときは、親王及び三位以上は「薨」と称すること。五位以上及び皇族は「卒」と称すること。六位以下から庶民にいたるまでは、「死」と称すること。
「薨」は「貴人が死ぬ」という意味の漢字です。
現在でも、皇族が亡くなったときには「薨去」という語が使われることがあります。
「薨」という字、よく見たら「死」の字が入ってますね!(目をこらす)
よく見てますね〜👏
ちなみに、天皇が亡くなったときは「崩御」といいます。
覚えておきます!
律令における日蝕、奴婢蔵匿の罪、風紀の取り締まり
秋 7月1日(己未) 日蝕があった。
日蝕(日食)があると、天皇や朝廷に出仕する官人は政務や業務を停止します。
律令の、儀制令→太陽虧条には、次のような規定があります。
令 巻第七 儀制令 7
『日本思想大系3 律令』 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫 岩波書店 p,345
凡そ太陽虧けば、有司預め奏せよ。皇帝事を視さず。百官各本司を守れ。務を理めず、時を過して乃し罷れ。
(現代語訳)
日蝕のときは、担当の官司(陰陽寮)はあらかじめ奏上すること。天皇は政務をおとりにならない。官人たちはそれぞれ所轄の官司を守ること。業務は停止して、日蝕が終わるのを待ってから退庁すること。
日蝕とは、天変です。
太陽が虧(欠)けるということは、日の神の力が弱まることと同じです。
日の神=天照大御神です!☀️天皇は日の神の子孫であるため、
日蝕は不吉な現象であり、この日は政務をとらないのです。
天皇様は天照大御神、お天道様のご子孫…
なんだか自然と頭が下がりますね♨️
7月7日(乙丑) 公私の奴婢が民間に逃げ隠れ、これを知りながらかくまって報告しなかった者がいた。そのため、ここに初めて笞の法を制し、その功を償わせた。詳細は別式に記載がある。
また、博打をして遊び暮らす者(博戯遊手の徒)を取り締まり、その場所を提供する主人(居停)もまた同罪とした。
奴婢とは奴隷のことです。「奴」は男の奴隷、「婢」は女の奴隷です。
当時、公有・私有を問わず、奴婢の保有は制度として認められていました。
「笞」とは鞭(ムチ)であり、すなわちムチで叩く刑罰です。
「その功を償わせた」とあるのは、奴婢が逃げたことによって失われた労働の利益(功)を弁償させたという意味です。
逃げた奴婢ではなく、かくまって隠していた人が罰せられたんですね。
国守任官、藤原姓継承特権の詔
7月25日(癸未) 直広肆高橋朝臣島麻呂を伊勢守に、直広肆石川朝臣小老を美濃守に任命した。
『続日本紀』にみえる最初の国守任命記事です。
○○守とは今でいう都道府県知事のようなものですが、現在と違うのは、全て中央政府から派遣される五位以上の貴族という点です。
【五位以上=貴族】は覚えておくといいです☀️
(ただし、698年時点では位階制度は未施行です)
8月19日(丙午) 詔に曰く、「藤原朝臣(鎌足)に賜うところの姓は、その子である不比等が受け継ぐこと。ただし、意美麻呂たちは神事に奉仕することをもって旧姓(中臣)に復すること。」
「藤原」の氏は、669年に、天智天皇が中臣鎌足に授けました。
藤原氏の始まりですね♨️
中学校の歴史で習いました!
藤原「朝臣」というのは、藤原氏に授けられた称号と考えると良いです☀️
「藤原氏」は、鎌足の子である不比等と、養子である意美麻呂が継ぎましたが、このたび「藤原」の名は不比等とその子孫のみが継承せよ、という詔が下されました。
その理由は、「家業」を分業するためです。当時は氏族ごとに担当する職が決まっており、もともと中臣氏は神事に奉仕する氏族でした。
藤原は政治を、中臣は神事を担当すべしとここで決定されたということですね。
なんとなく、本音が隠れて建前が前に出ている気がしますが…
兄弟である意美麻呂を排除して「藤原」の名を
独占したいという意図もあったかもしれません。
天皇の詔として言わせるあたり、不比等さんが強すぎますね。
高安城、朝議の礼の制定
8月20日(丁未) 高安城を修理した。天智天皇5年に築城したものである
高安城は、大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境にありました。
ちなみに、「天智天皇5年に築城」とありますが、日本書紀には「天智天皇6年に築城」とあります。
天智天皇5年とは、先にも述べた「白村江の戦い」の3年後。
この城もやはり国防を意図してつくられたものでしょう。
交通の要所でもあるため、地方豪族の支配の面でも有用でした。
高安城は、今のところ明確な遺構・遺跡は発見されていないようです。
8月26日(癸丑) 朝儀の礼を定めた。その内容は別式に詳しい。
別式に詳しく書かれているとのことですが、その「別式」は現在では失われていると思われ、詳細は不明です。
「朝儀の礼」とは、朝廷で行われる儀式の礼法・所作であり、これを詳しく定めたものと思われます。
おそらく、のちの大宝元年(西暦701年)に定められる「大宝律令」に規定されていることと大差はないと思います。
参考書籍など
次回予告
文武天皇2年(698年)9月から12月までをとりあげます☀️
即位にかかわる大祭である「大嘗祭」が登場します!
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