
こんにちは、みちのくです☀️
今回のメインは「国覓使」という、まだ見ぬ未開の地を探し求める使者の話です。

大航海時代が到来するのでしょうか。
文武天皇2年(西暦698年)現代語訳・解説 4月〜5月
疫病(近江・紀伊)

夏 4月3日(壬辰) 近江(滋賀県)・紀伊(和歌山県)の2国に疫病が流行したため、医師と薬を支給して治療させた。
近江紀伊二國疫。給醫藥療之。
3月7日には越後国でも疫病が発生し、医師と薬が支給されています。
各地で相次いで疫病が報告されていますが、これらが同一の疫病の流行であったかは明らかではありません。
賜姓(香登臣)
(続き)
侏儒である備前国(岡山県南東部)の人、秦大兄に香登臣の氏姓を賜った。
侏儒備前國人秦大兄。賜姓香登臣。
侏儒(しゅじゅ、ひきひと)とは、背丈が著しく低い人のことです。
香登臣(かと の おみ)
氏姓(しせい、うじかばね)は「賜った」という文言から分かるように、天皇から賜るもので、「賜姓」といいます。
秦大兄に与えられた「香登臣」の場合は、「香登」が氏で、「臣」が姓ですね。
大兄は秦氏の一員であることが分かりますが、氏だけがあって姓(かばね)はありませんでした。
今回、新たに「臣」の姓を授けられたことによって、正式に朝廷の序列に組み込まれたこととなります。

賜姓は普通、何らかの功績が評価されたことにより行われることが多いですが、秦大兄がどのような理由で賜姓されたのかは不明です。
ただし、香登は現在の備前市香登周辺との関係が考えられます。

現地名をもって氏の名とする場合が多いですから、香登地域の豪族だったのかも?
香登にある大内神社の社記によると「大宝年中香登臣秦大兄が修繕をした」と個人名が見えますし、有力者だった可能性は十分あり得そうです。
大内神社の位置
侏儒(しゅじゅ、ひきひと) … 著しく背丈の低い人
『続日本紀』など国史では、人名を挙げる時は、その人名の頭にその人の官位や居住地といった属性がつけられますが、「侏儒」という外見的特徴が付くのは特異例と言えます。
なぜ侏儒であることが強調されたのか、考えられる理由としては次の通り。
① 非常に極端な低身長だったため
これは最も単純な理由です。侏儒はもともと「著しく低身長な人」を意味するため、秦大兄を一目で見て識別できる属性として「侏儒」と記されたということです。
② 「侏儒」として宮廷の芸能・伎芸に従事していた
古代宮廷には、「侏儒舞」と呼ばれる侏儒による芸能・伎芸がありました。
この舞は平安時代に存在していたものですが、
『世界大百科事典』の「侏儒舞」によると、「古代大和朝廷にはこっけいな芸をもっぱらとしたらしい侏儒がいたが,そうした芸を母胎にして生まれたのが平安時代の侏儒舞と考えられる」
とあり、秦大兄が侏儒として宮廷舞踊に携わっていた可能性も十分考えられます。

だとすれば、「侏儒・秦大兄」と『続日本紀』に書かれるのも納得ですね。
南の島への国使派遣
4月13日(壬寅) 務広弐・文忌寸博士たち8人を、南の嶋に遣わして国を覓めさせた。よって、戎器(武器・兵器)を支給した。
遣務廣貳文忌寸博士等八人于南嶋覓國。因給戎器。
ここでいう南の嶋とは、今の鹿児島県から沖縄県にかかる島々で、具体的には種子島・屋久島・奄美大島・徳之島などです。
というのも、翌文武天皇3年(699)7月19日には、「多褹、夜久、奄美、度感の島民が朝廷の使者に従って来朝し、方物(地方の産物)を献上した」とあり、文忌寸博士たちの活動に関連したものとみられるためです。

国覓(くにまぎ)… 未知の土地を探し求めること
「覓」は、求める、探し求めるという意味で、つまり「求」と同じ意味であり、まだ見ぬ土地を探し求める使者ということで「国覓使」(くにまぎし、くにをもとむるつかい)と呼ばれます。

未開の島を探検しに行ったわけですね!
話だけだとワクワクドキドキ冒険感がありますが、現実で考えるとものすごいリスクですし、勇気がいりますね。

命懸けで朝廷の命令を果たしに行くということですからね…。
武器も支給されているということは、襲われる可能性もあったわけです。
文忌寸博士(ふみ の いみき はかせ)
文忌寸博士は今回の国覓が初めてではありません。
『日本書紀』に「文忌寸博勢」という同一人物と見られる人物が3年前の持統天皇9年(695)3月23日に多禰に遣わされていることが見えます。
今回は探索の経験者としてさらに南方の島々に派遣されたのでしょう。
博士たちは、文武天皇4年6月3日条で伝えられるように、現地人から襲撃され物を奪われるといった事件に遭いつつも、文武天皇3年11月4日に南島から無事に帰朝しています。
南島探索の意義

国覓の意義とはなんでしょう。
私が思うに、単なる版図拡大というものではなく、もっと実際の利益があったんじゃないかと思います。

これはその通りと言えます。領土を直接広げるというよりは、日本の影響範囲を広げ、それによる実益を確保する目的があったようです。
① 朝貢圏・国の影響範囲の拡大
これが一番明瞭でしょう。
今回の国覓使の活動により、実際に文武3年7月には方物が献上されていますし、
霊亀元年正月の朝賀には南島民が貢ぎ物を携えて参列しています。
② 遣唐使のための海上交通路の掌握

この時期は遣唐使の航路として、朝鮮半島(新羅)経由ではなく、東シナ海を渡る南路が検討された時期です。遭難など非常の場合に寄港するための島を探索したということが考えられそうです。

実際、大宝2年遣唐使は南路が選ばれたみたいですね。

海を渡る航海は危険と隣り合わせなので、遭難した場合に備えて東シナ海の島の調査は重要です。
そして①と②は別々の政策と考える必要もありません。南方を航行する国家にとって、「島の位置は知っているが、住民とは敵対している」では寄港地として使えません。

なるほど、とはいえ「国際親善」や「友好」というものではなく、あくまでも従わせる存在というのがいかにも時代を感じさせますね。
水分峯神に雨を祈る
4月29日(戊午) 馬を芳野(吉野。奈良県吉野町)の水分峯神に奉納した。祈雨のためである。
奉馬于芳野水分峯神。祈雨也。
馬は後世の絵馬ではなく、実際の馬を奉納したものです。
祈雨はつまり雨乞いであり、馬を水をつかさどる山の神に奉納することで恵みの雨を祈願したものです。

水分(みくまり)は文字どおり、水を配り分けること。山から流れ出す水を各地へ分配する神という性格をもちます。
水分峯神は現在の「吉野水分神社」とされており、『続日本紀』のこの記事が同神社の最古の記録となっています。
ただし、文武2年時の鎮座地は今とは違っていたようで、吉野山のさらに奥、青根ヶ峰周辺に祀られていたとされ、後世に現在地へ移ったという伝承・研究があります。
吉野水分神社 青根ヶ峰はここから吉野山に入った山奥にある。

水分(みくまり)の神、日本の信仰にまつわる言葉として覚えておきたいです。
諸国に旱魃が起きる
5月1日(庚申) 諸国が旱魃となった。そのため、幣帛)を諸社(多くの神社。複数の神社)に奉納した。
諸国旱。因奉幣帛于諸社。
4月29日の祈雨からの連続性がうかがわれる記事です。
全国的に雨が降らず、多くの国で旱魃となっていたとみられます。
名山、大川に祈雨する
5月5日(甲子) 使いを京畿の国)に遣わして名山、大川に祈雨した。
遣使于京畿。祈雨於名山大川。

4月29日から5月5日までの数日間で祈雨と旱魃からの回復祈願が連続していますね。
これはかなり状況として深刻だったのかも。

時期的にも田植えが始まる時期ですし、雨が降らないのは死活問題です。
この条で面白いのは、特定の⚪︎⚪︎神社などではなく「名山」「大川」という自然物そのものに霊威や神威を感じ、祈雨しているところです。
後世のように「神=社殿の中に鎮座する」というイメージよりも、山や川という自然景観そのものが神の鎮まる場所であり、祭祀空間だったことがよく見える記事です。
使者を派遣し、田畑の巡監
5月16日(乙亥) 使いを諸国に遣わして田疇(田畑、耕作地)を巡監(各地をめぐって監察を行うこと)させた。
遣使于諸國。巡監田疇。
これはやはり直前の5月1日の旱魃対応の流れにあると見るのが自然です。
使者を派遣して諸国の田畑を巡って視察をしたのは、旱魃の現況把握といったところでしょう。
朝鮮式山城の修繕 大野・基肄・鞠智
5月25日(甲申) 大宰府に、大野・基肄・鞠智の三城を繕治(補修、修繕)させた。
令大宰府繕治大野。基肄。鞠智三城。
この三城は、九州防衛に関わる古代山城です。
大宰府は西海道(九州地方)諸国の行政を統轄すると共に、外国との窓口・対外防衛の拠点でした。
大野城、基肄城
大野城・基肄城は『日本書紀』天智天皇4年(665)8月条に「大野城」「椽城」として築城記事があり、白村江の戦い(663)で日本・百済が大敗した後、大宰府を防衛するために整備された城です。

なるほど、白村江敗戦後に天智天皇がとった対策としては長大な「水城」も有名ですよね。水城と共に山城も造ったというわけですか。

この二城は立地的に、大宰府の北・南を押さえる直接的な防衛拠点と言えます。
鞠智城

一方、鞠智城はその名が見当たらず、この文武2年5月25日条が文献上の初見です。
その位置も他二城と異なり、ずっと南にあり、大宰府の直前防衛ではなく大宰府や大野城・基肄城へ武器・食糧を供給する後方支援基地だったと考えられています。
鞠智城跡地からは、遺構や当時の遺物が多く出土し、百済からの建築・築城技術を受けたと思われる八角形の建造物が復元されています。

いかにも異国情緒のある外観ですね。なんだか、日本の他の時代では見られない独特な形をしているような気がします。

後世の研究上の分類では「朝鮮式山城」と呼ばれています。
鞠智城(きくちじょう)とは(熊本県立装飾古墳館分館 歴史公園鞠智城・温故創生館)
鞠智城跡
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工事中




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