【現代語訳】続日本紀 文武天皇2年④ 6月〜7月 赤烏の献上

巻1(文武天皇元年8月〜4年12月)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
赤烏、文字通り「赤いカラス」が献上されました。

いづみ
いづみ

よろしくお願いします♨️
赤い烏なんて本当にいるんですかね?




文武天皇2年(戊戌・西暦698年)現代語訳・解説 6月〜8月

近江国が白樊石を献上

(ミョウバン)

6月8日(丙申ひのえさる) 近江おうみ(滋賀県)が、白樊石はくばんせきを献上した。

近江國獻白樊石。

樊石は明礬(ミョウバン)ともいい、現代においてはこちらの名前の方が一般的です。
多様な用途があり、古代では染料を繊維に定着させるために使われる媒染剤として、現代ではそれに加えて食品加工(例えば、アク抜き、ナスの漬物の色止めなど)、殺菌剤、消臭剤、制汗剤などにも利用されています。




蝦狄が方物を献上

6月14日(壬寅みずのえとら) 越後国の蝦狄えみしが、方物ほうぶつ(地方の産物)を献上した。

越後國蝦狄獻方物。

この時の越後国

越後国は現在の新潟県ですが、当時の範囲は大きく違っています。
文武天皇2年(698)時の越後国は、基本的には今の沼垂(新潟市中央区)・磐船郡を中心とする新潟県北部地域という、かなり狭い領域だったとされています。

いづみ
いづみ

それよりも以東は越中国で、逆に言うと、越中国はかなり広い国だったんですね。

みちのく
みちのく

そうです。これが変わり、今の新潟県と富山県の形に近づくのは大宝2年(702)3月17日条の、越中国からの頸城・古志・魚沼・蒲原の4郡編入を待たねばなりません。

「蝦狄」と「蝦夷」

「エミシ」の一般的な表記は「蝦夷」ですが、この記事では「蝦狄」です。
この違いは『続日本紀』では、太平洋側か、日本海側かで区別しているようです。

いづみ
いづみ

太平洋側が「蝦夷」、日本海側が「蝦狄」ですね。

詳しくはこちらの記事をご覧ください(蝦夷ではなく「蝦狄」より)。



神社に馬を奉納

6月28日(丙辰ひのえたつ) 祈雨のため、馬を諸社(多くの神社。複数の神社)に奉納した。

奉馬于諸社祈雨也。

馬というのは、文字通り本物の馬であり、後世の「絵馬」とは違います。
祈雨は雨乞いですが、今回限りの単発ではなく、2ヶ月ほど前からこれに関わる記事が連発しており天候不順は改善していないようです。

4月29日 馬を芳野よしの(吉野。奈良県吉野町)水分峯神みくまりのみねのかみに奉納した。祈雨のためである。
5月1日 諸国が旱魃かんばつとなった。そのため、幣帛へいはく(神に奉る供物を諸社に奉納した。
5月5日 使いを京畿(藤原京とその周縁の国)に遣わして名山、大川に祈雨した。




田中足麻呂の卒去と贈位

6月29日(丁巳ひのとみ) 直広参じきこうさん(正五位下相当)田中朝臣足麻呂がしゅっ(四位・五位が亡くなること)た。
 詔により、直広壱じきこういち(正四位下相当)を贈った。壬申じんしんの年の功績(壬申の乱の戦功をいう)があったからである。

直廣參田中朝臣足麻呂卒。
贈直廣壹。以壬申年功也。

壬申の乱の功績

原文の「壬申年功」とは、天武天皇元年(672)に起きた「壬申の乱」での功績のことを指しています。

いづみ
いづみ

田中足麻呂は、壬申の乱での事績を『日本書紀』でかなり具体的に追える人物です。

天武天皇元年6月24日(甲申) 東国に向けて出発した大海人皇子(後の天武天皇)たちを、高田首新家と共に鈴鹿郡で出迎える。この時、足麻呂は大海人皇子の湯沐令(皇族の経済的基盤として、その収益を得ることを認められた地域を管理する官人)だった。

みちのく
みちのく

つまり、足麻呂は乱のかなり早い段階から大海人皇子側についた人物です。

7月2日(辛卯)、倉歴の道(三重県柘植から滋賀県甲賀に抜ける道)に遣わされて守備に当たる。
しかし、7月5日(甲午)、近江朝廷軍の将・田辺小隅が倉歴に急襲し、足麻呂の軍は混乱に陥り敗走する。しかし、足麻呂自身は退却に成功する。

いづみ
いづみ

なるほど…負けてしまったのですね。

みちのく
みちのく

そうです。『日本書紀』の足麻呂の記述はこれで終わっています。
なので、文武2年になって「功績」として評価されたのは、天武天皇の湯沐令であったこと、早期に天武側についたことだったと言えそうです。

いづみ
いづみ

もしくは、その戦いには負けてしまったけれど、天武天皇側について戦ったこと自体を評価しているのかもしれませんね。

贈位

贈位は故人の功績を称えて、特に高い位階を死後に授けるものです。

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秋 7月1日(己未つちのとひつじ) 日蝕があった。

日有蝕之。

律令制と日蝕

日蝕は月が太陽の前を通ることによって、太陽が欠けて見える天文現象ですが、これには太陽のほぼ全てが欠ける「皆既日蝕」と「部分日蝕」があります。

『続日本紀』にはしばしば日蝕の記事があり、その多くは部分日蝕です。
皆既日蝕は日本では数百年に1度程度しか起きませんが、部分日蝕は年に2、3度は必ず起き、陰陽寮という、天文を見て吉凶を占う役所が事前に日蝕があることを奏上します。

みちのく
みちのく

日蝕があると天皇や官人は政務・業務を停止します。
というのも、後に定められる養老令には次のような規定があるのです。

養老律令 儀制令ぎせいりょう 第7条(太陽条)
太陽が(欠)ければ、有司はあらかじめ奏せよ。皇帝はことみそなわさず。百官は各自の本司を守れ。まつりごとおさめず、時を過ごしていままかれ。

(現代語訳)
日蝕のときは、担当の官司(陰陽寮おんみょうりょう)はあらかじめ奏上すること。天皇は政務をおとりにならない。官人たちはそれぞれの担当部署を守ること。業務は停止して、日蝕が終わるのを待ってから退庁すること。

日蝕とは天変です。当時の天変は自然現象というよりは、天からの警告という意味で政治的な意味を持つものでした。日蝕は太陽が欠ける天変なので、日の神からの警告であり、太陽の力が弱まることと同じです。

みちのく
みちのく

日の神とは天照大神です。
天皇は天照大神の子孫であるため、日蝕は不吉な現象であり、この日は天皇以下すべての人々は政務をとらないのです。

いづみ
いづみ

天皇様は天照大御神、お天道様のご子孫であると…。
なんだか自然と頭が下がりますね。

この時の日蝕について

NASAの日食カレンダーによると、この時の日蝕は東アジアで観測が可能で、藤原京からは最大で太陽の40パーセントほどが欠けている様子が確認できたようです。

日蝕の開始時間 8:30ごろ
日蝕が最大になる時間 9:20ごろ
日蝕の終了時間 10:10ごろ

みちのく
みちのく

このように、過去にさかのぼって日蝕の有無やその程度を調べることができ、それによって『続日本紀』の記事の信頼性を確認することもできます。

いづみ
いづみ

40パーセントとは、かなり大規模な日蝕だったんですね!



奴婢をかくまって報告しない罪、賭博の罪

7月7日(乙丑きのとうし) 公私の奴婢ぬひが民間に逃げ隠れていることを知りながら、これを見逃してかくまい、報告しない者がいた。そのため、ここに初めての法(鞭で叩く刑罰)を定めてその功を償わせた。詳細は別式(別に定めた細則)に記載がある。
 また、博戯はくぎ(賭博、ばくち)や遊手(職に就かずに遊び暮らすこと)の者たちを取り締まり、その居停きょていの主人(施設や家の主人。ここでは賭場を提供する人物を指す)もまた同罪とした。

以公私奴婢亡匿民間。或有容止不肯顯告於是始制笞法。令償其功。事在別式。
又禁博戯遊手之徒。其居停主人。亦与居同罪。

逃亡した奴婢をかくまい、報告しなかった者を罰する

奴婢は律令制の身分制度(良民・賎民)における賎民で、このうち「奴」は男、「婢」は女を意味します。

みちのく
みちのく

当時、官有・私有を問わず、奴婢の保有が認められていました。いわゆる「召使い」や「下男下女」ですね。官有の奴婢を「公奴婢くぬひ」、私有の奴婢を「私奴婢しぬひ」といいます。

その功を償わせた」とあるのは、奴婢が逃げたことによって失われた労働の利益を、かくまった者に弁償させたという意味です。

いづみ
いづみ

言い換えると、奴婢が本来提供するはずだった労働・労役を指すということですね。
それにしても罰せられるのは逃げた奴婢ではなく、これをかくまった人なんですね。

みちのく
みちのく

民間が奴婢をかくまうことを地域社会が受け入れてしまうのを朝廷は問題視していたのでしょう。特に公奴婢であれば官に所属するわけですから、行方不明のままというのは非常に大きな問題になりそうです。

ただし、後の養老律(刑法)の捕亡律【官戸奴婢亡条】(現在は散逸)には、まさに逃亡した「奴婢自身」を罰することも規定されており、文武2年時点においても別個に奴婢が刑罰の対象になっていた可能性はあります。

なお、「詳細は別式にある」とのことですが、その別式は失われているため内容は不明です。

博打をし、職に就かず遊び歩く者と、賭場を提供した者を罰する

「博戯遊手の徒」というのは、賭博をし、定職に就くことなく遊び歩く者たちを意味します。また、賭博をした者だけではなく、その場所を提供した主人も同罪とされました。

いづみ
いづみ

これは賭博そのものが禁じられたと見て良いのでしょうか?

『日本書紀』持統天皇3年(689)12月8日(丙辰)条では「双六すごろくを禁断する」とあり、以前から賭博を禁止する流れが見え、後の養老律令でも「博戯」の取り締まりと罰則が規定されています。

みちのく
みちのく

この流れを見ていくと、文武2年時点でも原則として賭博行為そのものが禁止されていたとみるのが自然でしょう。ただし、全ての賭博が全面的に禁止されていたのかまではわかりません。

いづみ
いづみ

よく考えたら、場所を提供した主人まで同罪としているのですから、単に「バクチニート」が問題なのではなく、そこで行われている賭博そのものが違法・禁止対象だったと見る方が筋が通りそうですね。




祥瑞の献上(赤烏)

7月17日(乙亥きのとい) 下野国(栃木県)と備前国(岡山県東南部)の2国が赤烏あかがらすを献上した。

下野備前二國獻赤烏。

祥瑞の献上です。
祥瑞は、天子が徳に基づいて国を治めている(徳治)と天が認めたとき、これを讃えて地上に普通とは異なった姿をした動植物・稀な自然現象を下し、そのしるしとしたものです。

カラスは日の精

赤烏はその名の通り、「体色が赤いカラス」です。
ただし、当時の「赤」は範囲が広く、茶褐色、淡黄色のような色も赤に含まれます。よって、赤烏は今の血の色のような「赤色」だったとは言い切れません。

その存在には神話的な伝承があり、中国の伝承には「火が烏に変じて、その色は赤かった」とはっきりあります(『太平御覧』が引く『尚書中侯』)。
烏は古くから太陽と結びつけられ、『太平御覧』には「日陽精之宗、積而成烏」(太陽は陽の精気の根本であり、その精気が集積して烏となる)、赤烏についても「惟日之精」(思うに、これは太陽の精であろう)とあります。

いづみ
いづみ

太陽の「陽の気が集まり、それが形となって現れたのが烏」…という意味ですね。
そう聞くと神秘を感じて、カラスを見る目が変わってきそうですね。

平安時代中期の『延喜式』にも、赤烏は上瑞として掲げられています。

赤烏は後の慶雲2年(705)9月26日(癸卯)にも献上例があります。




白鑞(しろなまり)の献上

伊予国

(続き)

 伊予国(愛媛県)白鑞しろなまりを献上した。

伊豫國獻白鑞。

ここでいう「白鑞」とは、「すず」のこととみられます。
現代の辞書では、白鑞は「錫と鉛の4:1の合金」と説明されています(デジタル大辞泉 「白鑞」の意味・読み・例文・類語)が、同じ辞書には、古い漢語として「白鑞=錫」という意味も載っています。

当時の用途としては金属鏡、神仏具の装飾に使われていたと思われ、実際に『続日本紀』天平神護2年(766)7月26日条には次のようにあります。

天平神護2年(766)7月26日(己卯)
 散位従七位上昆解宮成こんげのみやなりが、白鑞に似た金属を献上し、次のように言上した。「これは丹波国天田郡の華浪山で発見したものです。これで諸々の器を鋳造してみたところ、唐のにも劣らぬものができました。よってこれを真の白鑞として鏡をつくり、差し出すものであります」と。

散位從七位上昆解宮成得似白鑞者以獻。言曰。是丹波國天田郡華浪山所出也。和鑄諸器。不弱唐錫。因呈以眞白鑞所鑄之鏡。




鑞(なまり)鉱石の献上

7月27日(乙酉きのととり) 伊予国がなまりの鉱石を献上した。

伊豫國獻鑞鑛。

底本によっては、「鑞」を異体字の「金偏に葛」の字で表記しているものもありますが、いずれも「なまり」と読みます。

いづみ
いづみ

伊予国、今度は白鑞に続いて鑞の鉱石を献上ですね。

先述のように、これは古い用例として鑞は錫であるとみられます。
今回はその鉱石ということで、鑞として精錬される前の原料となる「岩石」ですね。




任官(国守)

伊勢国、美濃国

7月25日(癸未みずのとみ) 直広肆じきこうし(従五位下相当)高橋朝臣嶋麻呂を伊勢守に、直広肆石川朝臣小老を美濃守に任命した。

以直廣肆高橋朝臣嶋麻呂爲伊勢守。直廣肆石川朝臣小老爲美濃守。

この条は『続日本紀』に見える最初の国守任命記事です。
ただし、任官された高橋嶋麻呂も、石川小老もその後の動向や事績については追うことができず、人物の詳細については不明です。

国守は国司の長官、つまり、それぞれの国の行政全般を取り仕切る地方官の長で、現代に例えると都道府県知事に近いものです。

伊勢国はこの後の9月10日条に「当耆皇女を伊勢斎宮に遣わした」とあり、
美濃国は11月23日条で、文武天皇の大嘗祭に主基国として関わったとみられているため、両国の国守任官と関連がありそうです。




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