
こんにちは、いづみです♨️
「行き倒れる労働者」とは、なんだか重たいタイトルですね。

今も昔も労働者は大変ですが、当時の労働場面の過酷さを続日本紀の記事から考えることもできます。
和銅5年(壬子・西暦712年)現代語訳・解説
詔(帰郷する労働者の救済と埋葬)

春 正月16日(乙酉) 次のように詔した。「諸国の役民が帰郷の日に食糧が尽き、路上で飢えて谷や穴などに転落することが少なくないようである。国司たちは勤めて撫養(いつくしみ養うこと)し賑恤(被災者などに物を支援すること)を加えること。もし死者があれば埋葬し、その姓名を記録して本属(戸籍のある国)に報せること」と。
詔曰。諸國役民。還郷之日。食糧絶乏。多饉道路。轉填溝壑。其類不少。國司等宜勤加撫養量賑恤。如有死者。且加埋葬。録其姓名報本属也。
運脚の食糧はすべて自腹だった?
地方から京に調(絹、絁、綿、布、糸といった繊維製品や塩や海産物など)・庸(麻布)を納入するため、複数人の運脚(うんきゃく、はこぶよほろ)が歩いて輸送していました。教科書や辞典などには通説として「輸送のさいの運脚の食糧は往復ともに自弁であった」と説明されることが多く、今回の記事はそのことがよく分かるものとなっています。

ただ、今回の記事は、京→地方という帰り道での話であって、上京するときの話ではないことに注意が必要です。思うに、荷物を運送しなくてはならない「往路」については食糧支給があったのではないでしょうか。
普通、荷物のある往路の方が負担が大きいはずなのに、荷が軽いはずの復路で死者が多発するのは違和感があります。

確かにそうですね。そもそも、長距離を歩いて輸送するのに食糧が全て自己負担というのはいくらなんでも酷ではないですか?今の私たちからすれば当然そう思いますが、さすがに当時としても何らかの支援はあってもおかしくないですよね。

「移動時の食糧は全て自己負担」と定めた規則も存在しません。政府としても、帰り道はともかくとして、無事に納入物を京に運んできてもらわなければ話にならないのですから、少なくとも上京時の食糧支給はあったものと思います。
辞典や教科書に載っている運脚の食料は往復とも全て自弁だったというのは、戦後史観が影響しているものと思います。律令国家=農民を酷使・収奪する国家という描き方があり、そのためには「全て自腹」というイメージで語る方が相性がよかったという事情があったのでしょう。
このあとの和銅5年10月29日条においては、この「帰路の食糧問題」について解決策が示されています。それによると、郡の稲を人夫が自由に購入できるように便利な場所に用意しておくこと、とされています(人夫負担ながら、一応の対策にはなっている)。
また、数十年後のこととなりますが、天平宝字3年(759)6月22日の太政官符(政府の命令文書)には「畿内七道諸国の駅路の両側に、広く果樹を植えよ」とあり、往来する人々が木の下で休憩したり果実を食べたりできるようにしたこともありました。

厳しい現実があったことは事実ですが、政府としてもちゃんと問題を認識していますから、国家による「搾取」「収奪」のイメージは必ずしも正しいとはいえない…ということですね。
叙位

正月19日(戊子) 無位上道王、大野王、倭王に従四位下を授けた。
無位額田部王、壹志王、田中王に従五位下を授けた。
正五位上佐伯宿禰麻呂、巨勢朝臣祖父に従四位下を授けた。
従五位上穂積朝臣山守、巨勢朝臣久須比、大伴宿禰道足、佐太忌寸老に正五位下を授けた。
従五位下紀朝臣男人、笠朝臣吉麻呂、多治比真人広成、大伴宿禰宿奈麻呂に従五位上を授けた。
従六位上大神朝臣忍人、鴨朝臣堅麻呂、正六位上佐伯宿禰果安、小治田朝臣月足、正六位下額田首人足、従六位下後部王同に従五位下を授けた。授无位上道王。大野王。倭王並從四位下。
无位額田部王。壹志王。田中王並從五位下。
正五位上佐伯宿祢麻呂。巨勢朝臣祖父並從四位下。
從五位上穗積朝臣山守。巨勢朝臣久須比。大伴宿祢道足。佐太忌寸老並正五位下。
從五位下紀朝臣男人。笠朝臣吉麻呂。多治比眞人廣成。大伴宿祢宿奈麻呂並從五位上。
從六位上大神朝臣忍人。鴨朝臣堅麻呂。正六位上佐伯宿祢果安。小治田朝臣月足。正六位下額田首人足。從六位下後部王同竝從五位下。
正月は定例の昇進があり、多くの人物が一度に叙位にあずかります。今回は、王が6名、佐伯氏・巨勢氏・大伴氏からそれぞれ2名、その他の氏族からそれぞれ1名が対象となりました。
蔭位制度
無位から従四位下または従五位下に叙されている6名の王ですが、これは蔭位という、親が天皇の近親であることにより特別に高い位階を授けられる制度です。
律令 選叙令第35(蔭皇親条)
皇親に蔭するときは、親王の子には従四位下、諸王(4世王まで)の子には従五位下を授ける。5世王には従五位下を授け、その子(6世王)には一等下して授けること。(以下略)

これにより、従四位下を授けられた上道王、大野王、倭王の3名は親王の子であることが分かります。
上道王は『万葉集』によると、このとき知太政官事(太政官を総覧するポスト)に任じられていた穂積親王の王子とあります。大野王は後世の史料と近代の研究により、父は刑部親王(慶雲2年(705)没。知太政官事)と推定されています。倭王も後世の史料と近代の研究をもとに、父は磯城皇子であると推定されています。いずれも天武天皇の皇子たちです。

親王の子は従四位下が授けられる。でもそれ以下の王たちは一律に従五位下ですから、授けられた位階で世代を特定することはできなさそうですね。

はい、その通りで従五位下を授けられた額田部王、壹志王、田中王については何世の王なのか、父が誰なのかは残念ながら不明です。
後部王同について

記事の最後に見える従六位下・後部王同(こうほうおう どう)という人物ですが、これは日本の皇族ではなく、高句麗の王族をルーツとする氏族と思われ、「後部王」が姓で「同」が名でしょう。
氏族名鑑『新撰姓氏録』の右京諸蕃(下)には後部王氏は「高麗の長王周の後なり」とあります。この長王周という人物がそもそも王族なのか名前から判断し難く、歴代の高句麗王を探ってもこれに相当する名前が見えないのですが、少なくとも奈良時代においては、その子孫に「後部王」の姓が授けられていることから、日本は彼らを高句麗の王族を祖に持つ氏族と認識していたようです。
ほか『続日本紀』には、後部王起(こうほうおう き)、後部王吉(よし)、後部王安成(やすなり)といった人物の名も見えます。

百済王の子孫が日本に根付いたことは知っていましたが、高句麗王族もいたんですね。
新たな烽の設置
正月23日(壬辰) 河内国の高安烽を廃止し、初めて高見烽を設置した。大倭国(奈良県。のちの大和国)に春日烽を設置した。これをもって平城に通じさせたのである。
廢河内國高安烽。始置高見烽。及大倭國春日烽。以通平城也。
烽(とぶひ)とは?

烽とは一般に「狼煙(のろし)」と言われるもので、古代の緊急通信手段のひとつです。高台から煙や火を立たせることによって遠方に急を報せることができ、主に外敵の侵入を想定していました。

烽の読みの「とぶひ」。これはやっぱり「飛ぶ火」でしょうか?

その通りです。火や煙を四方八方に飛ばし、情報を飛ぶように素早く周囲に報せることから来ているようです。
高安城と高安烽
高安城。高安烽もおそらく同じ場所にあった。
高安烽がいつごろから設置されていたのか不明ですが、おそらくその前身は高安城です。高安城は天智天皇5年(666年。『日本書紀』では天智天皇6年とする)に唐・新羅の侵攻に備えて築造されたものですが、その必要性が薄まったため、大宝元年(701)8月26日(丙寅)に廃止されています。おそらく、この高安城に代えて、同時期・同地に「高安烽」が設置されたのではないかと思います。

今回はその高安烽も廃止されたということですね。
おそらく藤原京から平城京への遷都で、高安の地に国防施設を置く必要性がさらに薄まったからでしょう。
高見烽
生駒山上遊園地。標高は約642メートル。
高安烽を廃止し、新たに設置されたのが高見烽。高見烽の場所は特定されていませんが、生駒市の説明では、生駒山山頂付近(現在の生駒山上遊園地付近)だろうとしています。生駒山の山頂は平城京から直線距離で約11kmであり、そこに烽を置けば有事にはよく見えたことでしょう。
『万葉集』の1047番歌にも「露霜の秋さり来れば生駒山 飛火が岳に萩の枝を」と歌われ、生駒山に烽があったことが示されています。

ただし、生駒山周辺には「高見」や「飛火が岳」といった地名や山名は現存していません。
春日烽
春日烽は、春日の地、すなわち平城京の東方に設置されました。奈良公園周辺には今でも「飛火野」という地名があり、春日に烽があったことを現代に伝えています。

春日大社のあるところですね。神社の創建は神護景雲2年(768)なので当時はまだありませんでしたが。
飛火野

古代の施設が今でも地名で残っているのは歴史の連続を感じられていいですね✨
ただし、こちらも具体的な設置場所が特定されているわけではなく、のろしを上げる烽という施設の性格上、高い丘や春日山の山頂、またはその稜線上のどこかだろう、という推定のレベルにとどまっています。
詔(高年者などに下賜)
2月19日(戊午) 詔により、京畿の高年者と鰥寡惸獨(妻のない夫と、夫のない妻と、みなしごと、老いて子のない者)の者にそれぞれ差をつけて絁(目の粗い絹)、綿、米、塩を賜った。高年の僧尼にも同様に施しをした。
詔賜京畿高年鰥寡惸獨者絁綿米塩。各有差。高年僧尼亦同施焉。
昨年11月22日(壬辰)、この年の正月16日に続き、詔による民の救済が行われました。こういった救済策が連続するのは、当時の一般民衆をめぐる社会状況がかなり過酷になっていたことを物語っています。
また、その対象が京畿・畿内の民に偏りがちなのは、平城京の近場で倒れ死ぬ人が増えることは直接的に国の威信に傷がつくことになり、そのため、まずは目に入りやすい京・周辺国の救済から優先的に取り組んだことがその理由かと思われます。
祥瑞の献上


3月19日(戊子) 美濃国(岐阜県南半部)が木連理と白雁を献上した。
美濃國獻木連理并白鴈。
祥瑞の献上です。祥瑞とは、瑞兆、吉兆など、めでたいしるしのことで、天皇の統治を天の神が良いと褒めて地上に賜った珍しい動植物や自然現象のことです。
木連理(または連理木)
木連理とは、根の異なる2本の木の枝が1本につながっているもののことです。根本の違う木が上の方で合体する様が調和の象徴とみられ、それが「天皇と臣下」「国家と人民」が和合している→徳治が行われている、とされたため祥瑞として扱われました。
白雁(ハクガン)
白雁は冬の渡り鳥として日本海側の北日本に飛来し、現在知られている最大の飛来地は秋田県の八郎潟です。時期と場所が合致すれば、そこまで希少性のある鳥ではないようですが、飛来ルートから外れるであろう美濃国においては、白雁が発見されることはかなり稀であると言え、祥瑞として見られるポテンシャルとしては十分だったと思われます。

白い生き物は瑞兆とされることが多く、天皇の徳治を讃えてしばしば朝廷に献上されました。
詔(主政・主帳の任命)

夏 4月19日(丁巳) 次のように詔した。「これより先、郡司の主政(郡司の第3等官)・主帳(郡司の第4等官)の任用は、国司が便宜に任せて中央に名簿を申し送っていたが、そもそも官の任用には決められた基準がある。今後はその人の正身(人と為りや身元、素性)を見て、式(律令の施行細則)に基づき試験を行い、その後、中央に裁可を要請した上で任命すること」と。
詔。先是。郡司主政主帳者。國司便任。申送名帳。隨而處分。事有率法。自今以後。宜見其正身。准式試練。然後補任。應請官裁。
郡司の任命方法について律令には次のようにあります。
選叙令 13【郡司条】
郡司は性格が清廉で、時の務めにたえる者を採って大領、少領とせよ。強幹聡敏(賢く優れていること)で書計(読み書きと計算)に優れた者を主政、主帳とせよ。(以下略)

主政・主帳は賢くて頭の回転が早く、読み書きと計算のスキルが求められたんですね。まさに実務にあたる重要なポジションだったということ。

なので国司が気のままに選ぶんじゃなくて、ちゃんと試験をして実務にたえる人を選ばなきゃダメ!ということですね。決められた基準に達した人を採用することは、法治を掲げる律令国家としては重要なことです。


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