行幸

元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅6年⑤ 行幸、甕原離宮。吉蘇路、東国への道

『続日本紀』和銅6年(713)6月〜7月の記事を現代語訳・解説。甕原離宮への行幸は何を意味したのか。さらに吉蘇路開通の記事から、奈良時代の交通と東国支配の一端を探ります。
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅2年④ 平城遷都で動揺する庶民。天皇、再び平城へ

翌年の3月に迫る平城京遷都。おそらく和銅2年末には京の造営は大詰めに入っており、あとはどのタイミングで遷都を決行するかという段階に入っていたのではないだろうか。12月、天皇は藤原京から最後の平城宮行幸をとり行った。
元明天皇紀(708-715)

【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅2年③ エミシ征討将軍の凱旋。天皇、平城を行幸し百姓を巡撫し給う

今の山形・秋田の蝦夷(蝦狄)の征討軍はどうやら戦果を得たようで、節刀を賜った将軍は藤原京に凱旋し元明天皇はこれを嘉した。これと並行して天皇は第2回目の平城宮視察を実施。宮の造営もどうやら順調に進んでいるようで治世の先行きに明るさを感じさせる。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲3年⑤ 難波…天皇最後の行幸

晩秋9月、文武天皇は神武東征の時から語られ、歴代の天皇が宮を建てたこともある摂津国難波に行幸した。大飢饉や疫病の大流行する中、文武天皇は難波の地に何を見たのだろうか。このときは、これが天皇最後の行幸になるとは知る由もなかったことだろう。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲3年③ 天皇、詔して王公諸臣に仁・義・礼を説き給う

災害級の天候不順、飢饉、疫病、ついには京・畿内におびただしい数の盗賊が出没するようになり、藤原京は死穢・汚穢の悪臭が漂う都となってしまった。盗賊追捕のさなか、文武天皇は詔により仁義礼を説き、百姓に横暴をはたらく王公諸臣を戒める。
巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲2年① 約3年ぶりの天皇行幸 朕、民を救わんが為…

水害、日照り、疫病などの諸問題を抱えたまま明けた慶雲2年。民を思い心を痛める文武天皇は「民の苦しみを救わんがため」と有徳の詔を煥発する。果たして天皇の思いは天を感応させるのだろうか?
大宝年間(701-704)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝2年④ 持統上皇最後の行幸…そして崩御

天皇時代から行幸を愛した持統上皇最後の行き先は…やはり吉野?いや、三河国(愛知県東半部)だった!『万葉集』に残る和歌で、行幸に従駕した当時の人々の思いに心を傾けてみよう!!
大宝年間(701-704)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝2年③ 天皇2度目の吉野行幸、隼人の反乱、2つの落雷事件

天皇の御在所が近い宮城門と国家の英雄ヤマトタケルの墓へ相次いで落雷。その上隼人の反乱など、不穏な事件が続く…。そのときの文武天皇や持統上皇の心境やいかに!?(わかりません)
大宝年間(701-704)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝元年⑥ 天皇・上皇、紀伊国に行幸

大宝元年(701)8月〜10月の『続日本紀』を現代語訳。文武天皇・持統上皇の紀伊国行幸を中心に、大宝令の講義、皇親への禄、高潮・蝗害と救済、高安城の廃止、調忌寸老人への追贈、行幸後の免税まで解説します。
大宝年間(701-704)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝元年⑤ 持統上皇最後の吉野行、大臣を騙した男

数十回にわたり行われた持統天皇(持統上皇)の吉野行幸。これに込められた思いや狙いとはいったいなんだったのか?
大宝年間(701-704)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝元年②2月 唯一の御製和歌

『続日本紀』の大宝元年2月の記事を現代語訳&解説。釈奠の史料初見、記録に残る文武天皇唯一の和歌を掲載。
巻1(文武天皇元年8月〜4年12月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇3年① 修験道の祖・役小角

文武天皇3年(699)1月26日から6月27日までの記事を解説します。難波宮行幸、祥瑞、皇族、役小角、修験道、山田寺など。
巻1(文武天皇元年8月〜4年12月)

【現代語訳】続日本紀 文武天皇2年②2月〜3月 たまきはる宇智

『続日本紀』文武天皇2年2月5日から3月9日までの記事を現代語訳&解説。即位後初めての行幸。宇智とはどんなところだったのか?万葉歌とともに解説。