【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅5年③ 神獣、玄狐あらわる。高安城へ行幸

元明天皇紀
いづみ
いづみ

こんにちは、いづみです♨️
神獣、玄狐…!?古代日本に一体何が現れたのでしょうか…?

みちのく
みちのく

ご期待ください。

和銅5年(壬子・西暦712年)現代語訳・解説

地震

6月7日(乙巳きのとみ) 地震があった。

地震。

 どのくらいの強さの地震があり、どのような影響があったかなど全く不明ですが、この時代、特に場所を明示しない場合は京中(平城京)やその周辺、または畿内で起きたことと解して良いでしょう。

祥瑞の献上

秋 7月15日(壬午みずのえうま) 伊賀国(三重県西部)玄狐くろきつねを献上した。

伊賀國獻玄狐。

 祥瑞の献上記事です。祥瑞とは、吉兆として現れる動植物や特異な自然現象のことで、天の神が時の君主の政治に徳があると称賛し、地上に賜ったものとされています。
 今回は黒い(玄は黒を意味する)きつねが発見されたとのこと。平安時代前期の『延喜式』には明確に上瑞として「玄狐〈神獣也〉」とあります。

いづみ
いづみ

神獣とは、かっこいいですね。
まさに天上の神が人間世界に下し賜うた聖なる獣ということ…。

『延喜式』より 玄狐は「神獣」とある。その前項には白狐の記載も。

玄狐は実在するのか

みちのく
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結論から言うと、実在します!
ただし、体色が真っ黒な狐は本州では観察された例がほとんどないようです。

 👆こちらは令和7年(2025)1月に北海道の釧路で観察されたキタキツネの黒化個体です。全身が真っ黒でまさに「玄狐」そのものですが、今回の『続日本紀』の記事で発見されたのは伊賀国(本州)なので、種としてはキタキツネではなく、ホンドギツネと思われます(この2種はいずれもアカギツネの亜種)。

玄狐の色について考える

アカギツネの通常個体。日本に広く分布する
みちのく
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ところで、古代の「」は今の血のような赤色だけを指すものではなく、明るい黄色や橙色、朱色までを守備する幅の広い言葉でした。

いづみ
いづみ

太陽の色を指して赤と言ったりもしますし、アカギツネも黄色っぽい体色だけど「赤い色」として、そのように名付けられているんですね。

みちのく
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それで、アカギツネが黒化した「玄狐」の体色ですが、おそらく漆黒に変異するのは珍しく、多くは茶色かかった黒色、または褐色だったのではないでしょうか。実際、「玄」を漢字辞典で引くと「赤みのある黒」という意味もあります。

献上された玄狐、その後はリリースされた模様

 律令の儀制令の第8【祥瑞条】には、「其れ鳥獣の類、生けながら獲たること有らば、仍りて其の本性を遂げて、之を山野に放て」とあり、祥瑞たる鳥獣を捕獲したら、最終的に山野に放つこととなっているため、この玄狐も献上されたあとには野に放たれたのでしょう。

いづみ
いづみ

森へお帰り…



初めて各国で綾・錦の織成を行う

(続き)

 伊勢、尾張、參河、駿河、伊豆、近江、越前、丹波、但馬、因幡、伯耆、出雲、播磨、備前、備中、備後、安藝、紀伊、阿波、伊豫、讃岐の21カ国に令して、初めて綾・錦の織成を行わせた。

令伊勢。尾張。參河。駿河。伊豆。近江。越前。丹波。但馬。因幡。伯耆。出雲。播磨。備前。備中。備後。安藝。紀伊。阿波。伊豫。讃岐等廿一國。始織綾錦。

 これに先立つ前年の閏6月14日(丁巳ひのとみに、挑文師あやとりのしという織物のスペシャリストを諸国に派遣し技術の教習を行ったとあり、これが奏功したのか実際に綾・錦の生産が始まったようです。

いづみ
いづみ

たった1年ちょっとで技術が物になるのでしょうか…?
手探りで始まった感じはありそうです。

播磨国司の功績

7月17日(甲申きのえさる) 播磨国(兵庫県南西部)大目だいさかん(大国国司の序列5番目)、従八位上楽浪河内ささなみのかわちは勤めて正倉を造り、よく功績を立てた。よって位1階を進め、あしぎぬ(目の粗い絹)10ひきと布30端を賜わった。

播磨國大目從八位上樂浪河内。勤造正倉。能効功績。進位一階。賜絁十疋。布卅端。
正倉の多くは高床式だった 正倉院の聖語蔵より

 正倉とは、各国の郡単位で設置された、穀物や財物を収納した倉庫です。「勤めて正倉を造り」とあるので、播磨国のそれぞれの郡で複数の正倉を建立した功績があったのかもしれません。

みちのく
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「正倉」と聞くと、東大寺の正倉院をまず思い浮かべると思いますが、正倉とはもともと役所や官庁などの公的施設や寺院の物品を収める倉庫なので、東大寺正倉院だけの固有名詞ではなく本来は全国各地にありました。

いづみ
いづみ

現代においては、もはや東大寺の正倉院しか現存しないから、「正倉=正倉院」の式になってるんですね。

太政官処分(郡稲の不足分の補填について)

8月3日(庚子かのえね) 太政官は次のように処分した。「諸国の郡の郡稲ぐんとう(郡が保有する稲で、主に出挙として人民に貸し付ける用途として蓄えられた)が乏しく、これを支給する日に欠かしてしまう状況である。よって、国の大小に準じて大税おおちから(租税として徴収した稲。正税ともいう)を分割して郡稲に充てるようにせよ。出挙すいこ(稲の貸付け制度)の利息も融通して、すぐにこれに充てるようにし、全て足りるようにして不足のないようにせよ。ただし、大税を郡稲に充当するにあたっては、本来の基準量以下になるまで減損させてはならない。今後はこれを永く恒例(常の決まりごと)とせよ」と。

太政官處分。諸國之郡之郡稻乏少。給用之日有致廢闕。宜准國大小。割取大税。以充郡稻。相通出擧。所息之利。隨即充用。事須取足。勿令乏少。但割配本數。不令減損。自今以後。永爲恒例。

 郡の保有する正倉に、人民に貸し付けるための稲(郡稲)が枯渇し、貸し付けが行えない状況になっていたようです。この貸付制度のことを出挙といい、人民を救済するための制度でした。
 それで、不足する郡稲を補填するために、租税として徴収された稲(大税)と、出挙の利息として得られた稲をこれに充当するようにしてくださいね。ただし、本来の大税の基準量を損なうくらいにまで郡稲に充当させてはいけませんよ。という決まりになったのです。

みちのく
みちのく

大税は国家運営の根本財源になるものなので、基準量を下回る状況はとても危険ですね。

出挙の利息は3年間は取ってはならないはずでは?

 前年11月22日(壬辰)の詔で、出挙をするにあたり、3年間は利息を得てはならないことが決められました。すると、その利息で郡稲の不足分に充てることは不可能なはずです。
 これに整合性をつける1つの考え方としては「前年11月の詔で禁止される以前に得ていた利息稲を郡稲の不足に充てること」と読めば無利息方針との衝突がなくなります。

行幸(高安城)

8月23日(庚申かのえさる) 高安城たかやすのきに行幸した。

行幸高安城。

高安城は以前に廃城されたはず

 これは一見すると不審な記事です。というのも、高安城は11年前の大宝元年(701)8月26日(丙寅)条において「廃城し、舎屋や種々の物品を大倭・河内の2国に移した」という記録があるからです。

いづみ
いづみ

高安城…実は生きていた?

 さらに和銅5年(712)正月23日(壬辰)条では、「烽」という火や煙を上げて急を報せる防衛施設が同地に「高安烽」として設置されていましたが、これも廃止されました。

みちのく
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では、今回の高安城に行幸したとは一体どういうことなのでしょうか?

仮説 廃城=城郭全てを撤去した、とは限らない

 あくまで仮説ですが、「廃した」というのは物理的に取り壊したわけではなく、城の軍事施設としての防衛機能や食料や兵器といった物資の備蓄機能をやめたという意味だと考えられます。実際、先に挙げた大宝元年8月26日条では、「舎屋や種々の物品を大倭・河内の2国に移した」とあり、城の持つ「機能」は停止したものの、施設名としての「高安城」はなお存在していたということではないでしょうか。

いづみ
いづみ

なるほど…

女帝がわざわざ廃止された城に訪れる意義とは?

みちのく
みちのく

元明天皇は女帝です。女帝がわざわざ山の頂上まで、すでに機能を失った高安城に行幸する意味は一体何だったのでしょうか?

Google Earthより 高安城は地理的な優位性がある

 高安城は現在でも展望台があり、西は大阪平野から難波まで、東は奈良盆地を望むことができます。古代の天皇が高台から天下を臨むことを「国見」といい、重要な統治行為であり皇統の正統性を確認するものでした。

いづみ
いづみ

なるほど…時期的にも平城京に遷都して間もないですから、統治範囲の再確認の意味で国見はとても効きますね。

みちのく
みちのく

それに、平城京ー大阪平野ー難波ー西国 のルートは国の重要な動脈ですから、これを一望できる地点は高安城が軍事拠点としての意味を失って以後も重要な場所であることは変わりがなかったはずです。

元明天皇は天智天皇の皇女

 高安城は天智天皇5年(666)の築城(『日本書紀』は天智天皇6年とする)で、唐・新羅連合軍が侵攻してきた場合を想定して造られたものです。結果的に侵攻はありませんでしたが、元明天皇は、この高安城を父の事績の象徴事業として偲び、追憶するという目的があったのではないでしょうか。

みちのく
みちのく

これはもちろん僕の憶測であり、そういった記録はありません。

いづみ
いづみ

でも、行幸の隠しテーマみたいなことはあったかもしれませんよね。




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