【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲2年④ 天智天皇の孫、葛野王の卒去と人物伝

人物列伝
いずみ
いずみ

こんにちは、いずみです♨️
慶雲2年の年末です。今回はたった1ヶ月間の記事ですが注目の話はありますか?

みちのく
みちのく

大きな事件があったわけではありませんが、この月に亡くなった葛野王という人物は日本史上重要な人物だと思います!

慶雲2年(乙巳・西暦705年)現代語訳・解説

寺に食封を授ける

12月9日(乙卯きのとう) 藤原京内の諸寺にそれぞれ差をつけて食封じきふ施捨ししゃ(進んで寺社、僧や貧者に金品を寄付すること)した。

 食封とは領地です(その地にほうじられて食いぶちを得るという意味。封は領地を与えるという意味)。その領地に居住する戸(世帯)から徴収した稲や布などの物品のいくらかを個人(ここでは寺)の給与にすることが許されました。

女性の髪型について制定する

12月19日(乙丑きのとうし) 天下の婦女のうち、神部や斎宮の宮人及び老人以外の者全員に髻髪もとどりをさせた。【詳細は前紀(日本書紀か)にあり、ここに至って重ねてこれを制定したものである】

 髻髪とは、髪を頭頂部付近で団子のように結んでまとめた髪型です。

みちのく
みちのく

「前紀」とはおそらく『日本書紀』のことで、推古天皇11年(603)12月5日条には次のように書かれています。

冠位十二階制を施行するにあたり、階ごとに色をつけたきぬをつくり、髪をいただきにまとめてくくり、その絁をふくろのように包みこんで、縁どりをつけた。

いずみ
いずみ

このときは女性の髪型としてではなく、官人の髪型の制度だったんですね。
これは当時の一般女性の髪型を知ることができる貴重な記事!

 このタイミングで全国の女性の髪型を規定したのは、おそらく入京が予定されていた新羅使を意識したものではないかと思います。

(葛野王)、葛野王の人物伝と漢詩

12月20日(丙寅ひのえとら) 正四位下葛野王かどのおうしゅっした。

 葛野王は、天智天皇の孫で、大友皇子の子。母は天武天皇皇女の十市皇女です。

いずみ
いずみ

すごい家系ですね
父方母方どちらをたどっても天皇に行き着きます。

みちのく
みちのく

父の大友皇子は天智天皇の後継者に指名されながら大海人皇子(のちの天武天皇)の反乱(壬申の乱)に敗れ、皇位を奪取されて亡くなった人物です。
即位説があり、明治時代になって第39代弘文天皇の名が贈られました。

いずみ
いずみ

葛野王から見ると、父親と祖父が戦ったことになるんですね…。父が負け、祖父が勝って、心境としては複雑だったでしょうね

みちのく
みちのく

葛野王の母の十市皇女は、夫と父が争ったわけでこちらも相当困難で複雑な人生を歩まれたことと思います。

葛野王系図

 葛野王は国史には事績が記録されていませんが、日本最古の漢詩集『懐風藻』に漢詩2首と共に人物伝が採録されています。

『懐風藻』葛野王人物伝

 葛野王は、器量が広く大きく、その姿もまた秀れていた。その人材は大黒柱のように立派で家柄も天皇の縁戚であった。若くして学問を好み、経史に堪能であった。文章をつづることをすこぶる愛し、兼ねて絵画をよくした。(中略)
 高市皇子(天武天皇の長子)の薨去後、皇太后(持統天皇)は王公卿士(皇族・貴族)を禁中(内裏)に集め、日嗣(次期皇位継承者)を立てることを話し合わせた。群臣はそれぞれ好き勝手に口を差し挟み、衆議はまとまらなかった。そこで葛野王は進んで奏上するに「我が国家の(皇位継承についての)法は、神代以来、神の子孫が次々にこれを受け継いできました。もし兄弟間で継承すれば乱が起きます。仰いで天の心を推し量ってみれば、誰が口を挟むことなどできましょう。そういうことですので、人事を尽くして考えれば聖嗣は自然と定まります。このほかに誰が敢えて問題とするでしょうか」と申し上げた。
 このとき、弓削皇子(天武天皇皇子)が何か発言しようとしたが、葛野王はこれを叱って制止した。皇太后はこの葛野王の奏上が国を定めたと褒め、特別に正四位を授け、式部卿に命じた。【時に年は37】

みちのく
みちのく

関連する当時のできごとを『日本書紀』をもとに時系列で並べてみました。

天武天皇10年(681)2月25日 草壁皇子(持統天皇の子)立太子
朱鳥元年(686)9月9日 天武天皇崩御
持統称制3年(689)4月13日 皇太子草壁皇子去(称制とは即位せずに統治すること)
持統天皇4年(690)正月1日 持統天皇即位
持統天皇10年(696)7月10日 高市皇子去。この頃、葛野王奏上
持統天皇11年(697)2月ごろ 珂瑠皇子(のちの文武天皇)立太子

 これによると、葛野王の人物伝に語られる皇族と臣下たちの話し合いが行われたのは、皇太子が不在となって7年以上が経過したときのことで、政情が不安定な状況だったことがうかがえます。高市皇子が亡くなった直後に会議が開かれていることを考えると、高市皇子は有力な皇位継承資格者だったことがわかります。
 葛野王としては、誰か特定の人物を明言して推薦したわけではないのですが、兄弟継承を否定し父子による継承を間接的に主張したということは、必然的に皇太子だった故草壁皇子の子にあたる珂瑠皇子(のちの文武天皇)への皇位継承へ道筋をつけることを建言したことになります。

持統天皇は、自身と天武天皇との血統で皇位を継承することにこだわった。
みちのく
みちのく

この葛野王の奏上には持統天皇もにっこりです。
まだ若い孫の珂瑠皇子を皇太子にする踏ん切りがついたのではないでしょうか。

いずみ
いずみ

葛野王は文武天皇即位の影の立役者だったのかも…?
葛野王自身は嫌な言い方をすると「敗北者の血統」だったわけで、持統天皇を恨んでいてもおかしくないはずなのですが…。

みちのく
みちのく

壬申の乱がなければ葛野王は天皇になっていたかもしれませんね。

葛野王『前賢故実』より 右は『懐風藻』に採録される漢詩「遊龍門山」

『懐風藻』葛野王 龍門山に遊ぶ
を命じて山水に遊び、長く忘る冠冕かんべんの情
いづくんぞおうきょうの道を得、たづ蓬瀛ほうえいに入らん

(現代語訳)
龍門山(吉野にある山。仙郷になぞらえる)に遊ぶ
車駕(天皇の御車)を命ぜられ山水を遊覧し、しばしの間官吏としての思いを忘れる。
どのようにして王喬の道(仙人の道)を得て、鶴と共に蓬瀛(東海にあるとされる不老不死の神山)に入ることができるだろうか。

叙位

12月27日(癸酉みずのととり) 無位山前王やまくまおうに従四位下を授けた。丹波王・阿刀王に従五位下を授けた。従六位上三国真人人足みくにのまひとひとたり・藤原朝臣武智麻呂むちまろ、正六位下多治比真人夜部たじひのまひとよるべ・佐味朝臣笠麻呂・藤原朝臣房前ふささき、従六位上中臣朝臣石木いわきこま朝臣秋麻呂・坂本朝臣阿曾麻呂あそまろ・多治比真人県守あがたもり・阿部朝臣安麻呂、従六位下波多朝臣広麻呂・佐伯宿禰すくねおのこ・阿部朝臣真君・田口朝臣広麻呂・巨勢こせ朝臣子祖父こおじ・紀朝臣男人おひと、正七位上大伴宿禰大沼田おおぬた、正六位上坂合部宿禰三田麻呂、従六位下県犬養あがたいぬかい宿禰筑紫、正六位上坂上忌寸忍熊さかのうえのいみきおしくま船連秦勝ふねのむらじはたかつ、従六位下美努連浄麻呂みぬのむらじきよまろにならびに従五位下を授けた。

みちのく
みちのく

多くの人物がいっぺんに従五位下に昇進しました。
五位に上がるということは官人にとって単なる昇進ではなく、「貴族」の地位を手に入れた特別な人生イベントなのです。

いずみ
いずみ

中には七位から一気に五位に上がってる人もいますね。何があったんでしょう

みちのく
みちのく

大伴大沼田は大宝3年正月2日に西海道巡察使に任命されたことが見えますが、他には何も語られていないですね。ただ、巡察使任命時に名前が「沼田」だったのが「沼田」に改名されていることを見るとよほど立派な功績を残したのかもしれません。

 山前王は5月7日に他界した刑部親王(忍壁親王)の子です。無位から一挙に従四位下に叙されていることから、蔭位おんいの制が適用されたことがわかります。蔭位は特権制度で、親が皇族や貴族の場合、子に高位の位階を授ける制度です。

律令 選叙令せんじょりょう

35(蔭皇親条)
 皇親に蔭するときは、親王の子に従四位下、諸王(4世王まで)の子に従五位下を授ける。5世王は従五位下を授け、その子(6世王)には一等下して授けること。(以下略)

 丹波王と阿刀王は無位から従五位下に叙されているため同じく蔭位が適用されたことが分かりますが、3世王から5世王は等しく従五位下が授けられるため、何世なのかは確定できません。なお、阿刀王は奈良時代に天武天皇の孫(2世王)として同名の皇族が登場しますが、今回の人物とは別人です。

 三国人足は、『日本書紀』継体天皇元年(507)正月14日条に見える継体天皇の子の椀子皇子を祖とする元皇族です。『万葉集』に1首知られています。

みちのく
みちのく

三国真人の「真人」は皇族の血筋にある氏族に与えられた姓(カバネ)です。
三国は越前(福井県)の地名であり、同地にゆかりがある継体天皇の系譜につながる氏族というのがよく分かります。

新羅使の入京

(続き)

 この日、新羅使金儒吉こんじゅきつたちが藤原京に入った。

 10月30日に大宰府に来朝した新羅使が藤原京に到着。新羅使には元日朝賀の儀に参列してもらう必要性から年内の入京を急いだものと思われます。

飢饉と疫病について

 この年、諸国20カ国が飢え、疫病が発生した。ならびに医師と薬を給付して賑恤しんじゅつ(貧乏な人や被災者を救うために、金銭や物を与えること)を加えた。








次回

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