
こんにちは、いずみです♨️
今回は慶雲の改革ということですが…なんだか難しそうですね

律令にかかわることなのでとても堅苦しい内容ですが、できるかぎり簡単にまとめていこうと思います!!
大宝元年(701)に大宝律令が施行され、法により全国を統治する仕組みが整えられたわけですが、施行から5年で早くも規定が実情に合っていなかったり、不合理だったり、必要な規定が不足していたりと、律令を修正する必要が生じました。そのため、慶雲3年2月に官人の食封制度をはじめ7箇条の改正法が定められました。これを「慶雲の改革」といったり「慶雲3年格」といいます(格とは律令の改正法のこと)。

初めての試みも多かったでしょうし、やってみたあとで「やっぱり合っていなかった」ということもありますよね。
慶雲3年(丙午・西暦706年)現代語訳・解説
7カ国に飢饉が発生
2月16日(庚寅) 河内(大阪府南東部)・摂津(大阪府北部・兵庫県南東部)・出雲(島根県東部)・安芸(広島県西半部)・紀伊(和歌山県)・讃岐(香川県)・伊予(愛媛県)の7カ国に飢饉が発生したため、賑恤(貧しいものや病気の者に金品を恵んで助けること)を加えた。
詔(食封の制度の改正)


(続き)
次のように詔した。令(禄令第10条)により、現在三位以上には食封を支給し、四位以下には位禄(位階に基づいて支給される禄)を支給しているが、四位は飛蓋(車)の貴さがあり、五位は冠蓋(車の覆い。貴人や権勢のある人のこと)の重みがない。有蓋と無蓋が同じような禄にあずかるべきではない。ゆえに四位は食封を支給する範囲に入れること。
また、同令によると諸王諸臣の位封(位階に基づいて与えられる食封)は正一位の300戸から従三位の100戸までとされている。案ずるに、冠位(位階)が高いにもかかわらず食封の何と薄いことか。よって、これを加増し正一位に600戸から順次下して従四位の80戸までに改正する。
食封は官人に対する給与制度のひとつで、領地を与えるものです。その領地に住む人民が納める稲(租税)の半数と、布などの物品(調)の全てを自身の給与にすることを許す制度です。
律令の規定によると食封の支給を許されていたのは三位以上(正・従一位〜正・従三位の6階)のみで、四位と五位には位禄を賜うこととされていました(位禄は絁・綿・布の繊維製品により支給)。
ただし、四位と五位には食封を支給しないと規定されながらも、実際にはこれまでの慣例から支給は行われていたようです(文武天皇元年8月29日条など)。
すでに五位の食封は前年11月4日に廃止されており、四位に関しては今回で正式に支給の対象になりました。その理由は、平たく言うと四位は高貴で五位は卑しいとされたからでした。

同じ貴族なのに!?

飛蓋や冠蓋といった、当時の車の天井の覆いを引き合いにして尊卑の違いを表現しています。

車を例を持ち出して尊卑を示すということは、当時の貴族は専用の車があったということでしょうか。
新たに7条を制定する(慶雲の改革)
1.官人の勤務考査と昇進について

(続き)
また、7条を制した。
【その1】 令(選任令第9条)によると各官司の長上官(毎日出勤を原則とする官)の遷代(任期を終えて他の官職、特に上級職に転じること)は6考を期限とし、その他の官が選の対象となるには官の種別ごとに8考、10考、12考を期限と定めている。これでは百官が選の対象となるのに非常に長い年月がかかる。よって種別ごとに2考を減らすこととする。
その1は、官人の昇進に関する「選叙令」の規定についてです。「考」とは上司が部下の1年間の勤務について評価をすることです。前年の8月1日から当年の7月31日(1年間)までの部下の働きを、所属する官司の長官が「考」を行い、上上から下下までの9段階で評価が下されます。

つまり、1年間で1考なんですね。
そして、昇進するかどうかは「考」をもとに決定され、昇進が決定することを「選」といいます。
常勤(毎日出勤)の官人が選の対象になるには6考分の評価が必要になります。

位階を1つ昇進させるのに、最短でも6年かかっていたわけです。
しかも、もし「選」を得られなければ、また6年間「考」を受けなければならないのでした。非常勤の官(番上官という)や郡司など地方官は8年や10年など考の期間が長くなる傾向がありました。

中には選を得るのに12年もかかる人がいるわけですから、これはあまりにも長いですね…。

そこで今回改正となり、2考を減らすことになりました。
選を得るのに必要な年限が2年短縮されたのです。
2.蔭位制度と勤務評価の関係について
【その2】 令(選任令第36条)によると、蔭位を得る資格のある者が、考を満了して選の対象となった場合の出身(出世)に関する条が定められているが、いまだ選にあずかる場合の式(細則)が存在しない。今後は蔭により出身する者は、貢挙(学生を官吏に推薦すること。推薦された学生には試験を行い、及第の場合は位階が与えられた)及び特別な勅による場合を除き、選の対象としないこととする。
「考」と「選」については「1.官人の勤務考査と昇進について」をご覧ください。
蔭位は、親が皇族の場合や、高い位階を有している人物の場合、子の能力などに関わりなく一定の年齢に達したときに叙位を行う制度です。

親のお蔭様だから蔭位といいます。また、蔭位を与えられる資格のある子を蔭子、孫であれば蔭孫といいます。たとえば、親が正一位であれば子には従五位下の位階を授けることとなっていました。

出ましたね、身分特権制度が!
蔭子や蔭孫の場合、本人の能力と関係なく位階が与えられるので、勤務成績(考)による昇進の制度との兼ね合いはどうするのかという問題があり、今回原則として蔭子蔭孫は選の対象としないことと決められました。
3.罪を犯した官人に再び叙位を許す場合の規定

【その3】 律令によると、律(名例律第21条)においては除名(官人としての籍を削除され、さらに位階と勲位を失うこと)された者が6載(6年)の後は叙位を許すという規定があるが、令にはいまだ6載が満了した後に叙す場合の式(細則)がない。よって叙位を行う場合の条を会議して作成すること。

どんな犯罪をすると除名されるのですか?

国家に対する謀反や故意の殺人など重罪を犯した官人は死罪や流罪などの重い刑罰が科されますが、除名はその刑罰に付加して科される刑罰です(付加刑という)。

流罪にされた上で、官人を辞めてもらう…ということですね。
養老律令(養老2年(718)に撰定された大宝律令の改正法典)選叙令第37条によると、除名後6年の期間を満了した場合、
三位以上…その情況を奏上して勅を聞くこと
正四位…従七位下に叙す
従四位…正八位上に叙す
正五位…正八位下に叙す
従五位…従八位上に叙す
六位・七位…大初位上に叙す
八位・初位…少初位下に叙す
と規定されています。ただし、蔭位が適用される場合や、学生が登用試験に及第し上記よりも高い位階が与えられる場合は、この規定を適用せず高い方の位階が授けられることとなりました。
4.調の徴収方法の変更
【その4】 令(賦役令第1条)によると、京及び畿内(京のある大和国の周辺国)の正丁(21歳以上60歳以下の男性)が調を納める際には、各1人を単位として納めることになっている【他の諸国よりも半減されている】が、今後は1人を単位に納めることを止め、戸を単位として徴収する。これは外邦(京及び畿内以外の諸国)の民よりも内国の民を優遇するためである。調の納入についての式(細則)は、1戸あたりの丁(成年男子)の人数によって戸を4等級に分け、納入される調の数量は他の条の例を参考にし会議により作成せよ。
戸の等級は、その戸の丁(成年男子)の人数に応じて大・上・中・下の4等級に分けられました。この他、戸の貧富に応じて上上・上中・上下・中上・中中・中下・下上・下中・下下の9等級に分けることもありました。

地方よりも中央を優遇すると明言するのは今の感覚で考えると信じられないです。

納入物品を遠方から運ぶ労力を考えると地方の負担を軽減すべきな気がしますが…。
逆に遠方からわざわざ来るのだからなるべくたくさん持ってきてほしいという考えなのかも?
あるいは単なる、京から遠い→蛮族に近いという感覚から来る優劣の思想があったのかもしれません。
この改正で今後は京と畿内国のみ戸を単位として調を納めることになりました(それ以外の国は令の規定通り1人を単位に納める)。
5.庸負担の軽減
【その5】 令(賦役令第4条)によると、正丁(21歳以上60歳以下の男性)はその年の庸(中央における10日間の労役義務)に代えて布を2丈6尺を納めている。この庸布の負担を軽減して人民の窮乏を助けるべきと思う。よってこれを半減すべし。大宰府の所部は全て庸を免除する。もし公の労役について労働力が不足する場合は、商量(よく考えて推し量ること)しておだやかな規則をつくってこれを定式とせよ。
大宰府の「所部」とは大宰府の下部にある役所を指すのか、大宰府管内(九州地方全土と種子島などの3島)の国々を指すのかは分かりません。

ちなみに、京と畿内国も庸が免除されていました。

京と畿内はもともと全免で、大宰府も免除されて、諸国が半減されるとなると納められる布の量は減りそうですね。大丈夫なんでしょうか…?
6.義倉の運用と、不正があった場合の罰則

【その6】 令(賦役令第6条)によると、一位以下から百姓や雑色(種々の官司に隷属して特殊技能により奉仕する人民)の人々に至るまで、戸の粟を集めて義倉としている。この義倉の物は、窮民を給養するための備えとしている。今、これを貧しい戸から徴収して、それを他の貧窮している人の家に給付しており理にかなっていない。そのため今後は中中(戸の等級)以上の戸の粟から集めることとし、必ず貧しい戸に給付し他に用いてはならない。もし官人が義倉の粟を1斗以上横領した場合は、即日に解官(官職を解職すること)し贓(不正な手段で金品を手に入れること)の犯罪に従って決すること。
一位以下百姓や雑色とは、親王以外の全ての人民をいうとされています。義倉は非常時の備えとして粟を倉庫に備蓄する制度です。備蓄の品に粟が選ばれたのは、稲よりも長期の保存に耐えるためです。

栗ではなく粟です!


そういえば五穀米のごはんに入ってますね!つぶつぶしてます

貧窮している戸から粟を取ることは貧民救済の趣旨に反しているため、中中以上の戸から集めることになりました。
7.皇親の範囲の拡大

【その7】 令(継嗣令第1条)によると、5世王は王の号を得るといえども皇親(皇族。天皇の近親者の意)の範囲に入らない。今5世王は王を名乗ってはいるが、すでに皇籍から除かれ臣籍に入っている。かえりみて親族のつながりを思うに、皇籍を絶たれる痛みは耐え難いものである。今後は5世王は皇親の範囲に入れ、その嫡子(後継ぎと定めた子で、通常は長男)となった者も継承して王とすること。他の事項もまた令の規定を適用すること。
継嗣令という皇族の範囲を定めた規定によると、天皇の子である親王を1世とし、2世から4世までを王として皇族と定めています。5世以降も「王」を名乗ることはできますが、皇籍からは外れ、臣下に下る(臣籍)こととなります。このように規定した理由は、皇族の子孫をすべて永久に皇族と認めてしまうと、将来的に皇族の人数が増えすぎてしまうからです。
今回はこの皇親の範囲を拡大して5世王も皇族とし、その5世王の嫡子に限ってこれを皇族とすることが認められました。

5世王の子供のうち嫡子のみ6世王に、さらに6世王の嫡子を7世王へ…と皇族に認められることとなりました。

限定的ですが皇族は永久的に皇族になれる制度になったわけですね。
そう考えると大きな改正といえそうです。

ちなみに現代の皇室は制限なく永続的に皇族とする制度になっています。


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