今回は初めての試みとして、史跡の訪問記録を書いてみたいと思います!
双ヶ丘、道中は山道ですが、入り口から出口まで長くはなくピクニック気分で行ってこられる場所です。おすすめ☀️
歩くのはストレス発散、運動にもなるし、その上で歴史の勉強もできるとか最高じゃないですか!♨️
双ヶ丘の概要
双ヶ丘、これを「ならびがおか」と読みます。
雙ヶ丘、史書においては「雙岡」「雙丘」などと表記されることがありますが、「雙」は「双」の旧字体です。
「双」の字から察するに、ふたつの丘で形作られているのかと思いきや、丘の数は3つです。北から一の丘、二の丘、三の丘となっております!
わかりやすい!
所在地は、京都市右京区御室双岡町。右京区の市街地北部に位置しています。
かつての平安京の京域からはわずかに外れているようです。
その歴史 双ヶ丘ってどんな場所?
古墳時代後期の墳墓があった
史料にはみえませんが、発掘調査により双ヶ丘には古墳時代後期の墓が発見されており、一の丘の頂上には豪族の首長のものとみられる墓、そのほか2箇所に群集墳(小規模古墳の群れで、支配階層のものではないとみられる)があります。
地理的に、一の丘に葬られた豪族はおそらく秦氏ではないかといわれています。
秦氏は、渡来系氏族で大陸からさまざまな技術を伝えた一族として有名です。
このあたりの地名の「太秦」にも秦氏の名が残っていますね!
『続日本後紀』にみえる双ヶ丘 天皇より従五位下を授けられる
双ヶ丘の名が文献に初めて登場したのは、六国史の第4『続日本後紀』。
承和14年(847)10月19日(辛亥) 雙丘の東墳に従五位下を授けた。この墳は雙丘の東にあり、天皇が遊猟した時、墳上に上がり四方を望見したので、この叙位となった。
双ヶ丘に従五位下!人じゃないものに叙位をしたんですね、なんだか面白いです🧡
西暦847年というと、平安遷都から50年ほど。承和は第54代仁明天皇の時代で、唐の文化を愛して取り入れた嵯峨天皇の皇子です。
この記事を見たとき、丘に叙位をしたというのがとてもユニークに感じ、従五位下を授けられるほどの丘の眺めをぜひ自分も見てみたいと思ったのです☀️
そうなんですね♨️
狩りをされたということで、きっと大漁だったんでしょうね。嬉しくなって従五位下を授けたとか、天皇という唯一の存在にしかできないことです。
木が生い茂ってるので、正直そこまで見晴らしが良いわけではありませんでしたが、仁明天皇も東方を望んだということなので、平安京の街並みと、はるかに比叡山をご覧になったことは間違いないでしょう。
比叡山の眺めがすばらしい!この丘に従五位下を授けよう!
今では失われた?双ヶ丘の大池と左大臣の山荘
続いて、『続日本後紀』前掲記事の翌日、10月20日(壬子)条より。
10月20日(壬子) 雙丘の下に大池があり、池中に水鳥が群をなしていた。天皇が臨御の折、鷂・隼を放ち、水鳥を追った。左大臣源朝臣常の山荘が丘の南にあり、常が御贄を献じ、扈従(従者)の臣下らに馳走を賜った。
地図を見ても、双ヶ丘の周辺には大きな池はありません。西方にある広沢池は989年に造られた人工池なので違います。おそらく今では失われてしまったのでしょう。
猛禽類を使役した狩りもされたんですね、仁明天皇は本当に狩りがお好きだったんですね!
でも仏教が国に浸透していつつも娯楽の狩猟は行われていたのは不思議です?
そこは何とも言えないですね、、
ちなみに僕は南側の三の丘から登ったのですが、そのあたりあったと思われる左大臣源常の山荘も今はないようです!(そりゃそう)
右大臣清原夏野の墓?
大臣の墓もあるんですね!
ところがそうではないようです。
清原夏野とは…?
清原夏野(きよはら の なつの)。
平安時代初期、桓武天皇・平城天皇・嵯峨天皇・淳和天皇・仁明天皇と、5代の天皇に仕えた官人です。出自は元皇族であり、清原氏の祖。皇族時代の名は「繁野王」でした。
清原さん!今でもおなじみの苗字ですね。
夏野は天武天皇の4世です。律令の規定によると、皇族を名乗ることのできるのは4世まででしたので、夏野の子の代からは自動的に臣下として扱われることになるのです。
そうなる前に、子ではなく自分の世代で臣下に下ることを決断したわけですね。
双岡大臣
左大臣清原夏野は、双ヶ丘に山荘を経営していたと伝わり、通称「双岡大臣」と呼ばれていました。
淳和天皇や嵯峨上皇などご歴代の天皇が行幸したことが史書に伝わっています。
こちらの山荘は「法金剛院」として現在にも伝わっています!
山荘というくらいだから、双ヶ丘の山の中にあるのかと思いましたけど、ふもとにあるんですね。
清原夏野の墓とは違う模様です
本題に戻ります。
双ヶ丘とゆかりある「双岡大臣」として、一の丘には清原夏野の墓碑が建っていますが、ここにある墳墓は前述のように、当地の豪族(秦氏?)のものであるようです。
石碑の裏側には、
「明治四十五年一月建之 裔孫 従三位 勲四等 子爵 清原真人舟橋遂賢」とあります。
清原夏野のご子孫が墓碑を立てたんですね。
明治45年時点では発掘調査が行われていなかったのでしょう。
そうなんですね、でも尊敬できるご先祖さまがいるのはうらやましいです!
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