
こんにちは、みちのくです☀️
物差しって、なくすと急に必要になりますよね。

普段そんなに使わないんですけどね。
大宝2年(壬寅・西暦702年)現代語訳・解説 3月
蝗害が発生

3月5日(壬申) 因幡、伯耆、隠伎(隠岐)の三国に蝗害(稲などの穀物を食い荒らす虫による食害)があり、穀物が損なわれた。
因幡。伯耆。隱伎三國。蝗損禾稼。
蝗害は前年8月21日にもかなり大規模な被害がありました。
「蝗」は通常「イナゴ」を表す字です。
しかし、今回は3月の被害ということで、イナゴが通常発生する時期とはかなり大きな食い違いがあります。この時期、通常は卵であり成虫は発生しません。
そのため、以下のように考えるべきかと思います。
「蝗」は現代の「イナゴ」そのものではない
古代の史料での「蝗」は、現代の厳密な分類上のイナゴではなく、農作物を食害する虫を広く表している可能性があります。

それは具体的には何の虫が想定されますか?

有力な虫は「ウンカ」が考えられるようです。
愛媛県の農業史資料では、古くは「稲の害虫」を広く「蝗」と記し、近世には一般にウンカを指す場合があったと説明されています。(愛媛県史 近世 下(昭和62年2月28日発行))
特に「ヒメトビウンカ」は幼虫のまま越冬し、3~4月に成虫になるため、時期的にも合致します。

これはかなり興味深いですね…。
「蝗」をバッタのイナゴと決めつけると謎だらけの記事になってしまいます。
全国に度と量(物差しと升)を配布

3月8日(乙亥) 初めて度量(長さを計る物差しと容積を量る升)を天下諸国に頒布した。
始頒度量于天下諸國。
「度」は長さ
「量」は容積
これらを頒布したとはつまり、物差しや尺や升(枡)といった計測するための道具を全国に配布したという意味です。
その意義としては、律令国家として全国統一のルールを地方に実装していくことにあります。
福岡市博物館はこの条について、全国に計量器の「様」(ためし)というサンプルが配布されたものと解釈しています。「単位を通知した」というより、各国で同じ尺度・容量を使えるよう標準器を配ったという意味合いですね。(古代の度量衡 福岡市博物館)

土地の測量や、徴収した租の分量などが律令規定どおりの数になるように全国で統一された基準を定める必要があったのです。

この数年間の記事で統一国家を作り上げていく流れを読み取ることができますね。
中臣、忌部、菅生、巫部たちを一階昇叙
3月11日(戊寅) 正五位下中臣朝臣意美麻呂、従五位下忌部宿禰子首、従六位下中臣朝臣石木、忌部宿禰狛麻呂、正七位下菅生朝臣国桙、従七位下巫部宿禰博士、正八位上忌部宿禰名代たちの位を1階昇進させた。
正五位下中臣朝臣意美麻呂。從五位下忌部宿祢子首。從六位下中臣朝臣石木。忌部宿祢狛麻呂。正七位下菅生朝臣國桙。從七位下巫部宿祢博士。正八位上忌部宿祢名代。並進位一階。
この叙位では7人中6人が、中臣2人・忌部3人・巫部1人と、かなり露骨に祭祀に関係する氏族が並んでいます。また、菅生氏は中臣氏と祖神を同じくする氏族です。
後に定められる律令の『神祇令』では、祈年祭・月次祭について「中臣が祝詞を宣り、忌部が幣帛を班つ」と明記されています。

幣帛は神様に供える「お供え物」ですね。

忌部氏がその幣帛を数々の神社に班つ「班幣」を担っていました。
翌3月12日条では実際に「畿内及び七道の諸社」に班幣が行われています。
このことから今回の昇叙は、その前段階におけるものだったのではないかと思います。
また、この班幣は具体的には「祈年祭」のものだと考えられます。
「神祇令」では2月に行われることとなっていますが、前月の2月13日条には、
「大幣を班つため国造を急ぎ入京させた」とあり、実際のスケジュール通りにいかない何らかの事情があった可能性も考えられます。
大安殿を鎮め、大祓をし、天皇が斎戒し、幣帛を全国に分ける
3月12日(己卯) 大安殿を鎮め、大祓を行った。天皇は新宮の正殿に御して斎戒(祭祀にあたり心身を清浄にすること)した。幣帛を広く畿内及び七道の諸社に頒かたれた。
鎭大安殿大祓。天皇御新宮正殿齋戒。惣頒幣帛於畿内及七道諸社。
大安殿
大安殿を鎮めるというのはもちろん、何かが物理的に暴れているというわけではなく、祭祀のひとつであり、その空間の神や霊魂を落ち着かせるという意味です。

大安殿の位置や規模は特定されていませんが、大体の用途については推測が可能です。今回の記事のほか、『続日本紀』で2度大安殿が登場しています。
大宝元年(701)正月4日「天皇が大安殿に御し、祥瑞を受ける。告朔の儀のようであった」
同3年(703)10月25日「天皇が大安殿に御し、遣新羅使に衣服などを賜い、新羅王への贈物を授ける」
とあります。
天皇が祥瑞の奏上を受ける、天皇が新羅からの使者に物を賜う、などといったかなり公的な儀礼に用いられていたことが分かります。
大安殿の和訓は「おおやすみどの」なので、天皇の日常生活の場を思わせますが、むしろ逆で、公的な正殿と考えるのが適切です。
大祓
大祓は罪や穢れを祓い落とす祭祀で、「神祇令」には6月と12月の晦(月末)に行うとされていますが、臨時的にそれ以外の月にも行われることがあります。今回は3月なので臨時のものでしょう。
この臨時の大祓は、畿内・七道の諸社への班幣に先立ち、宮中を清浄にするために行われたものと思われます。
新宮で天皇が斎戒
「新宮」がどこにあり、また何を意味するのかは分かりません。
祭祀のために建てられた清浄な宮があり、そこを新宮と呼んで天皇の斎戒にふさわしい空間としたのでしょうか。

殿舎を鎮める→大祓をする→天皇が斎戒する
そして、その締めくくりとして全国に班幣が行われたという、この流れが個別ではなく、一体の祭祀として執り行われたように読めます。

徹底して罪・穢れを払い落として清浄にしているように見えますね。
すべてつつがなく終えられたのでしょうか…。
二槻離宮の修繕
3月17日(甲申) 大倭国(後の大和国)に二槻離宮の繕治(修繕、補修)を行わせた。
令大倭國繕治二槻離宮。
二槻離宮は『日本書紀』斉明天皇2年(656)に造営された「両槻宮」と同じものとする理解が一般的です。
『日本書紀』斉明天皇2年(656)
この年、田身嶺(多武峰)の頂に垣をめぐらし、また嶺の上の二本の槻の木のそばに観を建て、これを両槻宮と名づけ、また天宮ともいった。
その後も持統天皇の利用が確認できます。
- 持統天皇7年(693) 持統天皇が多武嶺へ行幸
- 同10年(696) 持統天皇が二槻宮へ行幸
- 大宝2年(702) 大倭国に二槻離宮の修繕を命令(今回の記事)
したがって、斉明天皇の時代だけの一時的な施設ではなく、少なくとも約半世紀後まで離宮として維持されていたことが分かります。

まあ、天宮なんて名付けられるくらいですもんね。
嶺の上に離宮とは、造るのすごく大変そうです。

そうですね、しかもこの離宮は今後登場せず国史から姿を消します。
もっとも、「登場しない=使われない」とはなりませんが…。
遺構未発見

田身嶺は現在「多武峰」として知られますが、峰の頂上付近にその遺構は見つかっておらず、諸説あるようですが、所在地は不明です。今後の発掘調査の結果に期待です。
越中国の四郡を分割し、越後国へ編入する
(続き)
越中国の四郡を分けて越後国の所属とした。
分越中國四郡屬越後國。
越中国とは現在の富山県につながる国名ですが、その四郡は次の通り。
頚城郡(糸魚川市、上越市など)
魚沼郡(魚沼市、十日町市など)
蒲原郡(新潟市の一部、長岡市、柏崎市など)
古志郡(長岡市の一部・小千谷市など)
分割された越中国の四郡は、頚城郡、魚沼郡、蒲原郡、古志郡です。
広大だった越中国


かなり広大な範囲が越中国だったんですね。

そうです。それと同時に、この時に越後国として今の新潟県の大体の形が成立したということです。
美濃国多伎郡の民が近江国蒲生郡へ移住

3月23日(庚寅) 美濃国多伎郡の民716口(人数を数える単位)を近江国蒲生郡に移した。
美濃國多伎郡民七百十六口。遷于近江國蒲生郡。
多伎郡は後に「多芸郡」となり、現在の位置としては岐阜県養老町を中心に、海津市・大垣市の一部にまたがる地域です。
また、蒲生郡は現在の滋賀県近江八幡市周辺から日野町にかけての地域です。
移住の理由は語られない

まず前提としては、原文に「遷」とあるため、この移住は人民の意思ではなく当時の朝廷の政策のもとに行われた措置であるということです。
記事には移住の理由は書かれていないため、その目的は不明です。
ただし、蒲生郡側に未開墾地が多かったための殖民政策だった可能性は考えられており、大正11年(1922)に刊行された郷土史料『近江蒲生郡志』には、水害などで多伎郡から移したのか、蒲生郡の人口増加・開墾のためなのか、としています(しかし結論としては「分明ならず」としている)。
近江蒲生郡志(次世代デジタルライブラリー)
信濃国から梓弓が献上され、これを大宰府に充てる
3月27日(甲午) 信濃国が梓弓1020張を献上した。これを大宰府に充当した。
信濃國獻梓弓一千廿張。以充大宰府。
梓弓の献上は2月22日にもあり、その時は歌斐国(甲斐国)の弓500張を大宰府に充てていました。
今回の献上と合わせると1520張となり、甲斐・信濃など東国で生産された大量の弓が、大宰府の軍備のために送られていたことが分かります。

なお、この年の8月1日には薩摩・多褹への征討が行われるので、結果的には南九州での軍事行動の直前に大量の弓が大宰府へ集められていたことになります。

しっかり役に立っちゃったみたいですね
大宰府に国司の掾などの詮議権を与える
3月30日(丁酉) 大宰府が、専ら管轄の国司の掾(四等官の第3)以下と郡司を銓擬(人物を選考し、推薦すること。詮議)することを許可した。
聽大宰府專銓擬所部國掾已下及郡司等。
「大宰府が管下の国司の掾以下と郡司を詮議することを許可した」
| 長官 | 次官 | 三等官 | 四等官 | |
| 国司 | 守(かみ) | 介(すけ) | 掾(じょう) | 目(さかん) |
詮議は辞書によると「評議して物事を明らかにすること。また、その評議。また、物事をよく調べること」とあります。

ここでは大宰府が国司の候補者を選び、これを中央に推薦することを指していると思います。特に「専ら」とあるのははかなり重要で、大宰府に掾・郡司について独自の人事選考権を認めたという意味合いです。
大宰府以外の各国では、郡司候補はそれぞれの国府から中央へ推薦し、式部省で選考を受けるのが原則でした。

つまり、九州諸国の掾・郡司は一括して大宰府が中央に推薦し、中央で試験を受けさせるということですね。

そうです。あくまで任命をするのは中央ですが、これを推薦する権利を大宰府に与えたということになります。
大宰府は京から距離が離れており、それでいて日本と外国との玄関口であり、防衛上の要地でもあるという性質上、他の国府よりも行政上の裁量が認められていました。

その特殊な地位から「遠の朝廷」と呼ばれることもありましたね。
次回の記事 大宝2年4月





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