こんにちは、みちのくです☀️
今回は大宝2年3月から5月の記事を追っていきますよ〜!
まったりいきましょう♨️
大宝2年(西暦702年)現代語訳・解説
イナゴによる食害
3月5日(壬申) 因幡(鳥取県東部)・伯耆(因幡国の西で鳥取県中西部)・隠岐の3国にイナゴの害があり、稲が損なわれた。
3月上旬は、今の暦だと4月半ばにあたりますが、通常この時期のイナゴは卵であり、稲の害虫になる成虫は発生しません。
異常な発生があったか、実はイナゴ以外の虫(ウンカやゾウムシなど)の害だったのか、あるいは『続日本紀』編集上の不備か…。
色々調べてみましたが、謎でした!
度量(ものさしなど)の配布
3月8日(乙亥) 初めて度量を天下諸国に頒布した。
度量の「度」は長さ、量は「容積」。
度量を頒布したとは、ものさしやますなどの道具を全国に配布したということです。田地の面積や、徴収した租税の量などが律令の規定どおりの分量になるように統一された基準を定める必要があったためです。
中臣氏・忌部氏などの昇叙
3月11日(戊寅) 正五位下中臣朝臣意美麻呂、従五位下忌部宿禰子首、従六位下中臣朝臣石木、忌部宿禰狛麻呂、正七位下菅生朝臣国桙、従七位下巫部宿禰博士、正八位上忌部宿禰名代たちの位を1階昇進させた。
中臣、忌部、巫部と、列挙される氏族名を見るに、おそらく先月の祈年祭に関連した昇叙ではないかと思います。
中臣が祝詞を宣し、忌部が幣帛(神々への供物)を諸社に分ける、巫部は「巫女」など、今の言葉にも残るように、神と通じ、神の意思を受け取る役目を担った一族でしょう。
菅生氏は、中臣氏と同祖(祖神が同じ)のようです。
中臣意美麻呂は、中臣鎌足の養子で、藤原不比等とは義理の兄弟です。
天皇みずからの祭祀(班幣)
3月12日(己卯) 大安殿を鎮めて大祓をした。天皇は新宮の正殿に御し、斎戒(祭祀にあたり身を清めること)して、幣帛を畿内及び七道諸社に分かち給われた。
大安殿とは、天皇が日常の生活を過ごす殿舎です。和訓では「おおやすみどの」。
天皇がお休みになるから「おおやすみどの」なんですね♨️
「新宮」がどの宮を指すのか不明です。文脈から考えると、大祓をした大安殿を指して「新宮」といっているのでしょうか。
大祓は、罪や穢れを祓い落とす儀式で、毎年6月と12月の晦(月末)に行うことと定められていますが、臨時にそれ以外の月にも行われることがあります。
この臨時の大祓が行われた理由は、大安殿(新宮?)において班幣(神への供物を全国の神社に分配して奉るもの)を行うためかと思われます。
ただ、そもそも祈年祭が2月に行われたのに再び班幣をする理由が分かりません。
天皇が自ら大祓の祭祀を行ったのですから、大変重要な儀式だったことは間違いないですが、謎が多いです。
二槻離宮・越中国分割と越後国
二槻離宮の謎 現在所在地不明
3月17日(甲申) 大倭国(奈良県)をして二槻離宮を修繕させた。
二槻離宮は両槻離宮とも書き、『日本書紀』斉明天皇2年()に築造されました。
『日本書紀』斉明天皇2年(656)
この年、田身嶺(多武峰)の頂に垣をめぐらし、また嶺の上の二本の槻の木のそばに観を建て、これを両槻宮と名づけ、また天宮ともいった。
田身嶺は、「多武峰」として名前が残っていますが、山の頂上付近にその遺構は見つかっておらず、諸説あるようですが、現在その所在地は不明です。今後の発掘調査の結果に期待です。
このように、飛鳥宮や飛鳥寺付近の遺跡(酒船石遺跡)が推定地とされていますが、「天宮」という異名があるほどですから、里のある平地にこの宮があったとは考えにくいと思います。
斉明天皇は民に過酷な土木工事を課したとのことなので、山の上に離宮を造ったというのもあながちあり得ない話ではない(そもそも『書紀』には「田身嶺の頂」と明確に書いてある)と思います。
越中国の分割、越後国への編入
(続き)
越中国(富山県)の4郡を分割して越後国(新潟県)の所属とした。
分割された越中国の4郡は、頚城郡(糸魚川市、上越市など)、魚沼郡(魚沼市、十日町市など)、蒲原郡(新潟市の一部、長岡市、柏崎市など)、古志郡(長岡市の一部・小千谷市など)です。
かなり広大な領域が越中国だったんですね〜!
今の新潟県の形はこのときにできたんですね☀️
美濃国の住民、近江国へ移住
3月23日(庚寅) 美濃国(岐阜県)多伎郡の民716口を近江国(滋賀県)蒲生郡に移した。
多伎郡は、現在の岐阜県養老郡養老町・海津市・大垣市です。
美濃国多伎郡と近江国の境は山間部であるため、住人716名は今の関ヶ原の地を通っていったと思われます。
人の数の単位が「口」なのはなぜでしょう?
「口」という単位は、奴婢や外国人や武器や農具を数えたりするときに使われたようです。何らかの労役のために、特に人の「人格」などを考慮しない場合の単位ではないかとされています。
信濃国から梓弓が献上される
3月27日(甲午) 信濃国(長野県)が梓弓1020張を献上した。これを太宰府に支給した。
梓弓の献上は同年2月の記事にもありましたね。
前回は甲斐国から500張が太宰府に運ばれ、今回は信濃国からの献上で、1020張太宰府に支給と、数が倍以上に増えました。
主に北九州防衛の防人に支給されたんですよね。梓弓がたくさん太宰府に送られたということですが、防人って一体何人くらいいたんでしょう?
防人の任を終えて郷里に帰る人として、記録には2000人以上の防人がいたようです。
今回の梓弓支給の数としても規模的に合っていますね。
太宰府の権限拡大
3月30日(丁酉) 太宰府が、管轄の国司の掾(第3等官)以下と郡司を詮議(評議して任命すること)することを許可した。
太宰府は京から距離が離れており、それでいて日本と外国との玄関口であり、防衛上の要地でもあるという性質上、ある程度の自治が認められていました。それにより権限も大きくなり「遠の朝廷」と呼ばれることもありました。
律令の官僚制は、四等官という制度がありました。国司の掾というのは、国司という官職の上から3番目の等級です。
長官 | 次官 | 三等官 | 四等官 | |
国司 | 守(かみ) | 介(すけ) | 掾(じょう) | 目(さかん) |
「国司」という官職の中に4階層の序列があるということですね!
賀茂祭騎射の禁 その2
夏 4月3日(庚子) 賀茂の祭の日に、群衆がより集まって仗をとり、騎射することを禁じた。ただし当国(山背国。京都府)の人はこの禁の範囲に含めなかった。
文武天皇2年(698)3月10日にも騎射を禁じる命令が出されていましたが、守られていないようです。
ただし今回は賀茂神社のある山背国の人による騎射は認められました。
とうとう公認されましたね!禁止されても続けられているくらいに人気があったってことですよね。
見ものとして人気があったのは間違いないでしょうが、それ以上に騎射の技術向上は朝廷としても歓迎すべきものがあったのでしょう。
武術で最も奨励されたのは、弓術と馬術でしたから☀️
それにしても、群衆がより集まって仗をとりって…かなり物騒ですね。
飛騨国の神馬献上
4月8日(乙巳) 飛騨国(岐阜県北部)が神馬を献上したため、天下に大赦した。ただし、盗人はこの赦に含めなかった。
飛騨国の国司の目(第4等官)以上と神馬を出した郡の大領(郡司の長官)には位をそれぞれ一階進ませた。それぞれ差をつけて禄を賜った。
百姓に3年間の免税を許した。
神馬を捕えた僧・隆観の罪を免じて入京させた【流罪となっていた僧・幸甚の子である】。
また、すべての親王以下、畿内の位階のある者に物を賜った。
諸国の今年の田租を免じ、並びに庸の半分を減じた。
神馬とは、神が乗馬する馬であり、文字通り神聖視されました。
具体的にはどんな馬が神馬だったのですか?
神馬とされる条件は、体色が青みがかった黒毛で、たてがみと尾が白のものといわれています。『続日本紀』の別の神馬献上にかかわる記事には次のようにあります。
天平3年(731)12月2日(丙子) 甲斐国が神馬を献上した。その馬は黒い体に、白いたてがみと尾があった。
同年12月21日(乙未)(前略)謹んで、献上された神馬を調べてみると、『符瑞図』には「神馬は河の精である」とある。『孝経援神契』には「王の徳が遠く山にまで至ったときに、神馬が出現する」とある。まことにこれは大瑞である。宗廟からの賜り物であり、国家として祝うべき物である。
神護景雲2年(768)9月11日(辛巳) 顧野王の『符瑞図』には「青馬の白いたてがみと尾があるものは神馬である」とある。『孝経援神契』には「王道による政の徳が、遠く山にまで行き渡ったとき、沢から神馬が出現する」とある。
馬が「河の精」で、沢から姿を現す、ですか…。初めて聞きましたし、今の私たちにはそういうイメージってありませんよね。
神宝・ヒイラギの桙
4月10日(丁未) 従七位下秦忌寸広庭が杠谷樹の八尋(非常に大きいこと)の桙根を献上した。使者を遣わして伊勢太神宮に奉納させた。
杠谷樹は、柊(ヒイラギ)です。
この年正月8日にも柊の献上がありました。もしかしたら、この献上された柊を加工して「桙根」にしたのかもしれません。
秦氏は渡来氏族として、大陸由来の技術を身につけた職人系氏族ですからね。
「桙根」とはなんなのでしょう?
桙は長物の武器で、柄の先端に両刃の刃がついたものです。
神話にかかわりが深く、桙自体が神聖なものなのでしょう。「根」についてはよくわかりません。
柊の葉は魔除けになるし、その木を桙に加工すれば最強ってことですね!
詔により国造の氏を定める
4月13日(庚戌) 詔により、諸国の国造の氏を定めた。その名は『国造記』に詳細がある。
『国造記』は今では失われていますが、この書を材料に編集し、平安時代に完成した『国造本紀』は今でも読むことができます。
国造とは、大化の改新よりも昔から大和政権により任命され地方を支配していた豪族です。大化2年(646)の改新の詔で廃止されましたが、その後も地方で影響力を保ち、大宝律令制定後も郡司として任命されていました。
『国造本紀』は135もの地方の国造の成り立ちや系譜を列挙しているため、古代史研究のための重要文献になっています。
采女と兵衛の献上
4月15日(壬子) 筑紫(九州)の7か国と越後国(新潟県)に采女・兵衛を簡點(人を考査して任用すること)させ、これを献上させた。ただし、陸奥国は除外した。
采女
采女は、宮廷で働く下級の女官です。
律令制では采女に任命される条件として「郡司を務める一族の女性のうち、13歳以上30歳以下の容姿端麗な者」とされていました。
下級女官とはいえ、天皇や皇族の寵愛を受けることもあり、政治に影響を及ぼすことがしばしばあったようです。
たとえば、天智天皇の子で、壬申の乱で敗北した大友皇子の母は伊賀采女という女性でした。おそらく伊賀の郡司の女性でしょう。
もともと容姿端麗な人を採用しているのだから自ずとそうなりますよね、、
兵衛
兵衛は、兵衛府に所属して内裏の門の警備を行い、天皇のおでかけ(行幸)のときは行列の前後を守備しました。兵衛府は左右に分けられ、左兵衛府と右兵衛府がありました。
兵衛もまた采女と同じく、郡司の子弟から選抜され、体力のある弓馬の術が優れている人が郡ごとに1人選ばれました。
勅による5世王の優遇
5月5日(辛未) 次のように勅を下した「もし5世王が自ら訴訟することがあり、すべてこれを受理すべきときは、特に座席を設けて訴えによる利益を与えること」。
5世王とは、天皇の子(親王)から1世と数えて5世代目の子孫のことです。
律令においては、皇族の範囲を「継嗣令」で以下のように定めています。
継嗣令
天皇の兄弟と皇子は、皆これを親王とせよ【女帝の子もまた同じ】。以外は並びに諸王とせよ。親王より5世は、王の名を得ているとしても、皇親(皇族)の範囲に入らない。
このように5世王は、○○王と王号を名乗ることはできましたが、皇族とは認められないこととなっていました。
でも今回の記事で、5世王でも一定の特別待遇が認められたということですね。
この時代は皇族と臣下の線引きが強く意識されていましたから、たとえ天皇から血縁が離れていても、その品位を守ることが求められたんですね。
参議の任命
5月21日(丁亥) 従三位大伴宿禰安麻呂、正四位下粟田朝臣真人、従四位上高向朝臣麻呂、従四位下下毛野朝臣古麻呂、小野朝臣毛野に参議しめた。
参議は律令に規定のない官ですが、大臣と大納言に次ぐ重要な立場で国政の最高意思決定にかかわります。
大伴安麻呂は大伴氏のリーダー、粟田真人と下毛野古麻呂は律令選定の主要人物ですね。確かに大物がそろっています!
ちなみに小野毛野は遣隋使の小野妹子の孫です。
この記事では参議を「サンギ」ではなく「まいりはから」しめたと読ませており、官職名としての「参議」とは若干異なるようですが、これが歴史上の参議の初出です。
太政官の構成員は以下の通りになりました。
太政大臣 空席
左大臣 空席
右大臣 従二位阿倍御主人
大納言 正三位石上麻呂、藤原不比等、従三位紀麻呂
参議 従三位大伴安麻呂、正四位下粟田真人、従四位上高向麻呂、従四位下下毛野古麻呂、小野毛野
(中納言は廃止)
時にいずみさん、この太政官の構成を見て何か気づくことはありませんか?
わかりません!
藤原氏が政権を掌握する以前の時代は、太政官のメンバーはそれぞれ異なる氏族の代表者が選ばれました。右大臣から参議まで、メンバー全員違う氏族ですね。これを「一氏一人制」と呼びます。
参考書籍など
次回!
👇
👇
コメント