【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲2年② 飢ゑる国民 ゴーストタウンと化す藤原京

慶雲
いずみ
いずみ

こんにちは、いずみです!
今回もよろしくお願いします♨️

みちのく
みちのく

前回に引き続き、日本は災害に見舞われ苦境に立たされています。

慶雲2年(乙巳・西暦705年)現代語訳・解説

去(忍壁親王)

5月7日(丙戌ひのえいぬ) 三品忍壁おさかべ親王が薨じた。使いを遣わして喪事を監護させた。親王は、天武天皇の第9皇子である。

 忍壁親王は、刑部おさかべ親王とも表記されることがあります。刑部という名のルーツは『日本書紀』にあり、古墳時代にあたる第19代允恭いんぎょう天皇の2年(413)2月14日条に「天皇はこの日、皇后(忍坂大中姫おしさかのおおなかつひめ)のために刑部おしさかべを定めた」とあります。
 「刑部を定めた」とは、皇后の私有民として仕え、身の回りのさまざまなことに奉仕する部民(これを名代なじろという)を定め、設置したという意味です。皇后の名そのままに「忍坂部おしさかべ」とも表記されます。

みちのく
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この名代の「刑部」が氏の名となり、刑部親王はこの刑部氏のもとで養育されたので、刑部親王の名があるのでしょう。
「忍壁」は刑部の別表記の「忍坂部」の発音が年月とともに短くなり「おさかべ」となった結果、この用字になったのだと思います。

 忍壁親王は、これまで文武天皇を全面的に領導していた持統上皇が崩御したため、大宝3年(703)正月20日に、上皇にかわり天皇を補佐する役割を期待され「知太政官事」という、太政官を統括するポストについていました。

忍壁親王は文武天皇から見て叔父にあたる
いずみ
いずみ

上皇に続いて文武天皇のサポートをする人がまた1人いなくなってしまったわけですね…。

みちのく
みちのく

忍壁親王は文武天皇の補佐のほか、大宝律令編集チームの筆頭者として、律令国家建設に大きな役割を果たしました。親王の死は天皇と朝廷にとって大きな痛手になったことでしょう。

任官(尾張守)

5月8日(丁亥ひのとい) 正五位下大伴宿禰手拍おおとものすくねたうち尾張守おわりのかみに任じた。

 大伴手拍は、文武天皇2年(698)11月23日条、天皇の即位大嘗祭のとき、古くからのならわしに従い大嘗宮の門前に矛と楯を立てる役目を担った人物です。

みちのく
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大伴氏は日本がヤマト朝廷と呼ばれていた時代から、軍事に長けていた氏族です。
このことから矛と楯により大嘗の儀式を魔から守護する役目を任されたのでしょう。

 尾張守は、尾張国(愛知県西半部)の国守(国司の長官)です。

遣新羅使の帰国

5月24日(癸卯みずのとう) 幡文造通はたのあやのみやつことおるたちが新羅から帰国した。

 幡文通(はたのあやのとおる)は昨年(慶雲元年(704)10月9日)に遣新羅大使に任命された人物です。

祈雨

6月26日(乙亥きのとい) 幣帛(供え物)を諸社に奉って祈雨を行った。

いずみ
いずみ

旧暦で6月下旬ですから、今の暦だと8月上旬ころですね。
稲などの作物の生育のため、一番雨が降ってほしい時期ですが…。

みちのく
みちのく

慶雲2年も前年に引き続き天候不良が続いているようです。

太政官奏上(僧による祈雨、市場の停止と南門の閉鎖)

南門は内裏(皇居)への入り口(画像は平城宮南門である朱雀門)。門の手前には大路がのび、左右に貴族たちの邸宅があった

6月27日(丙子ひのえね) 太政官が次のように奏上した。「日照りが続き、田園が燋卷しょうけん(植物が枯れて縮んでいる様子)しております。久しくあまごいをしておりますが、未だ嘉澍かじゅ(恵みの雨)は降りません。そのため、京畿けいき(京のある大倭国とその周囲の国)内の行いの清らかな僧に祈雨をさせることを要望いたします。ならびに、京内において市廛してん(市場)を開くことを自粛させ、南門を閉鎖することを要望いたします」と。
 天皇はこれを奏可(奏上してきた内容を許可すること)した。

みちのく
みちのく

この状況に太政官も焦りを隠しきれないようです。

いずみ
いずみ

市場を開くのを自粛し、南門を閉鎖…これにはどういった理由があるのでしょうか?
日照りが続くことと一体何の関係があるのでしょう??

みちのく
みちのく

僧侶に祈雨を行わせるにあたって、京内の賑わいや喧騒を慎ませて静かな環境を作り出そうとしたのではないでしょうか。南門の閉鎖は人民に「行動を慎め」というメッセージと、災異という魔から皇宮を守るという意図があったのでしょう。

いずみ
いずみ

天変地異が起きたときに「不要不急の外出を避ける」というのは、今の時代にも通用しますね。

去(紀麻呂)

春の宴のイメージ

秋 7月19日(丙申ひのえさる) 大納言正三位紀朝臣麻呂きのあそんまろが薨じた。近江朝(天智天皇の時代のこと)御史大夫ぎょしたいふ(大宝律令以前に置かれていた大臣の次席の官)贈正三位紀朝臣大人うしの子である。

いずみ
いずみ

刑部親王に続き、太政官の構成員がまたひとり亡くなったわけですね…。

みちのく
みちのく

作物の不良もあり、国にとって弱り目に祟り目といったところでしょうか…。
紀麻呂は『懐風藻かいふうそう』という漢詩集に1首作品が残されています。

春の日、詔に応ず。

恵気四望けいきしぼうに浮かび、重光一園に春なり。
式宴は仁智に依り、優遊にして詩人をうながす。
崑山こんざん(崑崙山。中国西方の極地で、仙女が住むとされた)珠玉さかんにして、瑤水花藻ようすいかそうぶ。
階梅素蝶かいばいそちょうきそい、塘柳芳塵とうりゅうほうじんく。
天徳堯舜ぎょうしゅん(中国の古代の聖帝である堯帝と舜帝)を十にし、皇恩万民をらす。

(現代語訳)
穏やかな気が四方に浮かび、大いなる光が庭園一面を照らす春となった。
天皇の宴は
智にもとづき、のどかな様子は詩人に作詩をうながす。
崑崙山には珠玉が満ちていて、池には美しい藻が茂っている。
階段の梅の花はその白さを蝶と競い、池の柳は良い香りのする塵を漂わせる。
天皇の徳は堯舜の十倍し、その恩恵は天下の人民にゆき渡っている

みちのく
みちのく

こちらは文武天皇の治世に詠まれたとされる漢詩で、天皇主催の春の宴で紀麻呂が天皇の指名を受けて詠んだものです。
当時の貴族には漢文の知識が必須で、漢詩を詠む能力は官人の重要な教養でした。

いずみ
いずみ

漢文は難しいですが、天皇から指名されて漢詩集に載せられるほどですから紀麻呂はすぐれた人物だったことがわかります。
詩文は穏やかな光と、梅や蝶といった春の穏やかな景色が文武天皇の優れた治世の賜物であると賞賛していますね。

大風の被害(大倭国)

7月29日(丙午ひのえうま) 大風により、大倭国やまとのくに(奈良県)の百姓の廬舎ろしゃ(家屋)が損壊された。

 藤原京のある大倭国にも災害が襲います。

(大赦、賑恤、調の半減)

8月11日(戊午つちのえうま) 次のようにみことのりした。「陰陽は度を失い、炎旱えんかん(日照り)は長きにわたっている。百姓は飢えにより犯罪に走り、自ら法の網にかかる有様である。よって、天下に大赦を下し、死罪以下、罪の軽重なくことごとくこれを許し、老人、病人、鰥寡かんか(未亡人と妻を失った夫)惸独けいどく(身寄りのない者)で自存することのできない者に賑恤しんじゅつ(貧困者や被災者などを援助するために金品を与えること)を加えるべし。ただし、八虐(律に規定された8種の重大犯罪)で、通常の赦で許されない者はこの限りではない。また、諸国の調の半数を免除せよ」と。

 6月25日、6月26日と祈雨を行いましたが、やはりいまだに雨が降らないようです。この8月の時点でまったく雨が降っていないとすれば、秋の収穫はもはや絶望的でしょう。前年に続き2年連続で不作となれば全国の百姓はもちろんのこと、中央の皇族や貴族の衣食も相当に厳しい状況になっていたはずです。
 それでなくとも、当時は平年並み程度の収穫では1人に班給された口分田から成人男性1人を1年間まかなう量の稲はほとんど収穫できなかったので、不作ともなれば、もはや死を覚悟しなければならなかったでしょう。

みちのく
みちのく

こういった飢饉に備えるため、非常時の粟や稲などの穀物を蓄える「義倉」がありましたが、飢えをしのぐため犯罪に走る人が続出したとあれば、義倉が機能していたのかは疑問です。

いずみ
いずみ

あまりにも厳しい

 続いて大赦ですが、八虐を犯した者は今回の赦の範囲には含まれませんでした。

八虐とは以下の8種類
国家転覆…謀反むへん
御陵や皇居の破壊…謀大逆むたいぎゃく
国に背いて他国に従う…謀叛むほん
年長の親族への暴行や殺人…悪逆
残酷な殺人や大量殺人、毒物の所持や呪術の使用…不道
大社(伊勢神宮を指すか)や天皇に対する誹謗…大不敬
祖父母や父母への犯罪…不孝
目上や貴人への礼儀に反する罪…不義

叙位

第8回遣唐使 遣唐執節使従三位中納言・粟田真人 『前賢故実』より

(続き)

 また、遣唐使粟田朝臣真人あわたのあそんまひとに従三位を授けた。以下の遣唐使たちにも差をつけて位階を進め物を賜った。

 すでに粟田真人は遣唐使の任務を終え、このときはすでに高官である中納言に任命されていましたが、肩書きとしていまだに遣唐使と付けられ、朝廷がその功績に報いていることから、第8回遣唐使はよほど大きな成果をあげたことがわかります。

任官(大納言など)

(続き)

 従三位大伴宿禰安麻呂やすまろを大納言に任じた。従四位下美努王みぬおう摂津大夫つのかみに任じた。

 大納言紀麻呂が亡くなったため、新たに大伴氏の中から大納言が任命されました。大伴安麻呂は、右大臣を経験した御行の弟で、大宝2年(702)5月21日に参議に任命され、太政官にて政権運営に携わっていました。

★参考 この時点での太政官の構成員
知太政官事(臨時の官) 空席
太政大臣 空席
左大臣 空席
右大臣 従二位石上麻呂
大納言(定員2名) 正三位藤原不比等、従三位大伴安麻呂
中納言(定員3名) 正四位下粟田真人、従四位上高向麻呂、従四位上阿部朝臣宿奈麻呂
参 議 従四位下下毛野古麻呂・小野毛野

いずみ
いずみ

参議から中納言を飛び越して一気に大納言へ…!

 美努王はこちら(大宝2年正月17日)でも解説しています。
 摂津大夫は摂津国(大阪府北部、兵庫県南東部)の行政を担当した地方官の長です。他の国と違い、国司ではなく「摂津職」という名称で特別扱いを受け、長官も摂津「守」ではなく摂津「大夫」です。これは、摂津国には難波宮と難波津という重要な離宮と港を擁しているのが理由です。

みちのく
みちのく

大化の改新のときの日本の都は難波でした!
その後、聖武天皇の時代にも一時的に難波が都とされた期間があります。








次回

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