
こんにちは、いずみです♨️
慶雲2年も苦境は続いているようですが、すでに今の暦では10月過ぎ…。
果たして秋の収穫はあったのでしょうか…?

はっきり言って絶望的かと思われます
慶雲2年(乙巳・西暦705年)現代語訳・解説
詔(知太政官事を任命)
9月5日(壬午) 詔により二品穂積親王を知太政官事に任じた。
文武天皇の補佐のため知太政官事(太政官の統括者)に任命されていた刑部親王が薨去したため(慶雲2年5月7日)、その後任として穂積親王が新たに任命されました。穂積親王も刑部親王と同じく天武天皇の皇子です。
穂積親王は『日本書紀』には事績がほとんど残されておらず不明な点が多いですが、『続日本紀』には持統上皇の葬礼にかかわる任官記事が存在します。
大宝2年(702)12月23日 二品穂積親王・従四位上犬上王・正五位下路真人大人・従五位下佐伯宿禰百足・黄文連本実を作殯宮司に任じた。
大宝3年(703)10月9日 太上天皇(持統上皇)の御葬司を設置し、二品穂積親王を御装長官に任じた。
上皇のご遺体を安置するための宮(殯宮)を作る責任者、火葬の際に上皇が着用する装束の責任者に任命されており、朝廷からの信頼が厚かったようです。

文武天皇を補佐してどうにかこの苦境を乗り越えていただきたいですね。
八咫烏の社


9月9日(丙戌) 八咫烏の社を大倭国宇太郡(奈良県宇陀市)で祭ることとした。
八咫烏は、『古事記』『日本書紀』に語られる日本の建国神話のうち神武天皇東征の段で登場する烏の姿をした神です。九州を本拠としていたイワレヒコ(のちの神武天皇)は勢力を東に広げ、ヤマトにたどりつく直前のこと、天から降臨して先にヤマトの地を治めていた神(饒速日命)の勢力と戦いになりました。イワレヒコは苦戦し、深い山中で道に迷っていたとき、太陽神天照大神の神勅により八咫烏が彼のもとに降り立ち、勝利に導いたことが伝えられています。

戦いに勝利したイワレヒコは、ヤマトに入り初代天皇として即位します!
八咫烏神社は『続日本紀』のこの記事にもとづいて、神社創建の日と定めています。
任官(伊勢守)
9月20日(丁酉) 従五位上当麻真人櫻井を伊勢守に任じた。
伊勢守は伊勢国の国司の長官です。
当麻櫻井は『日本書紀』持統天皇3年(689)2月26日条にて、判事に任命されたと見えます。判事は、罪人の罪状を審査して量刑などを行う官です。
祥瑞の献上

9月26日(癸卯) 越前国(福井県)が赤烏を献上した。越前国司と祥瑞を出した郡の郡司たちに位1階を進め、百姓の1年間の税を免除した。赤烏を捕らえた人、宍人臣国持に従八位下を授け、並びに絁、綿、布、鍬を賜った。
赤烏は中国に伝わる、太陽に住むという伝説を持つ三本足の烏です。

伝説の生き物ですね!赤烏という名前は烏の体の色が赤いのではなく、
太陽の色から来ている感じですね。

太陽に住む、つまり日本において赤烏は太陽の神である天照大神の従者ということであり、これは先ほども触れた神武東征神話における八咫烏に相当します。

奇しくも八咫烏神社を創建した同じ月に朝廷に八咫烏が献上されたわけですね。
それにしても一体どうやって捕まえたのでしょうか???

それはなんとも言い難いですね。そもそも何をもって「赤烏である」と認定したのかがわかりません。足が3本あったとは思えませんし…。
赤烏を捕らえたという話は今回が初めてではなく、『日本書紀』持統天皇6年(692)5月7日条にも記録があり、このときは相模国御浦郡(神奈川県三浦郡)で赤烏のヒナ2羽を献上したというものでした。しかし、こちらも同じく何をもって赤烏と認定したかは一切不明。
持統天皇6年のときと今回との共通点は、いずれも雨が降らないため祈雨が多く行われた年ということです。こういった災害級の日照りが発生するときには、日の神からの使者が地上に降り立つことが期待されたでしょうし、この点関係があるのではないかと思います。

捕らえられた赤烏は神の使いですから相当に丁重な扱いを受けたはずですよね。陰陽師とか神官とか巫女に神託を聞かせたりしたのかも…?
詔(五道に遣使)
冬 10月26日(壬申) 詔により、使いを五道に遣わし【山陽道・西海道は除いた】高齢者、病気の老人、鰥寡(未亡人と妻を失った夫)、惸独(身寄りのない者)に賑恤(貧困者や被災者などを援助するために金品を与えること)し、ならびに当年の調の半分を免除した。
山陽道(中国地方の南半部)と西海道(九州地方)を除いたということは、これらの国は比較的災害の被害が少なかったのかもしれません。

再び訪れる冬の寒さ…庶民は乗り切ることはできるのでしょうか…?
新羅使の来朝

10月30日(丙子) 新羅の貢調使の一吉飡(新羅の官位)金儒吉たちが大宰府に来朝した。
遣新羅使の帰国(慶雲2年(705)5月24日)からほどなくして、今度は新羅から使者が来朝。新羅とは通交がマメに行われていました。ただし「貢調使」という語からも分かりますが、日本は一貫して新羅を下に見ており、あくまでも貢ぎ物を捧げてくる従属国(朝貢国)として扱っていました。

新羅との国交を深めることで日本にはどういう利益がありましたか?

新羅使と共に入国する新羅商人により半島や大陸の文物と情報がもたらされる、日本船の遭難時に協力を得ることで航海の安全性が上がることなどが考えられます。
また、新羅は半島北部にあって高句麗の後継国とみなされていた渤海国を警戒していたため、日本に隷属するような立場に甘んじてでも日本と良好な関係を維持していたかったというのが新羅側の都合としてありました。
任官(中務卿)
11月3日(己卯) 正四位上小野朝臣毛野を中務卿に任命した。
小野毛野は、大宝2年(702)5月21日から参議に任命されているため、中務卿は兼任となります。
中務卿は中務省の長官で、官位相当が正四位上であり他の7省の卿よりも1階上。そのため8省中最も重要と認識されていたことがわかります。
官位相当 律令制において、一定の官職に就くために必要な位階を定めた制度。中務卿は正四位上。兵部卿、民部卿、大蔵卿など他の7省の卿は正四位下。
中務卿の職掌は主に天皇に関することで、律令の規定によると以下のように規定されています。
- 侍従する(側近として仕える)
- 献替する(善いことを建言し、悪いことを排除する)
- 宮中での礼儀について補佐し導く
- 詔勅の文案を審査して署名する
- 覆奏する(天皇の命令で間違いないか確認のための奏上をいう)
- 宣旨(天皇の命令を下に伝える)
- 天皇の労問(勅により慰労し、安否を問うこと)を伝える
- 臣下からの上表文を受け付ける
- 国史を監修する

まさに天皇の側近ですね!

側近レベル(?)としては中納言と同等ですね
中納言も中務卿と同じく官位相当が正四位上です。
のちの時代では中務卿は親王が任命されるようになりました。
任官(斎宮頭)、詔(食封の加増)など
11月4日(庚辰) 従五位下当麻真人楯を斎宮頭に任命した。
詔があり、親王・諸王・臣下に各自差をつけて食封を加増した。
これより先、五位の官人には食封を支給していたが、ここに至り位禄(位階にもとづき与えられる給与)をもってこれに代えた。
斎宮頭は、斎宮に関する業務を担当する役所の斎宮寮の長官です。任じられた当麻楯は『日本書紀』天武天皇10年(681)7月4日に遣新羅使の小使(副使)に任命された記事が見えます。
ちなみに、このときの斎宮は、大宝元年(701)2月16日に伊勢に遣わされた泉内親王(天智天皇の皇女)です。

文武天皇のもとには皇女は誕生しませんでした。
食封とは領地です(その地に封じられて食いぶちを得るという意味。封は領地を与えるという意味)。その領地に居住する人民の戸(世帯)から徴収した租の半分と調として納品する物品の全部を個人の給与にすることが許されました。
五位(従五位下・従五位上・正五位下・正五位上の位階を持つ官人)にはこれまで食封を与えていましたが、今回これを廃止し、その代わりに五位という位階によって支給される給与(位禄)を与えることとされました。大宝令の規定(禄令第10条)にも五位(と四位)には食封を与えないとあります。
騎兵徴発と騎兵大将軍任官
11月13日(己丑) 諸国の騎兵を徴発した。新羅使を迎えるためである。正五位上紀朝臣古麻呂を騎兵大将軍に任命した。
10月30日に大宰府に着いた新羅使を藤原京に迎えるため、騎兵の徴兵が行われました。騎兵大将軍という職は律令には規定がなく(令外官)、任命は今回が初見です。以後には奈良時代に2度、行幸のために任命された例があるようです。
紀古麻呂は、7月19日に他界した大納言紀麻呂の弟とみられます。
新羅使の送迎にそれだけ気合が入っていることの現れですが、このときの日本は不作による飢餓のため国が傾いている状態です。大半の国民が飢えていますが、新羅使にそんな様子を見せるわけにはいかないので、威儀をただした儀仗兵をわざわざ用意し、騎兵大将軍という大袈裟な人事をあえて行ったのではないでしょうか?

新羅は日本の従属国という方針がありますからね…
任官(大宰帥、大宰大弐)

11月28日(甲辰) 大納言従三位大伴宿禰安麻呂に大宰帥を兼職させた。従四位下石川朝臣宮麻呂を大宰大弐に任命した。
これまで、大宝2年(702)8月16日から石上麻呂が大宰帥に任命されていましたが、大伴安麻呂と交替することになりました。安麻呂は大納言と兼官ですが、石上麻呂もまた大宰帥に任命された当時は大納言と兼官だったためこの前例にならった可能性があります。
大宰大弐に任じられた石川宮麻呂は、大宝3年(703)10月9日に、持統上皇の葬儀を監督する臨時の役所「御葬司」の次官に従四位下広瀬王・従五位下猪名大村任命されています。

大宰帥は大宰府の長官ですが、実際に現地まで赴任はしない(遙任という)ので実務上のトップは次官の大宰大弐です。

一種の名誉職でしょうか


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