【現代語訳】続日本紀 文武天皇元年② 天皇、キサキを定める

文武天皇

みちのく
みちのく

今回は、文武天皇のお妃選定についての記事を解説していきます☀️

いずみ
いずみ

よろしくお願いします♨️

文武天皇元年(西暦697年) 現代語訳・解説

藤原宮子像(道成寺蔵)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

8月20日(癸巳みずのとみ) 藤原朝臣宮子娘ふじわらのあそんみやこのいらつめ夫人ぶにんと定めた。
紀朝臣きのあそん竈門かまと娘、石川朝臣いしかわのあそん刀子とね娘をと定めた。

※藤原不比等ふひとの女子

藤原宮子は、藤原不比等の娘であり、藤原鎌足の孫です。
のちに文武天皇との間に第45代聖武しょうむ天皇をお産みになります。


天皇は複数の配偶者を持つことができ、妻たちには序列が決められていました。
のちに定められる法典(律令りつりょうといいます)には以下のように定められています。

律令 巻第二 後宮職員令こうきゅうしきいんりょう

1   定員2名。四品以上の内親王。
2 夫人ぶにん  定員3名。三位以上。
3 ひん  定員4名。五位以上。

みちのく
みちのく

キサキの最高位である皇后は律令に書かれていませんが、これを合わせて天皇は最大で10人の妻を持つことができたのです。

いずみ
いずみ

一夫多妻制ここに極まれりといった感じですね!

みちのく
みちのく

当時は乳幼児死亡率が高く、出産は命がけでした。
そのため血統を絶やさないためにも、一夫多妻制には合理性があったといえます。

キサキのうち、皇后と妃は、女性皇族にしかなれません。そのため臣下の娘である藤原宮子は、この時点では律令の規定に従い夫人(ぶにん)という地位にとどまりました(ただし、のちに特別な称号が贈られることとなります)。

なお、本文中に「紀朝臣竈門かまと娘、石川朝臣刀子とね娘をと定めた。」とありますが、紀氏と石川氏も同じく臣下ですので、これはおそらく誤植であり、正しくは(ひん)ではないかと思われます。

参考書籍など

『宮子姫物語』

みちのく
みちのく

藤原宮子生誕伝説が和歌山県御坊市に語られており、当地では「宮子姫の里」として毎年10月に時代行列が行われています。

いずみ
いずみ

物語は和歌山県の公式ウェブサイトで読むことができます♨️↓

『宮子姫物語』 和歌山県御坊市公式
『続日本紀(上)全現代語訳』宇治谷 孟






次回予告

みちのく
みちのく

文武天皇元年(697年)8月29日から12月までをとりあげます☀️

いずみ
いずみ

↓のバナーから次の記事に飛べます♨️↓

コメント

タイトルとURLをコピーしました