【現代語訳】続日本紀 文武天皇2年③ 賀茂祭の禁令

文武天皇
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回は、文武天皇治世2年3月10日から5月5日までの記事を解説します。

いずみ
いずみ

よろしくお願いします♨️

文武天皇2年(西暦698年)現代語訳・解説

藤原京の復元模型(橿原市藤原京資料室所蔵) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(郡司任命と、郡司への訓示)、賀茂祭騎射の禁

3月10日(庚午かのえうま) 諸国の郡司を任命した。よって次のようにみことのりした。

「諸国の国司たちは、公正中立の立場で郡司を詮議(検討)すること。任じられた郡司は、必ずすべて法に従い、今後違反するようなことがあってはならない。」

みちのく
みちのく

主語がないので、郡司の任命権が誰にあるのか判然としませんが、
文脈から考えると国司だったようですね。

3月21日(辛巳かのとみ) 山背国(京都府賀茂祭かものまつりの日に、人を集めて騎射することを禁じた。

古の昔から京都の賀茂神社で行われている賀茂祭は、中世の戦乱などで何度か途絶しましたが、現在でも「葵祭あおいまつり」として開催されている盛大なお祭りです。

競馬くらべうまといい、騎馬で2頭の馬を走らせ順位を争う競技が今に伝わる伝統ですが、どうやらこの時代は、馬上から弓を射る「騎射」が国の公認か非公認かは不明ながら行われていたようです。

これは、今でいう「流鏑馬やぶさめ」であり、騎射は流鏑馬の起源といわれています。

騎射(流鏑馬)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
みちのく
みちのく

賀茂祭は身分の高い人も低い人も入り乱れて見物し、
相当なお祭り騒ぎだったそうです。

いずみ
いずみ

騎射が禁止されたのは…
そんな中でするのは危ないから…ですかね?

みちのく
みちのく

騎射の見物が大人気で、人が集まりすぎて危ないとか、
見物者同士でトラブルが起きたとか…そういった理由かもしれません。

(僧の任命)、疫病、賜姓

3月22日(壬午みずのえうま) みことのりにより、恵施えせ法師を僧正そうじょうに、智淵ちえん法師を小僧都しょうそうずに、善往ぜんおう法師を律師りっしに任命した。

僧正、小僧都、律師とは、僧の階級です。

いずみ
いずみ

僧侶に階級が?初耳です!

みちのく
みちのく

当時の体制では、僧侶は政府により認可されて
初めて公に活動できる地位でした。

夏 4月3日(壬辰みずのえたつ) 近江おうみ(滋賀県)紀伊(和歌山県)の2国に疫病が流行した。そのため医師と薬を賜って治療させた。
侏儒しゅじゅであり、備前びぜん(岡山県南東部)の人、秦大兄はたのおおえに姓・香登臣かとのおみ賜った

侏儒とは、背丈が並み外れて低い人のことです。

いずみ
いずみ

並外れて…というと、大人なのに小学生くらいの背丈しかない、
くらいの加減なのでしょうか?

みちのく
みちのく

現実的には、そのくらいのさじ加減(小人症、低身長症)だと思います。
ただ、伝承として侏儒が語られるときは、一寸法師並の小人だったり、
一寸法師そのものを指すようです。

氏や姓は「賜った」という文言から分かるように、天皇から与えられるもので、これを「賜姓しせい」といいます。
通常、何らかの功績を立てた人が名誉として賜姓されることが多いです。

みちのく
みちのく

今回の場合、「侏儒である」ことが賜姓につながったようです。

いずみ
いずみ

なぜ背丈が低いことが賜姓に…??

侏儒は、神である一寸法師(スクナヒコナ神)を指す場合があり、極端に背の低かった秦大兄の存在が都まで伝わり、これをたたえて賜姓に至ったものでしょうか。

みちのく
みちのく

神様が地上に降臨された違いない!!と
そう思われたのでしょう。

いずみ
いずみ

秦大兄さん…どんな気持ちだったんでしょうね?
死後に神社とか建てられてそう。

香登」の名は現在でも岡山県備前市香登かがととして地名に残っています。
秦大兄改め、香登大兄が神として祀られているわけではありませんが、当地には大内神社があり、由緒として香登大兄が大宝年中(701〜704)に同神社の修繕を行ったとの記録が残されています。

大内神社 · 〒705-0012 岡山県備前市香登本1249
★★★★☆ · 神社

南の島への国使派遣、降雨祈願

4月13日(壬寅みずのえとら) 務広弐むこうに文忌寸ふみのいみき博士はかせたち8人を、南の嶋に遣わして国を探させた。よって、戎具じゅうぐ(武器・兵器)を支給した。

ここでいう南の嶋とは、鹿児島県から沖縄県にかかる島々で、具体的には、種子島や奄美群島、徳之島などです。

これより以前には、『日本書紀』によると、推古天皇24年(616)の3月から7月にかけて、掖玖(屋久)からの人々30人がやってきたことが記されています。

いずみ
いずみ

南海大冒険ですね!
遣唐使などで船や旅のノウハウはあったと思いますけど、すごい勇気です✨

みちのく
みちのく

遣唐使の旅も危険と隣り合わせなので、遭難した場合に備えて九州南西部の島の調査は重要です。
翌年、使者は見事に任務をまっとうし、島民がはるばる来朝してきます。

4月29日(戊午つちのえうま) 馬を芳野よしの(奈良県吉野町)水分峯神みくまりのみねのかみに奉納した。降雨祈願のためである。
5月1日(庚申かのえさる) 諸国が旱魃かんばつとなった。そのため、幣帛へいはくを諸神社に奉納した。
5月5日(甲子きのえね) 使いを京畿けいきに遣わして雨を名山、大川に祈った。

みちのく
みちのく

水分(みくまり)とは、水配り。
水の起点である山の峰には、水の恵みをつかさどる神が存在するということですね☀️

いずみ
いずみ

みくまり…覚えておきたいことばです♨️

幣帛とは、神社に奉納する物品です。
京畿とは、京と畿内。「京」はみやこ、「畿」はみやこに近い土地を意味します。
具体的には、大和国(京の置かれている国)・山背国・河内かわち国・摂津せっつ国の4カ国を指します。
のちに河内国から和泉いずみ国が分立し、5カ国となります。

参考書籍など

続日本紀(上) 全現代語訳






次回予告

みちのく
みちのく

文武天皇2年(698年)5月から8月までをとりあげます☀️

いずみ
いずみ

↓のバナーから飛べますので、ぜひ見てみてください♨️

コメント

タイトルとURLをコピーしました