【現代語訳】続日本紀 文武天皇2年②2月〜3月 たまきはる宇智

巻1(文武天皇元年8月〜4年12月)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回は、文武天皇の時代で初めての行幸があります。

いづみ
いづみ

旧暦の2月上旬は今の3月中旬ごろですよね。
春の暖かな空気の中で良い時間を過ごされたのでしょうか…。




文武天皇2年(西暦698年)現代語訳・解説 2月〜3月

新羅使が帰国

2月3日(甲午きのえうま) 金弼徳たちがばん(外国。ここでは新羅)に還った。

金弼徳等還蕃。

 新羅からの使者が自国に帰ったという意味です。

金弼徳一行は前年の文武天皇元年(697)10月28日に来朝しており、正使が一吉飡・金弼徳で、副使が奈麻・金任想でした。年を越して元日の朝賀に参加し、3日に調物(貢ぎ物)を献上しました。彼らの調物は17日に諸社、19日に天武天皇陵(大内山陵)に奉納されています。

」とは外国を意味しますが、単なる中立的な外国というより、天皇の「皇化」の外にある国という古代日本の華夷思想を背景とした語です。新羅は律令国家において「蕃国」と位置づけられていました。

いづみ
いづみ

華夷思想、つまり自国を中心に置いて、周辺の国は従属する国とする秩序ですね。
確かに、「貢ぎ物」とありますし、そもそも朝賀に列席させてる時点で臣下の礼をとらせています。

みちのく
みちのく

正月からここまで、新羅使に関する記事が細かく載っています。海外の使者が天皇を慕って来訪してきたというのは、日本の権威を大いに示すできごとです。続日本紀の編者はこれを強調したかったのでしょう。

いづみ
いづみ

権威は大事です。何と言っても国の正史ですからね。




宇智行幸

2月5日(丙申ひのえさる) 車駕しゃが(天皇がお乗りになる車転じて天皇自身をいう)は、宇智うち(奈良県五條市)に行幸した。

車駕幸宇智郡。

万葉集に歌われる宇智

 宇智について『万葉集』に、次の歌が収められています。

『万葉集』巻第1・雑歌 歌番号:4
舒明天皇が宇智の野に遊猟みかりされた時に、中皇命なかつすめらみこと間人連老はしひとのむらじおゆに奉らせ給ふ歌

たまきはる宇智の大野に馬めて 朝踏ますらむその草深野ふかの

(魂のきわまる宇智の大野に馬をつらね、朝には大地を踏ませていることだろう、その草深い野で)

 まず注意点ですが、この歌は今回の行幸の歌ではありません。天武天皇の父、文武天皇から見れば曽祖父にあたる舒明天皇の時の歌です。

みちのく
みちのく

つまり宇智は曽祖父の代から伝統的に天皇の遊猟に使われてきた地であると言えそうです。宇智には「大野」があり、狩りに適した地だったことが分かります。

いづみ
いづみ

となると、やはり文武天皇も遊猟のために宇智を訪れたと見て良いのでしょうか?

みちのく
みちのく

『続日本紀』には行幸の目的が書かれていない以上は推測ではありますが、その可能性は高いと思います。

射芸に秀でていた文武天皇

文武天皇は即位前紀(即位前の経歴や天皇の出自、人柄などを記した箇所)によると、「尤善射芸」(とりわけ射芸をよくした)とあり、遊猟のイメージと合います。

また、『万葉集』の柿本人麻呂の歌には、文武天皇が即位前の「軽皇子」時代に「安騎の野」にお出かけになり、遊猟されたことをうかがわせる歌が残っています(歌番号:45〜49)。

さらに、慶雲3年(706)2月23日条にも宇智(内野と表記されている)に行幸しています。

いづみ
いづみ

見晴らしの良い丘から宇智の平原を見下ろす馬上の文武天皇…。
りりしい横顔をイメージするとほれぼれしちゃいます!

みちのく
みちのく

そういう景色は当時本当にあったかもしれませんね。




職事官と才伎の長上に禄を支給する

2月12日(癸卯みずのとう) 百官(多くの官人)職事しきじと、才伎さいぎ(専門知識と技能を持つ技術官)長上ちょうじょう(常勤者のこと)に、それぞれ差を設けて禄(給与)を賜った。

賜百官職事已上及才伎長上祿各有差。

職事とは?

職事とはざっくり言うと、律令に規定が存在する正規の官(職事官)です。

例えば、養老律令の「官位令」について一部を列挙すると、

左右大臣(太政官の長官) 従二位
大宰帥(大宰府の長官) 従三位
式部卿(式部省の長官) 正四位下
陰陽頭(陰陽寮の長官) 正五位下
木工助(木工寮の次官) 正六位下
左右衛士大尉(左右衛士府の第三等官) 従六位下
左右京大属(左右京職の第四等官) 正八位下

…などといった様々な官職と、その官位相当について規定があり、これに任じられている官人のことを原則として職事と呼んでいます。

みちのく
みちのく

例外もありますが、ここでは深入りしません。
また、この時は養老令も大宝令も存在しないため、飛鳥浄御原令によるものだと思われますが、その詳しい内容は不明です。

官位相当についてはこちらの入門編をご覧ください👇

才伎の長上

才伎の長上とは、専門的な知識と技能を有する技術官人(才伎)であり、常勤で勤務している者(長上)のことです。
なお、非常勤・交代勤務の官人は「番上」といいます。

みちのく
みちのく

才伎の長上の一部具体例としては次の通りです。

挑文師(あやとりのし) ― 織部司に所属し、錦・綾など高級織物の製作を担う専門家。
典履(てんり) ― 大蔵省に所属する皮革製品関係の専門職。
画師(えし) ― 画工司で宮殿などの絵画・彩色に携わる専門家。
染師 ― 染色を専門とする技術者。
典革(てんかく) ― 皮革加工関係の専門家。
大宰府の大工・少工 ― 建築・木工関係の専門技術者。

いづみ
いづみ

今では使われていない言葉が出てきて難しいですね💦

今回の禄は「季禄」とみられる

今回の禄は、毎年2月と8月に文武官に支給される「季禄」とみられ、後の養老令基準によれば、官位に応じて絁 (あしぎぬ) ・綿・布・鍬 (くわ) などを支給したようです。

いづみ
いづみ

武官については、この後の15日条に支給が行われているみたいですね。




武官に禄を支給する

2月15日(丙午ひのえうま) 武官に、それぞれ差を設けて禄を賜った。

賜武官祿各有差。

 前述の通り、この禄は毎年2回、2月と8月に支給される「季禄」であると思われます。



因幡国が銅鉱を献上する

因幡国

3月5日(乙丑きのとうし) 因幡国(鳥取県東半部)が銅鉱を献上した。

因幡國獻銅鑛

銅鉱とは、銅を含み、銅を取り出す原料となる鉱石です。
つまり因幡国では銅山があるということで、この記事は日本の文献にあらわれる最古の銅山です。

この銅鉱の産地は、現在の鳥取県岩美町にある旧岩美鉱山(通称:荒金鉱山)にとされることがあります(岩美町公式「歴史の探求」)。ただし、文武天皇2年に献上された銅鉱が荒金鉱山産のものであったことを直接証明する史料はないことには注意が必要です。


荒金鉱山犠牲者慰霊碑(1943年鳥取地震による鉱山堤防決壊事故によるもの)

みちのく
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荒金鉱山は後世にも銅などを産出し、近代には大規模に開発されましたが、昭和46年(1971)に廃坑となりました。

いづみ
いづみ

昭和の時代、山奥の集落にあったんですね。
1300年ですから、とんでもなく長い歴史です。

銅の需要は銅銭、特に和銅年間に「和同開珎」が鋳造を開始された結果需要が急増したとみられ、この荒金銅山も銅銭鋳造のための銅供給に関わっていたはずです。前掲・岩美町公式によれば、「荒金」の名は「和銅年間元明天皇に銅を献上した際」に命名されたといわれています。




疫病の発生(越後国)

越後国

3月7日(丁卯ひのとう) 越後国(新潟県)が疫病の発生を言上(報告)してきたため、医師と薬を支給して救援した。

越後國言疫。給醫藥救之。

 疫病は流行性、伝染性のある病気、感染症。




(郡司の連任を許可する)

3月9日(己巳つちのとみ) 次のようにみことのりした。「筑前国宗形むなかた(福岡県宗像むなかた市)と出雲国意宇おう(島根県出雲市・松江市)の郡司は、これを任命するときに三等以内の親族の連任を許す」と。

。筑前國宗形。出雲國意宇二郡司。並聽連任三等已上親。

 郡司は、郡政をつかさどる地方官で、現地の豪族(勢いのある有力者、実力者)が任命されました。

 宗形郡と意宇郡の共通点は、宗像・出雲・熊野という重要な神社の所在地、または近接地であるということです。こういった神社を擁し、祭祀を支える郡を神郡しんぐんといいます。

通常、近親者をつらねて郡司にすることは避けられた

後の養老令(選叙令)では、官職を任命するにあたっては、同じ官司の主典さかん(四等官の3番目)以上に三等親以内の親族を複数任じてはならないこととされていました。

選叙令第7【同司主典条】 凡同司主典以上。不得用三等以上親。

みちのく
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それが今回、宗形・意宇については普通なら避けるべき近親者同士の郡司就任、つまり連任を特別に許したということですね。

連任は、『精選版 日本国語大辞典』(コトバンク)によると、「ある親族内の者などが、二人以上同時に、同種の任務につくこと」とあり、同じ人が連続して同じ任務につくという意味ではありません。

なぜ連任を認めたのか

いづみ
いづみ

神郡に連任を認めたことはどのような意図があったと思いますか?

みちのく
みちのく

神郡では、宗像氏や出雲氏のような祭祀を担う特定の氏族と郡の行政が密接に結びついていたため、その一族から複数の郡司を任用できるよう特例を認めたのでしょう。

慶雲元年(704)正月22日(戊申つちのえさるには、伊勢国の神郡である多気郡・度会郡も同様に3等以内親族の連任を認めています。




(国司と郡司に訓示する)

3月10日(庚午かのえうま) 諸国の郡司を任命した。よって次のように詔した。「諸国の国司らは郡司を詮議せんぎ(選考・推薦すること)するにあたっては偏党(一定の立場に偏ること)があってはならない。そして、郡司に任命された者は、必ずすべて法に従わなければならない。今後は違越いおつ(違反)があってはならない。」と。

任諸國郡司。因詔諸國司等銓擬郡司。勿有偏黨。郡司居任。必須如法。自今以後不違越。

郡司が任命され、同時に次のような内容の詔が発せられました。
国司は郡司を選考したり推薦したりするときは、身内びいきや自分の利害に偏ってはならない。
任命された郡司は、必ずすべての法に従いなさい。

前日に続いての詔

みちのく
みちのく

前日9日に、神郡(宗形、意宇)の郡司の親族連任を例外として認めたばかりです。
なので今回の詔はそれとの関連性を強くうかがわせます。

前日詔と合わせて見ると、

原則
国司は郡司を公平に選考し、特定の一族への偏った任用をしてはならない。

例外
→ ただし宗形・意宇という神郡では、近親者の同時任用を特別に認める。

という構造が見えてきます。

いづみ
いづみ

昨日は例外を示したけど、今日は原則をはっきり伝えた形ですね。

みちのく
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の末尾に「今後は違反があってはならない」とあることから、朝廷は郡司選考における国司のえこひいきや、郡司の法令違反を現実的な問題として警戒していたことがうかがえます。




賀茂祭の日に大勢が集まって騎射することを禁じた

3月21日(辛巳かのとみ) 山背国(後の山城国。京都府賀茂祭かものまつりの日に、大勢の人々が寄り集まって騎射をすることを禁じた。

禁山背國賀茂祭日會衆騎射。

この条は歴史的事実として確認できる賀茂祭の最古の記録としてかなり重要です。京都府埋蔵文化財調査研究センターも「賀茂祭が文献上に記録として出てくるのは『続日本紀』が最初」としています。
「天平10年の賀茂祭をめぐって 土橋誠」(PDF)

騎射とは

騎射(流鏑馬) 出典: Wikipedia

賀茂祭の日には騎射が行われていました。
騎射は馬上から弓を射る技術で、これが競技、または神事として行われていたようです。

賀茂祭(通称「葵祭」)は現在でも行われており、毎年5月3日、下鴨神社の糺の森で行われる「騎射流鏑馬やぶさめ神事」で、祭の前儀に位置づけられています。射手が馬を走らせながら、馬場に設けられた的へ矢を射る、文字通りの騎射です。

いづみ
いづみ

1300年の伝統が今でも生きているですね。

みちのく
みちのく

ただし、文武天皇2年に見える騎射の方法が今の流鏑馬神事と同じだったかどうかは不明なので、そこは注意してください。

なぜ禁止されたのか

今回の記事では、祭の日に大勢が集まって騎射をすることが禁止されています。

いづみ
いづみ

まあ、馬を勢いよく駆けて矢を射るわけですから、警備や区画分けなどをしっかりやって事故防止をしないと危ないのは間違いないですよね。

みちのく
みちのく

その通りです。ただし問題はそれだけではないようで、当時は賀茂祭に大勢の人馬が集まり、武器を携え、時には争乱まで起こり得る状況もあり得たようです。

禁令は、文武天皇2年以後も何度も出され続けます。

内容規制のポイント出典
文武2年(698)3月21日人々が集まって騎射することを禁止まずは「会衆+騎射」を規制『続日本紀』
大宝2年(702)4月3日群衆が集まり武器を持って騎射することを禁止。ただし山背国の人は対象外武器を携えた群衆への警戒が明瞭になる『続日本紀』
和銅4年(711)4月20日祭の日には、国司が毎年自ら現場に赴いて監督するよう命令禁止だけでなく、行政による監視が入る『続日本紀』、『類聚三代格』
神亀3年(726)3月人々が集まること自体を全面的に禁止規制が最も厳しくなり、騎射に限らず「群集」そのものを禁止『本朝月令』4月中酉賀茂祭事所引「国史」
天平4年(732)4月自由に祭ることを許したと伝える726年の全面禁止をいったん緩和したようにみえる『本朝月令』4月中酉賀茂祭事所引「国史」
天平10年(738)4月22日「近年以来、賀茂祭の日には人馬の集合をすべて禁止してきたが、今後は自由に祭ることを許す。ただし祭場で闘乱を起こしてはならない全面禁止を解除。ただし乱闘・騒乱は禁止『類聚三代格』巻1「祭并幣事」天平10年4月22日勅
いづみ
いづみ

これは…賀茂祭は単に賑わいの激しい祭というよりは、人々が武器を持って集まって時には乱闘も起きるような「血の気が多すぎる祭」だったということでしょうか。

みちのく
みちのく

文武2年に禁令が出されてわずか4年後に再び同じような命令が出てるところを見ても、朝廷が制御に手を焼いていたことが分かります。

いづみ
いづみ

本来は祭祀なのに、「お祭り騒ぎ」になって暴れたいだけの人が紛れ込んでしまうのは今も昔も同じみたいですね。。




(僧の任命)

3月22日(壬午みずのえうま) みことのりにより、恵施えせ法師を僧正そうじょうに、智淵ちえん法師を少僧都そうづに、善往ぜんおう法師を律師りっしに任命した。

以惠施法師爲僧正。智淵法師爲少僧都。善往法師爲律師。

僧正・少僧都・律師はいずれも、僧尼を統轄する「僧綱」の職で、国家の立場から僧尼を統轄・監督した僧官です。この序列を示すと、
1 僧正
2 僧都(大僧都・少僧都)
3 律師
という関係になります。

いづみ
いづみ

僧侶にも階級があったとは驚きです…!

みちのく
みちのく

律令制では、僧侶として活動するには国の認可を得なければなりませんでした。その僧侶を統括するのが僧綱だったというわけです。

ちなみに「法師」は階級ではなく、僧侶を意味する一般的な呼称です。



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