こんにちは、みちのくです☀️
今回は元号「大宝」と金との関係・律令体制への制度移行について解説していきます。
これまで途切れていた元号が復活し、この「大宝」から今の「令和」まで1日も途切れず続いているんですよね✨
そう。かつては中国や朝鮮も元号を立てていましたが、今や元号の制度を保っているのは日本だけ!これは誇りに思っていいことだと思います✨
偉大な先人のみなさまに感謝ですね🇯🇵
大宝元年(西暦701年)現代語訳・解説
陸奥での冶金(やきん)
3月3日(丙子) 宴を、東安殿において王臣と群臣に賜った。
3月15日(戊子) 追大肆凡海宿禰麁鎌を陸奥(東北地方)に遣わして金の精製・精錬を行わせた。
3月19日(壬辰) 僧の弁紀を還俗(僧をやめること)させて、代わりに1人を度した(僧になることを許可すること)。
(弁紀に)姓を「春日倉首」、名を「老」と賜った。追大壱の冠位を賜った。
金、ゴールド!
とうとう元号を立てるきっかけがやってきましたね♨️
果たしてそうでしょうか…?
ちがうんです??
それはそれとして、金の精錬に遣わされた「凡海麁鎌(おおしあまのあらかま)」ですが、その氏族名からして、天武天皇すなわち「大海人皇子(おおあまのみこ、又はおおしあまのみこ)」の養育を担当したのではないかと言われています。
皇族には、幼少期に親元を離れ、その養育を他の氏族に任せるというしきたりがありました。
責任重大すぎません?
金の献上と大宝建元
3月21日(甲午) 対馬島が金を献上した。よって、ここに元号を立てて「大宝元年」と為した。
とうとう金が献上…ってあれ?陸奥ではなく対馬?
対馬では銀は採れますが、金は今も昔も採れたという話は存在しません。
これは、対馬の官人によるウソであったということがのちに判明します。
(『続日本紀』大宝元年8月7日条より)
ウソ!?ひどすぎませんか!!
おそらく、実際は半島や大陸から仕入れた物なのでしょう。
ウソ!?元号まで立てたのに…?
(続き)
新たに制定した令(大宝令)に基づいて、官位の名を改めた。
親王は「明冠」といい、4階。
諸王は「浄冠」といい、14階。これを合わせて18階級である。
諸臣は「正冠」の6階・「直冠」の8階・「勤冠」の4階・「務冠」の4階・「追冠」の4階・「進冠」の4階。これらを合わせて30階級である。
外位は、上から「直冠・正五位上」に始まり、「進冠・少初位下」に終わる。合わせて20階級である。
勲位は、「正冠・正三位」を勲一等とし、以下「追冠・従八位下」を勲十二等とし、合わせて12等級である。
ここに初めて、冠を賜うことを廃止し、位記を授けることとした。詳しくは年代暦にある。
みちのくさん、情報が多くてたいへんです!
「明冠」や「浄冠」などは今後出てきませんから忘れてもらって大丈夫です。
官位制度とは序列制度であり、聖徳太子の冠位十二階に端を発し、幾度の改正を経たのち大宝令で完成をみました。
親王は一品から四品までの4階層、諸王(皇族)は正一位から従五位下までの14階層、臣下は正一位から少初位下までの30階層です。
一品、二品…親王だけは別枠なんですね。
はい、親王は別格ということです。
諸王と臣下は、正・従は同じですが、諸王は最低でも従五位下が授けられる点で、皇族と臣下の間で線引きされているところが特徴ですね。
その他、外位は主に地方官に授けられ、最高位でも正五位下止まりで、中央官と地方官とで格差がありました。
勲位は武功をあげた人が授けられたものです。
そしてもうひとつ、これまでは官人には地位に応じた冠が与えられていましたが、今回これが廃止になりました。
そうでした。「冠位」十二階でしたもんね。
色分けされた冠を教科書の資料集で見た記憶があります♨️
そこで、冠にかえて↑のような「位記」という書類を証明書として授けることになりました。
(続き)
また、服制を定めた。
親王の四品以上、諸王・諸臣の一位は、黒紫。
諸王の二位以下、諸臣の三位以上は、赤紫。
直冠の上の4階は、深緋。下の4階は、浅緋。
勤冠の4階は、深緑。務冠の4階は、浅緑。
追冠の4階は、深縹。進冠の4階は、浅縹。皆、漆の冠と、綺(紐状で、横糸を色糸で織ってしま模様をなした織物)の帯、白い襪(指の股のないくつした。ゴムは存在しないためヒモで結んだ)、黒革の舄(底を何重にも重ねたくつ)。
その袴は、直冠以上の者は皆、白い縛口袴(紐でくるぶしの位置をくくった袴)とする。
勤冠以下の者は皆、白い脛裳(脚絆、ゲートル)とする。
色で尊卑を分けたのは冠位十二階の頃から踏襲し続けていますね♨️
興味深いのは、冠位十二階と大宝令では青と赤の序列が逆転してることですね。
十二階制では、赤よりも青の方が上位でしたが、
大宝令では赤(緋)の方が青(縹)よりも上位になっています。
(続き)
左大臣・正広弐多治比真人嶋に 正冠・正二位
大納言・正広参阿倍朝臣御主人に 正冠・従二位
中納言・直大壱石上朝臣麻呂と直広壱藤原朝臣不比等に 正冠・正三位
直大壱大伴宿禰安麻呂と直広弐紀朝臣麻呂に 正冠・従三位をそれぞれ授けた。
また、諸王14人・諸臣105人の位階の名称を改め、それぞれ差をつけて昇進させた。
大納言・正冠従二位阿倍朝臣御主人を右大臣に任命した。
中納言・正冠正三位石上朝臣麻呂・藤原朝臣不比等と正冠従三位紀朝臣麻呂を大納言に任命した。
この日、中納言の職を廃止した。
太政官のトップが任命されました。まとめると以下のとおりです。
太政大臣 欠員
左大臣 多治比嶋
右大臣 阿倍御主人
大納言 藤原不比等、紀麻呂
このときはまだ藤原氏は第3位のポストだったんですね。
少し意外に感じます。
多治比氏も阿倍氏も、天皇から分かれた一族です。
こういった氏族を「皇別氏族」といいます。
多治比嶋は、高祖父(祖父の祖父)が第28代宣化天皇にあたり、父親(多治比王)の代に皇族の籍を外れ、臣下に加わることとなりました(臣籍降下という)。当時すでに高齢で、文武天皇元年には老齢をねぎらわれ杖を贈られています。廷臣の長老としてのポジションを得ていたものと思われます。
多治比真人嶋の「真人」というのは、カバネという臣下の序列を示す称号であり、皇別氏族に与えられました。
でも阿倍氏は真人ではなく「朝臣」なんですね
阿倍御主人は、第8代孝元天皇の子孫です。
ですが、すべての皇別氏族に真人のカバネが与えられたわけではないようです。
第8代だと、相当昔に臣籍降下したということですから、それが理由かもしれませんね?
阿倍氏は、かつて四道将軍として北陸平定に派遣された大彦命を祖とする氏族です。そのつながりからか、阿倍比羅夫が北陸の蝦夷征討に派遣されたことが『日本書紀』に記録されています。また、百済救援軍の将軍に任命されるなど、軍事に長けた氏族だったことが窺えます。
参考書籍など
次回予告?
今回は3月の記事だけでしたが、情報量が多く盛りだくさんでしたね!
内容は多かったですが、大宝の元号が詐欺事件でヨゴされたことがショックでそれしか頭に入ってません、、
知られると格好のつかない都合の悪い歴史が正直に書いてあるのはむしろ良いことだと思います💦
その話は今後も触れていきます!
コメント