【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝元年③ 3月 大宝ー新たに元号を建てるー

大宝年間(701-704)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
もし大宝から一度も改元されなかったら、今年は大宝1326年になるんですよ。

いづみ
いづみ

書類に年号を書くのが、ちょっと面倒くさそうですね……。




大宝元年(辛丑・西暦701年)現代語訳・解説 3月

皇親と群臣に宴を賜う

3月3日(丙子ひのえね) 東安殿において王親(皇族)と群臣に宴を賜った。

賜宴王親及群臣於東安殿。

王親とは皇族のことで、大宝律令以後においては、「皇親こうしん」と呼称されます。

東安殿

これは藤原宮内の殿舎ということですが、位置については特定されていません。
大極殿院・朝堂院の位置については、かなり詳しく発掘で分かっており、その北側に内裏があったことも判明しています。

そのため、東安殿は大まかには、大極殿の北に並ぶ殿舎の東側に位置していたことが推測できます。

みちのく
みちのく

どうやらその部分については発掘の環境が悪いらしいです。
というのも、内裏空間があったと思われる範囲には後世に造られた「醍醐池」があるため地面が池に水没しているのです。


醍醐池

いづみ
いづみ

こ、これは結構なスペースが池に取られていますね💦
というか池をつくった時に遺構そのものが破壊されてたりしないのでしょうか

曲水の宴との関係

この「宴」は後世に恒例の宮中行事となる「曲水きょくすいの宴」との関わりが指摘されています。

曲水の宴は中国に起源があり、水辺で禊をし、曲がった流れに酒杯を浮かべ、詩を作るという形式の宴でした。はじめは「上巳」の日(月の最初の巳の日)に行うこととなっていましたが、後に3月3日に固定されました。

いづみ
いづみ

なるほど、今回の宴も3月3日だから曲水の宴ではないか?ということですね。

みちのく
みちのく

そうです。もちろんこの記事には「宴」としか書いていないため推測です。

曲水が『続日本紀』に明確に現れるのは、神亀5年(728)3月3日で、
「天皇御鳥池塘、宴五位已上。又召文人、令賦曲水之詩。」とあります。




陸奥で金の精錬を行わせる

3月15日(戊子つちのえね) 追大肆ついだいし(従八位下に相当)凡海おおしあま宿禰麁鎌あらかまを陸奥に遣わして金の冶金やきん(金属を鉱石から取り出すこと)を行わせた。

遣追大肆凡海宿祢麁鎌于陸奥冶金。

冶金は金属を含む岩石(鉱石)から金属を取り出す技術全般を言いますが、今回は「金」すなわちゴールドを金鉱石から取り出す(精錬)作業を行わせたということですね。

いづみ
いづみ

また急な話ですね。陸奥から金が発見されたのでしょうか。

みちのく
みちのく

そうですね。しかも「金を探させた」などではなく、「冶金を行わせた」なので現実に陸奥に金があることを前提にしています。

しかしながら、この大宝元年時点の陸奥で金の精錬に成功したのかは不明であり、陸奥国から朝廷に初めて金が献上されたのは天平21年(749)のことです。

いづみ
いづみ

半世紀近く後の話とはいえ、陸奥には本当に金があったんですね。




僧・弁紀を還俗させ、代わりに1人を出家させる

3月19日(壬辰みずのえたつ) 僧・弁紀を還俗げんぞく(僧をやめ、俗世に戻ること)させて、代わりに1人を度し(僧になることを政府が許可すること)た。弁紀に姓を春日倉首かすがくらのおびと、名を老おゆと賜った。追大壱ついだいいち(正八位上に相当)を授けた。

令僧弁紀還俗。代度一人。賜姓春日倉首名老。授追大壹。

当時の僧侶は国家の管理下にあり、出家するためには許可が必要でした。
今回は弁紀という僧侶を俗人に戻す「還俗」が行われ、
「春日倉」という氏と「首」という姓、そして「老」という名が与えられました。

いづみ
いづみ

弁紀という僧侶としての名を失い、新たな名前を賜ったわけですね。

ちなみに、この春日倉首老は『万葉集』に8首の歌を残した歌人でもあり、『懐風藻』にも漢詩が1首収録されています。




対馬からの金の献上により「大宝元年」とした

3月21日(甲午きのえうま) 対馬嶋が金を貢上した。よって、ここに元号を建てて大宝元年とした。

對馬嶋貢金。建元爲大寶元年。

対馬から金が献上され、これを祥瑞(天皇の統治が徳に基づいているとされたとき、天神が地上にもたらすとされる吉兆)として「大宝」という元号が建てられました。

対馬には、文武天皇2年(698)12月5日で金鉱石の精錬が命じられており、今回はそれが成功したものと言えそうです。

みちのく
みちのく

ただし重大なことがひとつあり、これは後に明かされることですが、対馬の金産出は虚偽でした(大宝元年8月7日条)。

いづみ
いづみ

虚偽…!?元号のきっかけになった金が虚偽って…

なので、この金は結果として、対馬以外から調達したものとなります。

改元ではなく「建元」

みちのく
みちのく

それはそれとして今回の元号「大宝」ですが、これはいわゆる「改元」ではなく「建元」です。当時元号は使われておらず、ここに新たに元号を建てたということになります。

いづみ
いづみ

日本史上初めての元号は「大化」でしたが、その後は定着しないで途絶していたのですね。

大化:645〜650年
白雉:650〜654年
朱鳥:686年

みちのく
みちのく

大宝以前にはこれらの元号がありましたが、朱鳥以後は空白になっていました。
そして、大宝以後は現在の令和に至るまで一年一日の空白もなく連綿と続いています。
その意味でこの「大宝建元」は日本史として非常に大きな意味を持っています。




① 大宝令に合わせて、官名などを改める

親王の品階、諸王と諸臣の位階、勲位、冠の廃止

(続き)

 新令(大宝令)の施行により、官名や冠位の号を改めた。
 親王の明冠は4階に改め、一品ほんから四品である。諸王の浄冠は14階に改め、品位ほんいと合わせて18階である。
 諸臣の正冠は6階、直冠は8階、勤冠は4階、務冠は4階、追冠は4階、進冠は4階に改め、これらを合わせて30階である。
 外位げいは、上から直冠の正五位上に始まり、進冠の少初位下しょうそいのげに終わる。合わせて20階である。
 勲位は、上から正冠の正三位を勲一等とし、追冠の従八位下を勲十二等とし、合わせて12等級である。
 ここに初めて冠を賜うことを停止し、これを位記(本人の氏姓、位階、年月日などを記した公文書)に代えることとした。その詳細は『年代暦』にある(現存しない)。

始依新令。改制官名位号。
親王明冠四品。諸王淨冠十四階。合十八階。
諸臣正冠六階。直冠八階。勤冠四階。務冠四階。追冠四階。進冠四階。合卅階。
外位始直冠正五位上階。終進冠少初位下階。合廿階。
勳位始正冠正三位。終追冠從八位下階。合十二等。
始停賜冠。易以位記。語在年代暦。

大宝令の規定に基づいて、この時点の制度である「冠位制」から「位階制」への移行が行われました。
これまでは冠位と、それに対応する冠を実際に賜っていましたが、移行に伴い冠ではなく身分証明としての書類である「位記」を授けることとなりました。

みちのく
みちのく

これまでの「明冠」や「浄冠」などは改められ、親王は一品から四品、諸王と諸臣は正一位から少初位下までの30階となりました。ただし、諸王は正一位から従五位下までの14階です。
親王は「品位ほんい」という別枠ですし、諸王も五位からスタートという点で、皇族と臣下には明確に線が引かれているのが特徴ですね。

いづみ
いづみ

聖徳太子以来の「冠位」がここに一区切りついたということですね。
でも完全に廃止というわけではなく、位階制への引き継ぎ・組み替えといった感じみたいです。

みちのく
みちのく

そう。そしてこの位階制は形は変えながら現代でも続いています。今では序列制度ではなく、公に対して功績があった故人に対して位階が贈られることがあります。

いづみ
いづみ

元号と並んで長く続いている制度なんですね。

位階についてはこちらでも解説しています

なお、「冠を賜うことを停止した」とはあるものの、この後の服制の項では「すべて皆、漆の冠」とするとしているため、官人の服から冠自体が消えたわけではありません。

みちのく
みちのく

これは「冠を賜う」という行為自体が、冠位制の象徴的なあり方だったと言えるのではないでしょうか。

外位(げい)

外位は主に郡司など地方豪族から任用される官人に授けられました。
最高位が正五位上にとどまり、この点で中央の官とは格差があったことが分かります。

実際の表記としては「外げ正五位上」「外少初位下」など、頭に「外」の字が付きます。
外位に対して、通常の「正五位上」などを特に「内位」と呼ぶこともあります。

勲位

勲位は軍事で武功をあげた人が授けられた栄典です。
『続日本紀』では勲位を授けられたという記事は多くはなく、具体的にどの程度の軍功に対して何等の勲位が授けられたのかは明らかではありません。




② 親王・諸王・諸臣の服制

(続き)

 また、服制は次のとおりである。
 親王の四品以上、諸王・諸臣の一位は、黒紫。
 諸王の二位以下(従五位下まで)、諸臣の二位・三位は、赤紫。
 直冠の上の4階(正四位上から従四位下)は、深緋こきあけ。下の4階(正五位上から従五位下)は、浅緋うすきあけ。
 勤冠の4階(正六位上から従六位下)は、深緑。
 務冠の4階(正七位上から従七位下)は、浅緑。
 追冠の4階(正八位上から従八位下)は、深縹はなだ。
 進冠の4階(大初位上から少初位下)は、浅縹。
 すべて皆、漆の冠と、綺かんはた(紐状で、横糸を色糸で織って縞模様をなした織物)の帯、白い襪しとうず(指の股のない靴下)、黒革の舄くつ(底を何重にも重ねたくつ)とする。
 その袴はかまは、直冠以上は皆、白い縛口袴くくりくちのはかま(紐でくるぶしの位置をくくった袴)とする。勤冠以下の者は皆、白い脛裳はばきも(下半身に着用する衣服。具体的な形状は不明)とする。

又服制。
親王四品已上。諸王諸臣一位者皆黒紫。
諸王二位以下。諸臣三位以上者皆赤紫。
直冠上四階深緋。下四階淺緋。
勤冠四階深緑。
務冠四階淺緑。
追冠四階深縹。
進冠四階淺縹。
皆漆冠。綺帶。白襪。黒革舄。
其袴者。直冠以上者皆白縛口袴。勤冠以下者白脛裳。
いづみ
いづみ

親王や一位の色は黒紫…。深みのある濃い紫色は高貴な色だったんですね。今でもそういう色のイメージは確かにあります。
序列が一目でわかる色で区別するのは「冠位十二階」の頃からの踏襲ですね。

みちのく
みちのく

興味深いのは、冠位十二階と大宝令とでは、赤と青の序列が逆転していることですね。冠位十二階では青が赤より上位だったとされていますが、大宝令では緋(赤)の方が縹(青)より上位になっています。

日本の伝統色

表 身分・位階の服色対応表

親王・諸王
身分品位・位階服色
親王一品〜四品黒紫
諸王正一位・従一位黒紫
諸王正二位〜従五位下赤紫
諸臣
位階服色
正一位・従一位黒紫
正二位・従二位・正三位・従三位赤紫
正四位上・正四位下・従四位上・従四位下深緋(こきあけ)
正五位上・正五位下・従五位上・従五位下浅緋(うすあけ)
正六位上・正六位下・従六位上・従六位下深緑
正七位上・正七位下・従七位上・従七位下浅緑
正八位上・正八位下・従八位上・従八位下深縹(こきはなだ)
大初位上・大初位下・少初位上・少初位下浅縹(うすはなだ)

説が分かれる「白い脛裳」の形状

「白い脛裳」(はばきも)の具体的な形状については解釈が分かれています。
奈良文化財研究所では、脛裳を「脚絆」(きゃはん)という、脛すねに巻きつける形式の衣と説明しています。(木簡庫)
一方、『改訂新版 世界大百科事典』では、おそらく裳も形式の下衣だったと説明しています。裳は腰から下を覆うスカート状の衣服です。

なお、慶雲3年(706)12月9日条には脛裳を廃止し、白袴に改める勅が出されています。

いづみ
いづみ

たった5年で変わったんですね。
ただでさえ史料が乏しいのに短期間で廃止されたら考察するのも難しいですね。

みちのく
みちのく

しかも、脛裳は勤冠以下の下位官人が着用するものだったので、実物が大切に保存される機会も少なかったかもしれません。
名称は史料に残っているのに、具体的な形状が分からないというのは、古代史らしい難しさです。




(続き)

 左大臣・正広弐多治比真人嶋しょうこうにたじひのまひとしまに、正冠・正二位を、大納言・正広参阿倍朝臣御主人みうしに、正冠・従二位を、中納言・直大壱石上じきだいいちいそのかみ朝臣麻呂と直広壱じきこういち藤原朝臣不比等に正冠・正三位を、直大壱大伴宿禰安麻呂と直広弐紀朝臣麻呂に正冠・従三位をそれぞれ授けた。また、諸王14人と諸臣105人の位の号を改め、それぞれ差をつけて位を進めた。
 大納言・正冠・従二位阿倍朝臣御主人を右大臣に任じた。中納言・正冠・正三位石上朝臣麻呂、藤原朝臣不比等、正冠・従三位紀朝臣麻呂を大納言に任じた。
 この日、中納言の官を廃止した。

授左大臣正廣貳多治比眞人嶋正正二位。大納言正廣參阿倍朝臣御主人正從二位。中納言直大壹石上朝臣麻呂。直廣壹藤原朝臣不比等正正三位。直大壹大伴宿祢安麻呂。直廣貳紀朝臣麻呂正從三位。又諸王十四人。諸臣百五人。改位号進爵。各有差。
以大納言正從二位阿倍朝臣御主人爲右大臣。中納言正正三位石上朝臣麻呂。藤原朝臣不比等。正從三位紀朝臣麻呂。並爲大納言。
是日罷中納言官。

新たな制度にもとづいて、太政官の構成員以下、一部の諸王と諸臣を対象に位階を授けました。
この条は旧制度(冠位)と新制度(位階)を併記しているために特殊な表記となっています。

たとえば、
多治比真人嶋には、従来の「正冠」の正広弐という冠位から、新たに正二位という位階を授けました。

表 議政官(太政官の上層部)の構成

みちのく
みちのく

右大臣など議政官が任命されました。表にまとめると以下のとおりです。

官職氏名位階備考
太政大臣ー—適任者がなければ置かれない
左大臣多治比真人嶋正二位続投
右大臣阿倍朝臣御主人従二位大納言から昇進
大納言石上朝臣麻呂正三位中納言から昇進
大納言藤原朝臣不比等正三位中納言から昇進
大納言紀朝臣麻呂従三位中納言から昇進
中納言ー—廃止

中納言の官職が廃止される

これまで中納言だった3名、石上麻呂・藤原不比等・紀麻呂が大納言に昇進し、同時に中納言が廃止となりました。

みちのく
みちのく

実際、大宝令の「官員令」には中納言という官職は規定がありません。
なお、慶雲2年(705)4月17日に再設置されます。大納言の定員を4人から2人に減らし、新たに中納言3人を置くという変更になっています。

いづみ
いづみ

わずか4年後に「令外官りょうげのかん」として復活するわけですね。




丹波国で地震が続く

3月26日(己亥つちのとい) 丹波国に地震があり、3日間にわたって続いた。

丹波國地震三日。

三日間続いたということはそれなりの大きさの地震だったことが予想されますが、地震の規模や被害状況は一切記述がなく不明です。

ただし、後世の『縁城寺年代記』には、丹後の加佐郡の大半が海に沈んだという伝承が残っています。
地震史料集テキストデータベース

丹後国が丹波から分立して成立するのは和銅6年(714)のことなので、大宝当時にはありませんが、丹後は丹波国の北部にある、今の京都府の日本海に接した地域です。

いづみ
いづみ

津波が来た…ということですね。

みちのく
みちのく

ひとつの郡の大半が海に沈むレベルの地震であれば丹波一国で済む地震ではないと思うのですが、実態はどうだったのでしょうか。




右大臣・阿倍御主人に絁や備前などの田を賜う

3月29日(壬寅みずのえとら) 右大臣従二位阿倍朝臣御主人みうしに絁あしぎぬ500疋ひき、糸400絇く、布5千段、鍬1万口く、鉄5万斤きん、備前・備中・但馬・安芸国の田20町を賜った。

賜右大臣從二位阿倍朝臣御主人。絁五百疋。絲四百絇。布五千段。鍬一万口。鐵五万斤。備前。備中。但馬。安藝國田廿町。
みちのく
みちのく

3月21日の右大臣就任からわずか8日後にかなり大量の物資と田地を与えています。
原文を見る限り、4国それぞれ20町ずつではなく、4国合計で20町でしょう。

「町」は距離や面積の単位。今回は田の面積を示し、律令制における「1町」はおよそ11,900㎡(≒1.19ha)。
よって、20町は約238,000㎡(約23.8ha)に相当し、これは東京ドーム約5個分の広さです。

いづみ
いづみ

思った以上に広大ですね…さすがは右大臣といったところでしょうか。

みちのく
みちのく

古代の名門「阿倍氏」の氏上でもあるわけですから、氏族全体の物資、食糧が必要ですし、抱える家人も多かったことでしょう。



次回の記事 大宝元年四月、五月




コメント

タイトルとURLをコピーしました