
みなさんこんにちは、いずみです!
今回も『続日本紀』よろしくお願いします♨️
さて、慶雲3年に突入しますが今回の記事の特徴などありますか?

昨年末に藤原京に入京した新羅使関係の記事が目立ちます。
騎兵大将軍という臨時の将軍を任命し送迎に遣わすほどの気合の入りようを見るに、当時は新羅との関係を重視していたことが分かります。
慶雲3年(丙午・西暦706年)現代語訳・解説
朝賀(新羅使が参列)

春 正月1日(丙子) 天皇は大極殿に御し朝賀を受け給われた。新羅使金儒吉たちが列に加わった。朝廷の儀衛(天子や外国の使者などを警護すること)は常と異なるところがあった。
朝賀の儀の儀仗兵が例年とは異なっていたのは、間違いなく新羅使が参列していた関係でしょう。どのように異なっていたのかは不明ですが、昨年11月13日に任命され新羅使の送迎を任された騎兵大将軍・紀古麻呂指揮下の隊列がこの場に参加していたのかもしれません。
新羅使が調を献上
正月4日(己卯) 新羅使が調を献上した。
調は古くは「つき」と読み、それを敬って頭に「み」を付けて「みつき」となり、のちに「みつぎ」と読むようになりました。新羅は日本に貢ぎ物を献上する臣下としての待遇を受けていました。
新羅使を宴でもてなす

正月7日(壬午) 金儒吉たちを朝堂で饗宴(客人をもてなす宴会)した。諸方の音楽を朝庭において演奏させた。それぞれ差をつけて位階を叙し禄(給与)を賜った。
諸方の音楽が具体的にどこの音楽を指すのかは分かりませんが、日本国内の音楽のことを「諸方」とは言わないと思うので外国の音楽ではないでしょうか。朝廷の儀式などの音楽を担当する雅楽寮には、唐楽、高麗(高句麗)楽、百済楽、新羅楽などの指導者と教習生が所属していたため、これらの国の音楽が演奏されたのでしょう。
新羅王に勅書を賜う
正月12日(丁亥) 金儒吉たちが蕃(外国。母国の新羅)に帰った。
新羅王に次の勅書を賜った。「天皇敬って新羅王に問う。使人一吉飡(新羅の官位)金儒吉、薩飡(新羅の官位)金今古たちが来朝して献上するところの調はすべて備わっていた。王は新羅国が興ってよりこのかた長い年月が経っているが、貢上を欠かすことなく行李(旅の荷物)は連なっている。欵誠(誠実なこと)すでに著しく嘉尚(喜びたたえること)は止むことがない。春首(春の初め)なお寒し、近頃はつつがないだろうか。国内がすべて平安であるように。使人は今帰路についた。この意を使人に伝え、別に王に贈り物を寄せた」

とても友好的なお便りですね。

この時代は遣唐使のイメージが強いですが、唐よりも新羅との国交の方がひんぱんです。

そういえば、唐の場合はこちらから使者を贈っても向こうから日本に来ることはありませんね〜
このときの新羅王は第33代聖徳王。先代孝昭王は大宝3年(703)春に崩御しており文武天皇は同年閏4月1日にねんごろな弔意を示しました。孝昭王は15歳で没したため継嗣がなく、聖徳王は孝昭王の同母弟として王位につきました。

ということは、聖徳王もまだ相当にお若いはず…。
その点、20歳そこそこの文武天皇と気が合うかもしれません。

君主同士ですからそういう付き合いはないでしょうけどね
大射の禄法

正月17日(壬辰) 大射の禄法(給料に関する決まり)を定めた。
親王の二品、諸王と臣下の二位は、1箭(矢)が外院(的の外側)に命中すれば布20端。中院(的の中心付近)には25端。内院(的の中心)には30端。
三品と四品と三位は、1箭が外院に命中すれば布15端。中院には20端。内院には25端。
四位は、1箭が外院に命中すれば布10端。中院には15端。内院に25端。
五位は、1箭が外院に命中すれば布6端。中院には12端。内院には16端。的皮(的の後ろに張る布や皮)に1箭命中させた者は布1端。もし外・中・内院及び的皮に重ねて命中させれば、これの倍とする。
六位・七位は1箭が外院に命中すれば布4端。中院には6端。内院には8端。
八位・初位は1箭が外院に命中すれば布3端。中院には4端。内院には5端。的皮には布半端。もし外・中・内及び的皮に重ねて命中させれば、これの倍とする。
勲位のみが有り位階がない者は、朝服(朝廷に出仕するときの服。官人の制服)を着用せず、射る順番はその勲位に相当する位階の者の次に立つこと。
大射(おおいくは、だいしゃ)は、正月17日に群臣が天皇の御前で弓術を競い、これを披露する宮中行事です。律令には以下のように規定されています。
律令
第30 雑令
41【大射者条】
凡そ大射は、正月中旬(17日に固定されている)に親王以下、初位以上が皆射ること。その儀式次第及び禄(給与)は別式(別に定めた細則)に従うこと。

その別式が今回定めた禄法ということですね。
親王の一品と一位には規定がないということは、この両者は大射に参加しないか、禄は個別に考慮して決めるかのいずれかだと思います。もっとも、このときは一品も一位も叙されている人がいなかったため規定を保留されたのかもしれません。
「外・中・内院及び的皮に重ねて命中させ」とはどういう意味でしょうか。外院と中院の「境目」に命中させるということか、それとも2回以上連続で同じ場所に命中させた場合という意味でしょうか。その場合、大射では必ず1人2回以上射ていたことになります。
「勲位に相当する位階」は律令の「官位令」で規定され、勲一等は正三位に、勲二等は従三位に相当するなどと規定されています(勲位は十二等まであり、十二等は従八位下に相当)。
勲位のみ有する者は朝服を着用しないということから、大射は多くの者は朝服を着て参加することがわかる。

位階や勲位を持つ臣下は全員弓を射ることができなければならなかったわけですね…。弓道が公務員の必修科目って考えるとなんだかすごい…。

弓は戦いや狩りで標的を仕留める武器ですが、魔や穢れを遠ざける呪術的なアイテムでもありました。弓を引き放したときの振動音(鳴弦)が魔除けになるとされていたのです。

良き年を祈る新年の行事としてはぴったりなわけですね!
任官(越後守)、疫病の発生、盗賊の捜索と逮捕
閏正月5日(庚戌) 従五位上猪名真人大村を越後守に任命した。
京畿(京のある大倭国とその周囲の国)及び紀伊(和歌山県)、因幡(鳥取県東部)、参河(愛知県東半部)、駿河(静岡県東半部)などの国に疫病が発生した。医師と薬を支給してこれを治療させた。
この日、諸々の仏寺と神社を祓い清めた。また、盗賊を捜索し捕らえさせた。

とうとう盗賊まで出現しましたか…

災害、飢饉、疫病、盗賊これらはすべて連関しています。
国としても医師と薬を支給して対応はしているようですが、医師は当時1国に1人しかいませんから、いかんせん人も物も圧倒的に不足していたことでしょう。
新羅の調を伊勢神宮に奉納、勅(大蔵に収める調について)
閏正月13日(戊午) 新羅の調を伊勢神宮と七道の諸社に奉った。
次のように勅を下した。大蔵に収蔵されている諸国の調は諸司がその種類ごとに管理し、諸司間で情報を共有すること。また、民部省に収蔵している諸国の庸(布)のうち、軽量のもの、絁(目の粗い絹)、糸、綿などは今後は大蔵に収め、年料(1年間に必要になる物資)の分を用意し民部省に分け充てること。
庸は本来、国民に課された10日間の都での労役義務をいいますが、これに代えて10日間の労働に相当する量の布を納めることとされていました。大蔵は宮(藤原宮)の北辺に倉庫群として建てられ全国から納められた調が収蔵されていました。
勅により祈祷を行わせる
閏正月20日(乙丑) 勅により、神祇官(神々の祭祀を担当した官司)に祈祷を行わせた。全国に疫病が流行しているためである。
作物がとれず、食料が不足する。食事が十分にとれなくなれば病気に対する抵抗力が失われ病気になりやすくなる。すべて繋がっていて、望みとしては兎にも角にも今年こそは豊作になるようにと天地の神々に祈り、または僧侶に読経を行わせることしかできませんでした。
伊勢の斎宮が伊勢神宮に参詣
閏正月28日(癸酉) 泉内親王が伊勢大神宮に参行した。
泉内親王(天智天皇皇女)は当時の斎宮であり、大宝元年(701)2月16日に伊勢に遣わされています。斎宮は、伊勢神宮の近傍(神宮から約15km離れていた)に建てられ、天皇に代わってこれに奉仕するための宮であり、またはそこに遣わされた女性皇族(基本は内親王)自身のことをいいます。
斎宮は年3回(6月と12月の月次祭と9月の神嘗祭)神宮に出向き祭祀を行いますが、今回の参行は閏正月ということなので臨時のものと思われます。

これもやはり天変地異を受けてのものかもしれません。
卒去(大神高市麻呂)

2月6日(庚辰) 左京大夫従四位上大神朝臣高市麻呂が卒した。壬申の年の功(壬申の乱における功績)をもって詔により従三位を贈った。大花上(大化5年(649)に定められた冠位で、19階中上から7番目)利金の子である。
壬申の乱での活躍
大神高市麻呂は、壬申の乱の経過を記す『日本書紀』天武天皇元年(672)7月4日にて、上ツ道(大和を南北に直線で縦断する古代の幹線道路)の守りにあたり、箸墓付近で近江朝廷軍と決戦となってこれを破り、その勢いのまま中ツ道で劣勢となっていた将軍大伴吹負を助け大海人皇子(のちの天武天皇)の軍を勝利に導いたとされています。


すごい功績ですね!

箸墓の戦いとして有名です。この近くには大神氏の祖神を祭る大神神社もあるため、高市麻呂は自身の本籍地付近の守りについていたということですね。
職を辞する覚悟で持統天皇に諫言する
同じく『日本書紀』持統天皇6年(692)2月19日、当時中納言となっていた高市麻呂は上表し、天皇が農繁期に行幸することについて、民の生業を妨げることを直言し諫めたとあります。つづいて同年3月3日にも、高市麻呂は衣冠を脱いで「農作の時期に行幸をするべきではありません」と重ねて諫言。しかし天皇はこれを聞き入れることはありませんでした。

衣冠を脱ぐとはつまり、辞職を覚悟の上ということです。
実際にこの後高市麻呂は官人を辞め下野したそうです。

天皇のなさることに異を唱えるわけですからね…。結局持統天皇は高市麻呂の言うことを聞き入れなかったけれど、彼は農民と天皇のことを思って我が身を省みず進言した…。かっこいいですね。
晩年、思いがけず天皇の行幸に従う
衣冠を捨て下野した高市麻呂ですが、50歳のときに天皇の行幸に陪従せよと朝廷から声が掛かりました。日本最初の漢詩集『懐風藻』にこのときのことが高市麻呂の漢詩とともに語られています。
『懐風藻』 従三位中納言大神朝臣高市麻呂 一首 年五十
従駕(天皇の行幸に従うこと)し、詔に応ず
病に臥して已に白鬢、意に謂ふは黄塵(黄泉。死者の行く国)に入らんと。
期せずして恩詔を遂げ、駕に従う上林の春。
松巌(松の生えている岩)鳴泉(ごうごうと音を立てている滝)落ち、竹浦(竹の生えている池)笑花(花が咲くこと)新たし。
臣は是れ先進の輩、濫に陪す(つき従うこと)後車の賓(大事な客)。(現代語訳)
病に臥し、すでに白髪の高齢となり心に思うのは黄泉への旅である。
思いもかけない有難い詔により、行幸に従う上林の春。
松巌には音を立てて滝の水が落ち、竹浦には鮮やかな花が咲いている。
臣は年配者になりながら、みだりがわしく御車の後に従う賓客である。

老齢となって下野していた人生の終わりを考えていた高市麻呂さん、これは嬉しかったでしょうね。ちなみにここの天皇とは持統天皇ですか?文武天皇ですか?

おそらく文武天皇でしょう。高市麻呂死去以前の直近の行幸は慶雲2年(705)3月4日の倉橋離宮行幸です。下野し、年寄りになった自分を自虐しつつも、かつて天皇に諫言した忠臣としての自分に「賓客」という言葉を使い誇っている心情を感じます。

知太政官事の季禄について
2月7日(辛巳) 知太政官事二品穂積親王の季禄(毎年2回春と秋に支給されるボーナス)は、右大臣に準じて支給することとした。
知太政官事は、国政の最高機関である太政官の統括者です。文武天皇を補佐するため臨時に設置されました。知太政官事が準じるとされた右大臣の季禄は、律令規定によると「絁(目の粗い絹)20疋、綿20屯、布60端、鍬100口」とあります。
任官(大宰少弍)、6つ子を出産した女性と、詔による大舎人任用
2月14日(戊子) 従五位下阿部朝臣首名を大宰少弍(大宰府の第3等官)に任命した。
山背国相楽郡(京都府木津川市)の女性鴨首形名が3度の出産で6児を産んだ。初め2人の男子を産み、次に2人の女子を産み、後に2人の男子を産んだ。最初に産んだ2人の男子は詔により大舎人(宮中で天皇の生活の世話する官人)とした。
大宰少弐は、大宰府の第3のポストですが、長官の大宰帥は名誉職で現地に赴任しないため、大宰大弐が実務上の長官である都合上大宰少弐が実質的な次官となります。
6つ子の出産は現代においても非常にリスクが大きくほとんどは帝王切開で出産するそうです。お腹が極端に大きくなり母親は立つことも困難になるほどです。また、6人分の胎児への栄養が必要になるため当時において一般女性がこれを補えるほどの食料をまかなうことは至難だったと思われます。

出産ができたこと自体が奇跡的だったことでしょう。当然のように地元では大きな話題となり、京にまで話が伝わって天皇直々に詔が下り特別に大舎人として養われることになったのでした。

お母さんにもぜひ国が支援してあげてほしいですね。

今回の記事には記録がありませんが、多く子供を出産した家には国から食料や衣服や乳母が支給されたという事例(文武天皇3年正月26日、慶雲2年6月11日など)もありますから、きっとこの人の家にも支援があったのではないでしょうか。



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