
こんにちは、みちのくです☀️
今回もさまざまな記事がありますが、新たに建てられた出羽国の形が整えられていく様子を探っていくのが楽しかったです。

今の山形県や秋田県など、東北地方の区割りにも関連する話ですからね、興味深いです♨️
和銅5年(壬子・西暦712年)現代語訳・解説
陸奥国の2郡を出羽国に分割する


冬 10月1日(丁酉) 陸奥国の最上郡・置賜郡の2郡を分割して出羽国の所属とさせた。
割陸奥國最上置賜二郡隷出羽國焉。
前月の9月23日(己丑)に越後国出羽郡が国に昇格し、出羽国が建てられました。そして今回、東に隣接する陸奥国の最上郡・置賜郡を出羽国に所属させることとなりました。
この時の出羽国はほぼ現在の山形県の範囲で成立し、平安時代前期にかけてエミシを懐柔したり征服したりしながらだんだんと領域を北へ広げ、最終的には現在の秋田県の範囲までが出羽国の領域となりました。
最上郡、置賜郡はどのあたり?
この2郡はいずれも現在の山形県内に位置し、最上郡は村山地方+最上地方あたりで、置賜郡は県南部の米沢盆地・長井盆地を中心とした範囲にあったとみられます(山形県公式サイト)。

最上郡は現在でも存続していますが、律令期の最上郡は今の郡域よりもかなり広くなっています。その名の由来は出羽国内の中央の大部を流れる最上川。
置賜郡は現在は存在しませんが、明治期に「東置賜郡」「西置賜郡」「南置賜郡(昭和33年に消滅)」が設置され、またこの地域を「置賜地方」と呼び、その名が現在に残っています。

「おきたま」とは面白い地名ですね。
陸奥国→出羽国の所管になったワケ

なぜ最上と置賜の2郡が出羽国に移されたのですか?

ポイントは山と川です!
①山河で境を定める発想があった(改新の詔第2条より)
大化の改新で有名な「改新の詔」の第2条には「山河を定める」…つまり、山河を基準にして国の境を定めるとあり、畿内の範囲を定めて「東は名墾の横川」、「南は紀伊の兄山」、「西は赤石の櫛淵(神戸市の須磨浦公園付近)」、「北は近江の挟々波の合坂山」という、山河でその境を分けることとしています。

この発想が今回の陸奥国と出羽国にも適用され、これを東西で分けたのは、東北地方の背骨といえる「奥羽山脈」です。


東北地方の東西の真ん中には険しい奥羽山脈がある…。名前が示す通り「陸奥」と「出羽」を分ける山脈ということですね。

最上・置賜は基本的に 奥羽の西斜面に属するので、国のまとまりとしては出羽側に寄せる方がすっきりしますね。
②最上川の舟運(しゅううん)
『古今和歌集』には最上川を利用して稲を輸送したことを窺わせる歌が載っています(巻第20、東歌、1092番歌)。
『古今和歌集』巻第20、東歌、1092番歌
最上川のぼればくだる稲舟の いなにはあらずこの月ばかり
最上川を介した物資集積・輸送が見込めるため、日本海に注ぐ最上川の流れる最上・置賜2郡を出羽国所属にした方が合理的になります。

逆に言うと、この2郡が陸奥国に所属したままでは奥羽山脈をわざわざ乗り越えて太平洋側に物資を移動させることになってしまうのです。
③郡の数を増やして行政を分担
出羽国発足当初は出羽郡1つしか郡がなく、1国1郡体制では国の運営に無理がありました。

これはシンプルですね。郡を増やして郡衙(役所)を設置し、国司と郡司の負担を分散、効率化して統治をしやすくするというわけですね。
蘇芳色の着用と売買の禁止

10月17日(癸丑) 六位以下及び官人らの衣服に蘇芳(黒みを帯びた赤色)の色を用い、またこれを売買することを禁じた。
禁六位已下及官人等服用蘇芳色并賣買。
蘇芳は、服色とその序列に関して定めた、律令の衣服令第7【服色条】において規定されており、全18種の色のうち、上から4番目という高位の色とされています。
インド・マレー原産のマメ科の木で、その心材の削り屑を煎じて染料として用いられました。

つまり、日本ではその原材料となる木がないので蘇芳の染料はとても貴重だったんですね。それにしても、落ち着きや上品さを感じられる高貴な色です。

はい。希少性と高貴な色味から、六位以下が用いること、蘇芳を売買することを禁止したということです。
卒(息長老)
10月20日(丙辰) 従四位上息長真人老が卒し(四位・五位の者が亡くなること)た。
從四位上息長眞人老卒。
息長真人について
息長真人という姓は、もとは「息長公」であり、『日本書紀』天武天皇13年(684)10月1日(己卯)条に制定された八色の姓により、他の12氏族と共に「真人」の姓が授けられました。「真人」は皇族を祖先に持つ氏族が与えられた姓で、平安時代に編まれた氏族名鑑『新撰姓氏録』によると、息長氏は第15代応神天皇の皇子の稚野毛二派皇子の子孫とのことです。

八色の姓は氏族の序列を定めた制度で「真人」は序列のトップです。
真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置という8種がありました。
老は、息長真人姓を名乗る個人として初めて史上に見える人物です。
これまでの事績
⭐️日本書紀
持統天皇6年(692)11月8日(戊戌) 直広肆(従五位下に相当) 遣新羅使として禄を賜る。
持統天皇7年(693)3月16日(乙巳) 遣新羅使として絁、綿、布を賜る。
⭐️続日本紀
慶雲2年(705)4月22日(辛未) 従四位下 右大弁に任命される。
和銅元年(708)3月13日(丙午) 兵部卿に任命される。
同年9月4日(壬戌) 左京大夫に任命される。
和銅4年(711)4月7日(壬午) 従四位上に昇叙される。
遣新羅使たちの辞見
10月28日(甲子) 遣新羅使たちが辞見(使者の出発前に目上の人に行う別れの挨拶)した。
遣新羅使等辞見。
この年9月19日(乙酉)に遣新羅大使に任命された道君首名(みち の きみ おびとな)たちが、元明天皇に出発前の別れの挨拶を行いました。

出発前と言っても、辞見の日=出航日ではありません。
この時期はすでに冬であり、日本海は荒れるため出航は危険です。辞見後、平城京から大宰府まで移動し、そこで春になるまで風待ちをしていたはずです。
なお、翌年の8月10日に無事に帰国したことが記されています。
詔(帰郷の役夫たちに銭による購買を行わせる)

10月29日(乙丑) 次のように詔した。「諸国の役夫及び運脚が、帰郷の日に食糧が欠乏し、これを得ることができないでいる。よって、郡稲(郡が保有する稲で、主に人民に貸し付ける用途として蓄えられた)を割き、貯蔵するのに便利な土地で、役夫に意のままに交易させるようにせよ。また、旅の者には必ず銭でやりとりを行わせ、これにより重荷の労苦を休ませるとともに、銭の利便を知らしめること」と。
詔曰。諸國役夫及運脚者。還郷之日。粮食乏少。無由得達。宜割郡稻別貯便地隨役夫到任令交易。又令行旅人必齎錢爲資。因息重擔之勞。亦知用錢之便。
この、運脚・役夫の食糧問題は以前にも記事があり、今回はこの問題に一定の解決策を提示したものとなっています。
参考
⭐️和銅5年正月16日(乙酉) 詔により、国司に帰郷する役民の救済を指示し、死亡した場合は埋葬してその名前を記録することとした。
その解決策とは、郡が保有する稲を銭(和同開珎)により売買させ、役夫が自ら食料を調達できるようにするというものでした。


場所は提供するので、あくまで支給ではなく自弁でどうにかしてほしいというわけですね。

役夫の労働報酬は1日あたり和同開珎1文(1枚)だったといわれています。そこで稼いだ労賃を使って、地方でも売買を推奨したんですね。これにより貨幣経済が京周辺だけでなく全国に広まっていくことを期待したのでしょう。

帰郷時の食糧問題を解決しつつ、和同開珎の普及も狙えるという一石二鳥の策だったということなんですね。
弁官に史生を増員
11月16日(辛巳) 左右の弁官に史生(下級書記官)をそれぞれ6名追加した。以前と合わせて左右それぞれ16名である。
加左右弁官史生各六人。通前十六員。
律令の職員令第2条(太政官条)では、左右弁官の史生の定員はそれぞれ10名という規定があり、今回の記事の6名増員=合計16名は整合性がとれています。
弁官は「弁」の字の通り、太政官とその下にある八省との間でとり交わされる文書の中継を行う部局です。その性格上、大量の文書を処理することになるので、書記官(史生)の業務は膨大・煩雑であり、人手不足になっていたことが予想できます。
阿倍氏の支族を本流に統合する
11月20日(乙酉) 従三位阿倍朝臣宿奈麻呂が次のように言上した。「従五位上引田朝臣邇閇、正七位上引田朝臣東人、従七位上引田朝臣船人、従七位下久努朝臣御田次、少初位下長田朝臣太麻呂、无位長田朝臣多祁留たち6人は、阿倍氏の一族であり宿奈麻呂と同族として異なるところがありません。ただ居住する地の名前を氏の名としているのであり、道理から斟酌(事情、心情をくみとること)するに、これはまことに哀矜(かなしんであわれむこと)すべきことです。今、宿奈麻呂は特別に天恩を被り、すでに本姓に復帰しています。しかし、これらの人は未だ聖澤(天子の恵み)に潤っておりません。乞い願わくは、別氏を名乗ることを止め、ともに本姓(阿部朝臣)を被ることを望みます」と。
詔によりこれを許可した。從三位阿倍朝臣宿奈麻呂言。從五位上引田朝臣邇閇。正七位上引田朝臣東人。從七位上引田朝臣船人。從七位下久努朝臣御田次。少初位下長田朝臣太麻呂。无位長田朝臣多祁留等六人。實是阿部氏正宗。与宿奈麻呂無異。但縁居處更成別氏。於理斟酌良可哀矜。今宿奈麻呂特蒙天恩。已歸本姓。然此人等未霑聖澤。冀望。各止別氏。倶蒙本姓。
詔許之。
阿倍氏の氏上(氏族の代表者、統率者)である阿倍宿奈麻呂が、引田氏、久努氏、長田氏の6人はもともと同族であるため、阿倍氏への復帰を要請し、これが許可されたという記事です。

なぜ今になって阿倍氏に復帰することになったのでしょうか?
理由① 分岐して複雑化した氏族の再編
阿倍氏には、引田、布勢、狛、長田など阿倍氏から分岐した支族が多くいました。今回の改姓は複雑になった阿倍氏の再編と、それによる実務の合理化、氏族としてのまとまりの強化が狙いにあったと見られます。
原文に「但縁居處更成別氏」とあるように、ただ住んでいるところを氏族名として名乗っているに過ぎず、縁戚関係としては阿倍氏と同じなのだから、地名を名乗ることを止めて阿倍朝臣として一本化するほうが実務の上で合理的だったのではないでしょうか。

律令制は身分制ですから、官人としての籍や人事において阿倍氏だと一目で確認できればそれだけで有利に働くことも多かったわけです。

日本には数多の氏族がいますから、支族を整理して阿倍氏に復帰した方が人事や手続きのためのコストも減るということですね。
また、阿倍朝臣への一本化は、権力の分散を防ぐことができるため、阿倍氏の氏上(宿奈麻呂)の権限が強くなるというメリットがあります。これにより藤原、大伴、多治比などの他の有力氏族との政争、競合において優位性を得ることもできるわけです。

同族を吸収合併して巨大化させるようなイメージですね。

この時代はまだ藤原一強ではなかったですから、他の多くの氏族との競争があったと…。
理由② 阿倍ブランド

阿倍氏は、古い時代から天皇(大王)の近くに仕えてきた由緒ある氏族です。7世紀中頃、北陸の蝦夷や粛慎(ロシア沿海州に居住していた遊牧民)を討った武人である阿倍比羅夫、大化元年(645)頃に左大臣となった阿倍内麻呂、大宝元年(701)3月21日(甲午)に右大臣となった阿倍御主人などが有名です。
律令制において氏族の名は、系譜の正統性・政治的信用・昇進可能性に関わる「看板」であり、阿倍のような有力宗族名への復帰は、家格の「ブランド」価値を得るために合理的といえます。

注目すべきは、今回の要請を行なった宿奈麻呂自身が引田氏の出身というところです。自分が引田出身だから、同じ引田系を「別氏のまま」に置く不自然さを強く感じたのかもしれません。
慶雲元年(704)11月14日(丙申) 宿奈麻呂、引田朝臣→阿倍朝臣へ改姓。
和銅4年(711)12月12日(壬子) 狛朝臣秋麻呂が宗族である阿倍朝臣への復帰を要請して認められています。

以前から支族→阿倍氏復帰の流れがあったわけですが、これは阿倍氏の「生き残り戦略」だったのかも?
官人の服装の乱れをただす

12月7日(辛丑) 次のように制定した。諸司の官人の衣服の作りは、袖口が狭すぎるもの、裾が大きく長いものがある。また、衽(服の左右を重ねたとき、下着が見えないよう幅を補うために付けられた帯状の部分)の重なりが甚だ浅く、足早に歩くと容易にはだけてしまう。このような服は大いに無礼である。よって、所司は厳しくこれを禁止すること。
また、無位の朝服(官人が朝廷に出仕するときに着用する服)は、今後は皆、襴(歩きやすくするために衣の裾に付けられたスカート状の部分)のついた黄衣を着用すること。襴は、広さ1尺2寸(約36センチメートル程度)以下とせよ。制。諸司人等衣服之作。或褾狹小。或裾大長。又衽之相過甚淺。行趨之時易開。如此之服。大成無礼。宜令所司嚴加禁止。
又无位朝服。自今以後。皆著襴黄衣。襴廣一尺二寸以下。
見苦しい服装の乱れ
官服の仕立ての質が悪いのか、着用した人の体型に合っていないのか分かりませんが、官人の服装に乱れがあったようです。特に衽(おくみ)という、胸の前で服の左右を重ね合わせて体を覆い、下着を隠すために用いられる部分の作りが甘くなっており、急ぎ足で歩く時などに簡単にはだけて下着が見えてしまう人が多かったようです。
無位官人の服色は黄と定められる
親王や官人の朝服は律令の衣服令第5【朝服条】に規定がありますが、無位官人については同令第6【制服条】において「黄袍」を着用することと定められています。
そもそも無位の人が着用するものは「制服」であって「朝服」ではないのが当初の決まりだったわけですが、今回の制定で「無位にも朝服を採用した」と読むことができそうです。
それで、無位朝服の色については黄色が採用されたわけですが、律令制においては官人序列を示す方法として服の色が定められていました。衣服令第7【服色条】には、「白、黄丹、紫、蘇方、緋、紅、黄橡、纁、蒲萄、緑、紺、縹、桑、黄、揩衣、秦、柴、橡墨」の18種が序列的に定められており、黄はその14番目にあたります。

よって、黄色は全体として下位の者が身につける色と見て良いでしょう。

上位に、黄丹や黄橡というのもあるので、同系色でも明暗や濃淡で序列が変わってくるんですね。面白いです。

傾向として、暗い色や濃い色が上位者の色にあてられるので、おそらく無位が身につけた黄色は薄くて明るい色だった可能性がありますね。史料がないので断定はできませんが…。
調・庸の物品を和同開珎の価値に換算

(続き)
また、諸国から送られる調・庸の物を銭に換算するときは、銭(和同開珎)5文をもって布1常を基準とせよ。
又諸国所送調庸等物。以錢換。宜以錢五文准布一常。

和同開珎と調庸の換算相場を決めたわけですね。
平城京の市場に書記官を置く

12月15日(己酉) 東西の市司に初めて史生(下級書記官)をそれぞれ2名置いた。
東西二市始置史生各二員。
平城京には東西にそれぞれ1箇所、官営の市場が置かれていました。これまで市を管理運営する市司には、公文書を作成する書記官(史生)がなかったため、今回東西の市司でそれぞれ2名を設置することとなりました。

11月16日に続いて、史生の配置についてですね。

律令国家は文書主義で、大量の公文書の処理を必要とするので、書記官たる史生の役割は大きくその業務量は膨大だったと思われます。

たった2人で足りるんですかね…?
内印が押された後の公文書の訂正について

12月21日(丁巳) 有司(その職務を行なうべき官司)が次のように奏上した。「今後は、誤りのある公文書に内印が捺され、これをすべて改める必要があるときは、少納言が官長(太政官の長官)に報告し、その後に再び奏上して内印を請求することと致します」と。
有司奏。自今以後。公文錯誤。内印著了。事須改正者。少納言宜申官長。然後更奏印之。
内印は「天皇御璽」とも呼ばれ、五位以上の位記(位階と姓名が記載された身分証明書)と諸国に下す公文書に押されました。今回、内印が押されたあとになって文書に誤りがあった場合にどうするのかという手続きが定められました。これによると、少納言が太政官の長(左大臣など)に報告し、訂正の上で再び内印を請求するという流れが決まりました。
少納言の仕事
少納言の職掌は律令に次のように規定されています。
職員令 第2条(太政官条)
少納言は定員3名。職掌は、小事を奏宣(奏上と宣下。天皇に申し上げることと、臣下に対し天皇の言葉を伝達すること)すること、鈴印(駅馬の利用に用いる鈴と内印)・伝符の請求を受理し、これを上申すること。(以下略)
とあり、内印をめぐる事務手続きは少納言が担っていました。なので、有司から報告のあった誤りのある書類は、少納言が再度受理し、上官に取り次いで内印を押すという流れは自然で合理的だといえます。

ところで、こういった記事には最後に「奏可之(これを許可した)」という一文が入るのが定型的なのですが、今回の記事にはこれがありません。
続日本紀 巻第5 終


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