【現代語訳】続日本紀 文武天皇3年② 南の島からの来訪者

文武天皇
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回は、文武天皇3年(699年)7月19日から12月20日までをとりあげます。
南の島との国交、弓削皇子、義淵法師、鋳銭司などの話題が出てきます。

いずみ
いずみ

よろしくお願いします♨️

文武天皇3年(西暦699年)現代語訳・解説

南の島からの来朝者

秋 7月19日(辛未かのとひつじ) 多褹たね夜久やく奄美あまみ度感とくの島民が朝廷の使者に従って来朝し、方物ほうぶつを献上した。各々差をつけて、位を授け、物を賜った。度感嶋と中国との通交は、このときから始まった。

多褹…種子島、夜久…屋久島、奄美…奄美大島、度感…徳之島です。
いずれも現在の鹿児島県の南西部沖合に位置する島々です。

前年(698年)の4月13日に派遣された使節が任務をまっとうし、島民を従わせることに成功したようです。

みちのく
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征服したのか、説き伏せたのか、どうやって島民を従わせたのかは不明ですが、当時すでに海を越えて支配領域を広げつつあったことに驚かされます。

いずみ
いずみ

そもそも当時の離島の人々に言葉は通じたのでしょうか…?
種子島や屋久島はともかく、奄美・徳之島はかなり距離もあるし危険なミッションですね。

みちのく
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少なくとも、「度感」との通交はこれを契機に始まったということで、成果を上げられたということですね。
ちなみにここでいう「中国」とは日本本土のことを指しています。

日本は世界と文化の中心であるという発想から来た語で、それと同時に中央から遠く離れた地に対しては、文明の発展していない未開の土地、という優劣のニュアンスを含んでいます。

南の島の特産物は京で珍重されました。
例えば、奄美で採れる夜光貝は貝がらの内側が美しく輝くため、螺鈿らでんとして加工された工芸品に用いられ貴族や宮廷社会に溶け込みました。

正倉院宝物・螺鈿紫檀琵琶(らでんしたんのびわ)八角鏡 平螺鈿背(へいらでんはい) 第13号

いずみ
いずみ

パール色で白くきらきらしてるのが夜光貝の螺鈿彩飾ですね!✨

弓削皇子の万葉歌

7月21日(癸酉みずのととり) 浄広弍じょうこうに弓削ゆげ皇子こうじた。浄広肆じょうこうし大石王と直広参じきこうさん路真人大人みちのまひとうしを遣わして、葬儀を監護させた。皇子は、天武天皇の第6皇子である。

弓削皇子は天武天皇の子ですが、あまり政治には関わった記録はありません。
母は大江皇女といい、天智天皇皇女です。

日本最古の漢詩集『懐風藻』に撰録されている葛野かどのの人物伝に、弓削皇子の名前が登場するので、以下に意訳して掲載します。

葛野王人物伝

高市たけち皇子が亡くなったあと、皇太后(持統天皇)が宮中に皇族と大臣を呼び、次期皇位継承者を立てる方策について会議させた時のことである。
群臣たちがそれぞれ好き勝手に主張し、議論が紛糾している様子を見て、葛野王が進み出て奏上して申し上げるには、

「我が国の法は、神話の時代から神の子孫が皇位を継承することと決まっています。もし天皇の兄弟間でつぎつぎと皇位が継承されれば、乱の原因となります。これを考えれば、皇嗣(皇位継承者)は自ずから定まっています。」

この葛野王の発言に対し、その場に座していた弓削皇子が何か反論しようとしたが、王はこれを叱りつけて制止した。皇太后はその言葉が国を定めたとし、王を誉めて特別に正四位を授け、式部卿に任じた。

懐風藻 古代日本漢詩を読む
葛野王

当時葛野王は37歳、弓削皇子は20代前半です。

みちのく
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弓削皇子がどのような反論をしようとしたのか分かりませんが、このできごとから考えるに、おそらく持統天皇は政治において弓削皇子を用いることはしなかったでしょう。

万葉集』には弓削皇子の歌が9首掲載されており、他の兄弟たちで最多です(2番目に多い長皇子は5首)。

万葉集 巻第2 相聞そうもん

弓削皇子ゆげのみこ紀皇女きのひめみこを思ふ御歌四首(119〜122番歌)

吉野川 行く瀬の早み しましくも 淀むことなくありこせぬかも

我妹子わぎもこひつつあらずは 秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを

ゆふさらば潮満ちなむ 住吉すみのえの浅香の浦に玉藻たまも刈りてな

大船のつる泊りのたゆたひに 物思ものもひ痩せぬ 人の子ゆゑ

(現代語訳)
吉野川の早瀬のように、(二人の仲も)少しの間も淀むことなくあってくれないものか

あの子にこんなに恋などせず、いっそ秋萩のように咲いて散る花であれば良いものを

夕方になると潮が満ちてくる。住吉の浅香の浦の玉藻を今のうちに刈り取ってしまいたい

大船の泊まっている港のように、物思いに揺られながらすっかりやつれてしまった。(どうにもならない)他人の女性なのだから

紀皇女は、天武天皇の皇女です。事績はほとんど残されていませんが、母親は蘇我氏なので弓削皇子とは異母妹にあたります。

みちのく
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当時、母の違うきょうだい間との恋愛は許容されていました。
とはいえ、皇子は紀皇女に叶わぬ恋をしていたようです。

いずみ
いずみ

港でさざなみに揺られる船を見つめながら物思いにふける様子を想像すると、なんともいたわしく、皇子に寄り添いたい気持ちになりますね、、

吉野川の流れ
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8月8日(己丑つちのとうし) 南の嶋の貢ぎ物を伊勢太神宮と諸社に奉納した。

9月15日(丙寅ひのえとら) 高安城を修理した。

9月20日(辛巳かのとみ) みことのりにより、正大弐しょうだいに以下無位以上の人別に、弓矢・よろいほこ・兵馬を備えさせた。また、京畿けいきちょくを下し、同じくこれらを蓄えさせた。


高安城は、前年(文武天皇2年8月8日)にも修理が行われたという記事があります。

「正大弐から無位の人」となると、ほぼすべての官人が対象となります。さらに藤原京内のみならず、その周辺国(京畿)にまで範囲を広げるとなると、かなり大規模に兵器を蓄えさせたことになります。

いずみ
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高安城の修理の5日後…これほどまでに何を警戒していたのでしょうか?

9月25日(丙子ひのえね) 新田部にいたべ皇女こうじた。王臣、百官にちょくを下し、葬儀に出席させた。天智天皇の皇女である。

新田部皇女は天智天皇の皇女であり、天武天皇の妃で、天武天皇5年(676年)に舎人とねり親王を産みます。母は、橘娘たちばなのいらつめです。

みちのく
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舎人親王は、『日本書紀』編纂のリーダーです。
また、奈良時代には親王の子である大炊おおいが淳仁天皇として即位するなど天武天皇の皇子たちの中で特に重要な役割を担いました。

天智天皇と天武天皇は同母兄弟です。つまり、新田部皇女は叔父に嫁いだことになりますが、奈良時代ごろの皇室は血統による権威保持が顕著で、ごく近い皇族間の結婚が許容されていました。

特赦と山陵の造営、巡察使の派遣

冬 10月13日(甲午きのえうま) みことのりにより、天下の罪人を赦した。ただし、十悪じゅうあく・強盗と窃盗については、この赦に入れなかった。越智おち山科やましな2箇所の山陵を造営するためである。

十悪とは、以下の特に重たい十種類の罪をいいます。

  • 謀反むへん 国家の転覆
  • 謀大逆むたいぎゃく 御陵や皇居の破壊
  • 謀叛むほん 国に背いて他国に従う
  • 悪逆 年長の親族への暴行や殺人、残酷な殺人
  • 不道 毒物の所持や呪術の使用
  • 大不敬 大社(伊勢神宮か)や天皇に対する盗みや誹謗
  • 不孝 祖父母や父母への罪
  • 不義 目上や貴人への礼儀に反する罪
  • 不睦 夫婦間の不和
  • 内乱 一族を乱す罪

10月20日(辛丑かのとうし) 浄広肆じょうこうし衣縫きぬぬい直大壱じきだいいち当麻真人国見たいまのまひとくにみ直広参じきこうさん土師宿禰根麻呂はじのすくねねまろ直大肆じきだいし田中朝臣法麻呂・判官ほうがん4人・主典さかん2人・大工2人を越智山陵に遣わし、
浄広肆大石王・直大弍じきだいに粟田朝臣真人あわたのあそんまひと・直広参土師宿禰馬手・直広肆じきこうし小治田朝臣当麻おはりだのあそんたいま・判官4人・主典2人・大工2人を山科山陵に遣わした。
仕事を分担して造営させた。

越智山陵は、文武天皇の曽祖母にあたる斉明さいめい天皇の御陵で、山科山陵は天智天皇の御陵です。
両天皇はとうの昔に他界し山陵はすでにあるので、ここにいう「造営」とはおそらく「修理」のことかと思われます。

10月27日(戊申つちのえさる) 巡察使を諸国に派遣して、非法・違法を検察させた。

巡察使は、同年3月27日にも発遣しています。前回からちょうど7ヶ月後に行われているので、日にちを定めて定期的に派遣することを予定していたものと思われます。

11月1日(辛亥かのとい) 日蝕があった。

11月4日(甲寅きのえとら) 文忌寸博士ふみのいみきはかせ刑部真木おさかべのまきたちが南の嶋から帰朝した。各自に差をつけて位を上げた。

日蝕については、文武天皇2年④7月1日条をご覧ください。

前年4月13日に南の島に派遣され、任務をまっとうした使者たちが帰還してきました。

義淵法師、大江皇女の薨去

11月29日(己卯つちのとう) 義淵ぎえん法師に稲一万束を喜捨きしゃした。学業を褒めてのことである。

喜捨とは、仏教用語で、すすんで寺社・僧・貧しい者などに金品を寄付することです。
僧侶は当時の日本の、仏教の力によって国を守る「鎮護国家ちんごこっか」の思想のもと、国の保護を受けました。この思想により、僧侶が政治と深く結びついているため、学業が奨励され、優秀な僧侶は為政者のブレーンとなり強い影響力を持ちました。

義淵法師は、天武天皇の皇子たちと共に育ち、出家後は大蛇や悪龍退治などの逸話を持つ伝説的な僧です。
溜め池や橋の建設、困窮者救済施設の設立で有名な行基ぎょうきの師匠でもあります。
また、のちに天皇の地位を乗っ取り、国を傾けようとした、道鏡どうきょうの師匠でもあります。

木心乾漆義淵僧正坐像(奈良時代の作、岡寺所蔵、国宝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
いずみ
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天武天皇の皇子たちと共に育ち…という時点で生まれながらにして只者ではなさそうですね✨

みちのく
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大蛇や悪龍退治の伝説が生まれるほどの人、役小角の妖術と対決したらどちらが勝利するでしょうか…?

12月3日(癸未みずのとひつじ) 浄広弍じょうこうに大江皇女こうじた。王臣・百官らに命じて葬儀に参列させた。天智天皇の皇女である。

大江皇女は、上述の7月21日に亡くなった弓削皇子の母です。
つまり、この皇女も叔父(天武天皇)に嫁いだことになります。
当時、天智・天武兄弟それぞれの皇子・皇女を互いに嫁がせて、血を濃くして血統を保持するという政治的方策がみられました。

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それが理由か定かではありませんが、この時代の皇族、とくに男性皇族は病弱(遺伝病?)で若くして亡くなる人が多い印象です。

いずみ
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文武天皇のお父様の草壁皇子も早くに亡くなられ、文武天皇ご自身も早逝なんですよね…。

三野城・稲積城の修理、鋳銭司の設置

12月4日(甲申きのえさる) 太宰府に命じて、三野みの稲積いなつみの二城を修理させた。

この二城の所在地は不明です。
他の城と同じく、山1つを防衛施設(とりで)として利用した「山城」だったとみられ、新羅や唐または当時南九州にいて朝廷と敵対していた「隼人」に対するものだったとみられています。

12月20日(庚子かのえね) 初めて鋳銭司じゅせんしを設置した。直大肆じきだいし中臣朝臣意美麻呂なかとみのあそんおみまろを長官に任じた。

鋳銭司は、貨幣鋳造を担当した役所です。このときの鋳銭司がどこに設置されたのかは分かりませんが、平安時代前期には銅山のある長門国(現山口県)に置かれていました。

みちのく
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余談ですが、明治22年(1889)から昭和31年(1956)まで鋳銭司村(すぜんじむら)という自治体が山口県にあったそうです。また、現在でも「山口市鋳銭司」とその名が残されています。

いずみ
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歴史のなごりがちゃんと地名に残っているんですね!✨

中臣意美麻呂は、藤原鎌足の甥であり、養子です。
前年まで、藤原氏を名乗っていましたが、代々神事を家業としていたことを理由に中臣氏に復帰することとなりました(文武天皇2年④8月19日条参照)

いずみ
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藤原朝臣の名は不比等の子孫が独占!

参考書籍など

続日本紀(上) 全現代語訳 (講談社学術文庫 1030)
新版 万葉集 現代語訳付き【全四巻 合本版】 (角川ソフィア文庫) Kindle版
懐風藻 古代日本漢詩を読む




次回予告

みちのく
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文武天皇4年(700年)正月から3月までの記事をとりあげます。

いずみ
いずみ

700年代に突入ですね♨️

みちのく
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日本では当時西暦を取り入れていないですから、歴史的な意味は特にないですけどね。
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