【現代語訳】続日本紀 文武天皇3年③ 6月〜7月 弓削皇子、薨ず

巻1(文武天皇元年8月〜4年12月)
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回は亡くなられた皇族についての話が多いです。
特に弓削皇子は天武天皇の皇子で、万葉集に8種もの歌を遺したことで有名です。

いづみ
いづみ

2ヶ月の間に3人も皇族が亡くなってしまうとは…。




文武天皇3年(己亥・西暦699年)現代語訳・解説 6月〜7月

山田寺に寺封300戸を施す

6月15日(戊戌つちのえいぬ) 山田寺に30年を期限として、封300戸を施捨ししゃ(金品などを寺社に寄付すること)した。

施山田寺封三百戸。限卅年也。

山田寺は、蘇我氏の氏寺(特定の氏族が先祖の追善や一門の繁栄・幸福を祈るために建てた寺院)で、蘇我倉山田石川麻呂により舒明天皇13年(641)に創建されました。

いづみ
いづみ

蘇我氏の宗族(本家)は、中臣鎌足と中大兄皇子による有名な「乙巳の変」で滅ぼされましたが、支族(分家)は勢力を維持したんですよね。文武天皇は母方をたどると蘇我氏につながりますし。

みちのく
みちのく

そう、文武天皇の母方の祖母、つまり阿閇内親王の母は蘇我氏の女性です。持統上皇も母は蘇我氏なのです。
なのでその氏寺である山田寺は、朝廷がスポンサーとなって大いに繁栄したことと思います。

寺封300戸

封300戸を施捨」というのは、山田寺に食封じきふとして封戸を300戸与えたということです。
つまり、300世帯分が本来国家に納入するところの租と調の一部または全部を、山田寺の収益にすることを許したということです。

みちのく
みちのく

山田寺への特例のように見えますが、実はそれはちょっと違うみたいです。

『日本書紀』天武天皇9年(680)4月条に、寺院政策として、「食封を持つ寺については、30年を限度とする」という勅が出ています。すでに寺院への食封を恒久的なものにしない方針がすでに定められていました。

実際、朱鳥元年(686)8月21日条にも檜隈寺・軽寺・大窪寺へそれぞれ100戸を与えた際、やはり「30年を限って」とされています。




去(日向王)

6月23日(丙午ひのえうま) 浄広参じょうこうさん(正五位下相当)日向王がしゅっ(四位または五位が亡くなること)た。弔使を遣わして葬儀のための品を贈った。

淨廣參日向王卒。遣使弔賻。

日向王は、王号を得ていることから皇親(皇族)であると思われますが、その出自・年齢・経歴・事績いずれも不明です。

注目すべきは翌日6月24日条で、その葬儀について触れていることです。




日向王の葬儀

6月24日(丁未ひのとひつじ) 直冠じきかん以下(正四位上以下)159人に命じて、日向王邸で葬儀に出席させた。

命直冠已下一百五十九人。就日向王第會喪。

一部を除き、多くの人物は「卒去した」「薨去した」と簡潔に書かれるのみであるところ、日向王は159人という具体的な人数を葬儀に参列させたことが書かれており、これは異例といえます。

いづみ
いづみ

直冠は正四位上以下に相当…ということは、日向王よりも冠位の高い人物も葬儀に出席を求められたということですね。
159人という規模が大きいのかどうか比較対象がないので分からないですが、日向王が一体どういう人物だったのかが一切伝わらないというのが惜しいところですね。




去(春日王)

6月27日(庚戌かのえいぬ) 浄大肆じょうだいし(従五位上に相当)春日王が卒した。弔使を遣わして葬儀のための品を贈った。

淨大肆春日王卒。遣使弔賻。

天智天皇の孫で、志貴親王の子にあたる春日王という同名の別人物がいることに注意です。

春日王も、6月23日卒去の日向王と同じく出自や経歴などの情報は不明です。ただし、『万葉集』には春日王の歌が残っており(巻3・雑歌・243番歌)、この人物と同一人とされています。

去については、日向王のように、官人を葬儀に出席させたという記事はありません。




南の島からの来朝者

秋 7月19日(辛未かのとひつじ) 多褹たね夜久やく奄美あまみ度感とくなどの島民が朝宰ちょうさい(朝廷の官吏)に従って来訪し、方物ほうぶつ(土地の産物)を献上した。各々差をつけて、位を授け、物を賜った。
 度感嶋と中国(ここでは、日本本土をいう)との通交は、これより始まった。

。夜久。菴美。度感等人。從朝宰而來貢方物。授位賜物各有差。
其度感嶋通中國於是始矣。

南方の島々

これらの島々はそれぞれ研究では、

多褹…種子島を中心とする地域
夜久…屋久島
奄美…奄美大島とみられる
度感…徳之島とみられる

とされています。

いづみ
いづみ

いずれも現在の鹿児島県の南西部と、沖縄本島との間に位置する島々ですね。

国覓使(くにまぎし、くにをもとむるつかい)

今回、島民を率いて来朝した「朝宰」がどのような地位の人物なのかは分かりません。
しかし、前年の文武2年(698)4月13日に派遣された、国覓使くにをもとむるつかい(人の住む南島を探索する使者)の任務に関わるものと見られます。

国覓使たち自身の帰国は、この年の11月4日を待たねばなりません。

「中国」という言葉の意味

みちのく
みちのく

ここでいう「中国」とは唐のことではなく、日本の中央・本土のことを指しています。
日本を世界の中心に置いた考えであり、その周縁にある国や異民族は「夷狄いてき」、つまり蛮族として位置付ける…という考え方ですね。

いづみ
いづみ

日本で言えば蝦夷や隼人、そして南島の島民たちがその「夷狄」にあたるわけですね。




去(弓削皇子)

7月21日(癸酉みずのととり) 浄広弍じょうこうに(従四位下に相当)弓削ゆげ皇子こう(親王または三位以上が亡くなること)た。浄広肆じょうこうし(従五位下に相当)大石王と直広参じきこうさん(正五位下に相当)路真人大人みちのまひとうしを遣わして、葬儀を監護させた。皇子は、天武天皇の第6皇子である。

淨廣貳弓削皇子。遣淨廣肆大石王。直廣參路眞人大人等監護喪事。皇子天武天皇之第六皇子也。

弓削皇子は天武天皇の第6皇子で、母は大江皇女といい、天智天皇の皇女です。

『万葉集』の歌人として知られる

『万葉集』には弓削皇子の歌が8首あり、皇子の兄弟たちで最も多く掲載されています(2番目に多い長皇子は5首)。

『万葉集』巻3・雑歌 歌番号:242
弓削皇子が吉野に遊す時の御歌一首

滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに

(吉野川の流れの上に見える三船の山、その山にいつまでもかかる雲のように、自分も生き続けられるだろうかとは思ってはいない)

みちのく
みちのく

こちらの歌は、永遠ではないこと、あるいは無常や、「死」を感じさせる歌ですね。
弓削皇子がこの年に薨去していることから関連を想像したくなりますが、いつ詠まれたものなのかは分かっていません。

葛野王の人物伝に弓削皇子の名があらわれる

懐風藻 古代日本漢詩を読む

日本最古の漢詩集『懐風藻』に収録されている葛野かどの王の人物伝に、弓削皇子の名前が登場します。

『懐風藻』葛野王人物伝(要約)

高市たけち皇子が亡くなったあと、皇太后(持統天皇)が宮中に皇族と大臣を呼び、次期皇位継承者を立てる方策について会議させた時のことである。
群臣たちがそれぞれ好き勝手に主張し、議論が紛糾している様子を見て、葛野王が進み出て奏上して申し上げるには、

「我が国の法は、神話の時代から神の子孫が皇位を継承することと決まっています。もし天皇の兄弟間でつぎつぎと皇位が継承されれば、乱の原因となります。これを考えれば、皇嗣(皇位継承者)は自ずから定まっています」

この葛野王の発言に対し、その場に座していた弓削皇子が何か反論しようとしたが、王はこれを叱りつけて制止した。皇太后はその言葉が国を定めたとし、王を誉めて特別に正四位を授け、式部卿に任じた。

みちのく
みちのく

弓削皇子がどのような反論をしようとしたのか分かりません。
しかし、自らの血を引く孫(後の文武天皇)を皇位に望んでいた持統天皇が、葛野王の発言を賞賛した事実から推理すると、弓削皇子の主張は持統天皇と相容れないものだった可能性があります。

弓削皇子は、同母兄の長皇子を皇位継承者として推そうとしたのではないか、という説もあります(弓削皇子への挽歌・奈良県)



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