
こんにちは、みちのくです☀️
文武天皇4年のはじめ、朝廷では高齢の左大臣・多治比真人嶋がなお政務を支えていました。しかも一度は右大臣で引退した人です。

引退から復帰されたということでしょうか…。
長く政務を支えた、その晩年の姿に注目ですね。
文武天皇4年(庚子・西暦700年)現代語訳・解説 正月〜2月
新田部皇子に浄広弍を授ける
春 正月7日(丁巳) 新田部皇子に浄広弍(従四位下に相当)を授けた。
授新田部皇子淨廣貳。
この記事は新田部皇子の『続日本紀』初登場となります。
新田部皇子は天武天皇の皇子で、『日本書紀』天武天皇2年(673)2月条によると、母は五百重娘(藤原鎌足の娘)です。
大宝令以後は「新田部親王」と呼ばれ、奈良時代前期には異母兄の舎人親王と並び有力皇親(皇族)として何度も名前が登場します。

しかも、奈良時代中期から後期には新田部親王の子供達が皇位継承に絡んだ政争に巻き込まれることとなり、親王の影響力は強く、奈良時代全体を通して感じられます。
将来の有力皇族の初叙位
この「浄広弍の叙位」が、新田部皇子の記録に見える初めての叙位とみられます。しかも大宝令以後の位階にすると「従四位下」に相当するため、いきなりかなり高位に叙されています。
これが意味するところは、新田部皇子がこの頃に成人した可能性があることです。皇親にはその身分を根拠に他の臣下よりも高い位が授けられることとなっています(蔭位という)。
後の大宝令の選叙令【授位条】には、原則として授位は25歳以上、蔭位によって叙される者は21歳以上とされていました。

西暦700年は大宝律令が施行される直前であるため、確定的なことは言えませんが、新田部皇子もこの頃21歳頃だった可能性があります。

なるほど、そうなると今回の記事は簡潔ですが、「若い皇子が成年皇族として朝廷に初登場した」という意味を持ちそうですね。
詔(左大臣に霊寿の杖と輿及び従者を賜う)
正月13日(癸亥) 詔があり、左大臣多治比真人嶋に高年をたたえ、霊寿の杖と輿及び従者を賜った。
有詔。賜左大臣多治比眞人嶋靈壽杖及輿臺。優高年也。
長く朝廷に仕えた重鎮をたたえる
嶋の年齢は『公卿補任』によると、翌大宝元年(701)の薨去時が78歳。
したがって文武4年時(700)には数え年でおよそ77歳だったことになります。
「霊寿の杖」は、中国では霊寿木という杖に適した木から作る老人用の杖として古くから知られています。『漢書』では老臣・孔光に霊寿の杖を賜った例があり、歩行補助具であると同時に君主が老臣を敬う象徴的な賜り物であると言えます。
また、杖のほか原文には「輿臺」とありますが、これは現代語の「輿を置く台」ではない可能性が高いです。
「臺」(「台」の旧字体)は古代中国語で下僕・従者を意味し、この箇所は現代語訳でも、「輿および供人」とする例があります。

つまり杖と輿だけでなく、その輿を担ぐ専属の従者までセットでつけたということなんですね。
以前にも杖と輿を贈られていた多治比嶋
嶋が杖と輿を賜ったのはこれが初めてのことではありません。
『日本書紀』には、ここからおよそ3年3ヶ月前の、持統天皇10年(696)10月19日に
「右大臣丹比真人(嶋)に輿と杖を賜わった。致仕(老齢のために辞職して引退すること)を哀れまれてのことである」
とあります。

3年以上前に本当は引退されてたんですね。
でも文武4年時点でも現役で、しかも左大臣に昇格してます。

そうなんですよ。ただ、いつ嶋が左大臣になったのかについては記録がされていないので分かりません。
ともかくも、致仕から復帰した上にさらに左大臣という流れを見ると、いかに朝廷が彼を重く扱っていたのかが伝わります。
嶋の前半生は不明
多治比嶋の史料初見は『日本書紀』の天武天皇11年(682)4月21日条です。
そこには「筑紫大宰・丹比真人嶋が大鐘を奉った」とあります。筑紫大宰は後の大宰帥にあたる職なので、初登場時点で重職に就いています。
また、没年の78歳から逆算すると、天武11年時ですでに59歳前後であるため、彼は老年になるまで史料に見えずそれまでの経歴は不明ということになります。
安房郡の郡司の連任を許可する
2月5日(乙酉) 上総国司が、安房郡の大領・少領(それぞれ郡司の長官と次官)に父子・兄弟を連任することを要請してきたので、これを許可した。
上総國司請安房郡大少領連任父子兄弟。許之。
連任は、『精選版 日本国語大辞典』(コトバンク)によると、「ある親族内の者などが、二人以上同時に、同種の任務につくこと」とあります。
つまり、同じ人が連続して同じ任務につく「重任」や「再任」という意味ではありません。
後の養老令(選叙令)でも、官職を任命するにあたっては、同じ官司の主典(四等官の3番目)以上に三等親以内の親族を複数任じてはならないこととされていました。
選叙令第7【同司主典条】 凡同司主典以上。不得用三等以上親。

原則として、連任は好ましくないものとして避けられていたわけです。
安房郡は神郡

ここにおいて安房郡は、これを管轄する上総国の国司の要請が許可されたことで、一族で郡を治めることを認められたことになります。
連任を許可された例は以前にもあり、およそ2年前の文武天皇2年(698)3月9日条では、
詔で「筑前国宗形郡と出雲国意宇郡の郡司は、三等以内の親族の連任を許す」とされていました。
安房郡、宗形郡、意宇郡の三郡の共通点はいずれも「神郡」であるということです。

神郡は宗像・出雲・熊野、安房郡で言えば安房神社という重要な神社を擁する郡のことをいいます。

平安時代中頃の『延喜式』でも安房郡を神郡として扱い、通常の郡司任用制限の例外にしています。
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安房国一宮 安房神社
錫(すず)の献上

2月8日(戊子) 丹波国に錫を献上させた。
令丹波國獻錫。
この条で注目すべきは、「献上した」ではなく、
朝廷が丹波国に錫を「献上させた」と使役形になっているところです。
つまり朝廷は当時、丹波国から錫が採掘できることを把握していたことになります。
この時期は鉱物資源の把握・確保がかなり活発です。
文武2年(698)には、
因幡・周防から銅鉱、
伊勢・伊予から白鑞、
近江・伊勢・常陸・備前・伊予・日向・安芸・長門・豊後などから各種鉱物・顔料を献上させています。
| 日付(文武2年) | 国 | 献上物 |
|---|---|---|
| 3月5日 | 因幡国 | 銅鉱 |
| 6月8日 | 近江国 | 白樊石 |
| 7月17日 | 伊予国 | 白鑞 |
| 7月27日 | 伊予国 | 鑞鉱 |
| 9月25日 | 周防国 | 銅鉱 |
| 9月28日 | 近江国 | 金青 |
| 同 | 伊勢国 | 朱沙・雄黄 |
| 同 | 常陸国 | 朱沙 |
| 同 | 備前国 | 朱沙 |
| 同 | 伊予国 | 朱沙 |
| 同 | 日向国 | 朱沙 |
| 同 | 安芸国 | 金青・緑青 |
| 同 | 長門国 | 金青・緑青 |
| 同 | 豊後国 | 真朱 |
| 11月5日 | 伊勢国 | 白鑞 |
また、前年の文武3年12月20日には貨幣鋳造のための「鋳銭司」が初めて置かれました。
後に造られる「和同開珎」の主原料は銅ですが、錫も用いられていたことが分かっています。

全国各地から資源が集まってきていますね。
「白鑞」も錫か
文武2年の伊勢・伊予から献上された白鑞(しろなまり)も錫ではないかとされています。
現代の辞書では、白鑞は「錫と鉛の4:1の合金」と説明されています(デジタル大辞泉 「白鑞」の意味・読み・例文・類語)が、同じ辞書には、古い漢語として「白鑞=錫」という意味も載っています。

ただしどのように「錫」「白鑞」の字を使い分けていたのかは不明です。
石船柵の修理
2月19日(己亥) 越後・佐渡の2国に石船柵を修理させた。
令越後佐渡二國修營石船柵。
2年前の文武2年(698)12月21日にも石船柵の修理が行われました。

今回は佐渡国も修理に加わっていますね。
なお、石船柵が史料に現れるのはこの記事が最後です。

分からないことが多すぎてほとんど謎ですね。
東山道に巡察使を派遣
2月22日(壬寅) 巡察使を東山道に派遣して、非違(非法・違法)を検察させた。
遣巡察使于東山道。検察非違。
文武天皇治世での巡察使の派遣は今回で3度目になります。

やや気になるのは、前年の10月27日に諸国に巡察使を送ったばかりなのに今回は「東山道」を指定して再び遣使していることです。

東山道といってもかなり広大ですが、陸奥国を含むものなので蝦夷が関わっているのかもしれないですね。

その可能性はあると思います。
つい3日前の石船柵の修理、そして5日後には王臣・京畿には武器を備えさせていることから関連はあるかもしれません。

2月22日といえば現暦では4月上旬頃ですね。
東国の雪解けも進み巡察使による調査もしやすい頃合いではあります。
武具を備えさせる

2月27日(丁未) 重ねて王臣・京畿(藤原京とその周辺の国)に勅し、戎具(武具)を備えさせた。
累勅王臣京畿。令備戎具。
臣下に武具を備えさせる命令は前年9月20日にもされており、その時は「正大弐(正二位に相当)以下無位(冠位を持たない者)以上の人」とあり、ほとんどすべての臣下を対象にした大規模なものでした。
今回は「重ねて」の命令となっており、「王臣」とあるように皇族もその対象に含まれています。

武器準備、山城や石船柵の整備と、軍事にかなり力を入れていますね。
次回の記事 文武天皇4年3月〜5月





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