【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年① 和銅改元、平城遷都の詔 -平城之地、四禽叶図、三山作鎮-

元明天皇
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回は歴史上で一般にもよく知られた、銅銭の「和同開珎」や平城京への遷都について取り上げていきます。

いずみ
いずみ

平城京遷都は小学校の歴史教科書にも出てくるくらいの有名な出来事ですね!

慶雲5年、和銅元年(戊申・西暦708年)現代語訳・解説

和銅改元の詔(宣命)

和銅(自然銅)出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

武蔵国から和銅が献上され、詔が宣布される

春 正月11日(乙巳きのとみ) 武蔵国秩父郡(埼玉県秩父市)から和銅が献上された。次のようにみことのりした。

「『これは現神御宇倭根子天皇あきつみかみとあめのしたしろしめすやまとねこすべらおほみことである』とり賜う勅命おほみこと親王みこたち諸王おおきみたち諸臣おみたち百官人もものつかさびと天下あめのした公民おほみたからは皆よく聞くように、と宣る」。

 武蔵国秩父郡の和銅献上を祥瑞しょうずい(神からの賜り物)として、改元の詔が宣命せんみょう形式で宣せられました。宣命についてはこちらをご覧ください。

みちのく
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「」は宣命を読み上げる人の言葉、『』が天皇のお言葉です!

 和銅は不純物のない銅のことで自然銅ともいいます。この純粋な銅がそのまま山から採掘されたということで、朝廷は「これは祥瑞である」と慶びをもって迎えました。文武天皇崩御の年を越え、元明天皇の即位が完了し、改元のタイミングを窺っていたというのもあり、和銅発見を機に元号を改めることが決定。宣命により慶雲5年を改め、その名もズバリ「和銅元年」としたのでした。

いずみ
いずみ

大宝といい、慶雲といい、当時は出現した祥瑞をそのまま元号の名前にしたことが多かったみたいですね✨

歴代の天皇の事績を称賛する

(続き)

「『高天原たかまのはら(天の神が統治する天上世界)より天降られて始まった天皇すめらみことの御代から今に至るまでに、代々の天皇はあま日嗣ひつぎ高御座たかみくら(皇位)おはして治め賜い、めぐみ賜わってきた。これこそ、食国天下をすくにあめのしたわざ(天皇が治める地上世界の統治)であると随神かんながら(神の身として)思っている』と宣り賜うおほみことを皆はよく聞くように、と宣る」。

 神話の時代、天皇のご先祖は高天原という天上世界から地上に天降られ、その子孫が天皇に即位(初代神武天皇)し、代々日本を統治してきました。「随神」と、天皇となった自らを神の子孫に連なる者の1人として、歴代天皇の治世を「これこそ食国天下の業である」と称賛しました。

和銅の出現により、元号を改める

みちのく
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ここから本題に入ります。

(続き)

「『このように治め賜い、慈み賜い来た天つ日嗣の業(天皇の統治)として、今の天皇である朕の代に当たり、天地あめつちの心をいたわしく、いかしく(重大なことであるとして)かたじけな(畏れ多く)かしこまって聞こしめす(統治する)食国をすくに東方ひむかしのかた武蔵国むさしのくにに、自ずからに成れる和銅にぎあかがねが産したと奏して奉ったこの物は、あめいます神、くにに坐す神が互いに良しとお認めになり、栄えさせられることによってあらわれた宝であるらしいと、随神かんながら思っている。ここを以て天地の神が顕せられた瑞宝しるしのたからにより、御世のを改めることとする』と宣り賜う詔命を皆はよく聞くように、と宣る」

要約
 『天皇が天の神から託され、畏れ多くも統治し申し上げる地上の東方にある武蔵国から出現した和銅は、天地の神々が天皇の治世を良いと認めたことによって現れたものなのだろうと、神の身として思っている。よって、これは「瑞宝」であるから、これにちなみ元号を改めることとする』

いずみ
いずみ

和銅の発見は天の神からの賜り物とされたのですね。
タイミング的に、元明天皇の即位を神が喜んでいることを印象付けたかったのかも?

みちのく
みちのく

子から母への皇位継承という、国が始まって以来例がないことだったのでその正当性を強調したいというのはあったかもしれません。

慶雲5年を和銅元年に改める。官位の昇級、大赦、食糧の賜与、税の免除などを行う

(続き)

「『故に慶雲5年けいうんのいつとせを改めて和銅元年わどうのはじめのとしを御世のと定め賜う。

 ここを以て天下に慶びの詔命を宣して、冠位こうぶりくらい(位階)を上げるべき人々を治め賜う。

 天下に大赦して和銅元年正月11日の昧爽まいそう(夜明け)より以前の大辟たいへき(死罪)以下、罪の軽重なく既に発覚したものも未発覚のものも、囚人として獄に繋がれている者もことごとくにこれを赦す。その犯罪が八虐(国家にとって特に重大とされる8種の罪)、故殺人(一時の激情によって殺意を生じ、人を殺すこと)、謀殺人(計画によって人を殺すこと)のうち既遂のもの、及び賊盗のうち通常の赦で許されないものは今回の大赦の範囲外とする。山沢に逃げ武器を挟蔵きょうぞう(私有)している者で100日以内に自首しない者は罪に服することとなる。

 高年の百姓で100歳以上の者にはまぜめし(主食に混ぜ物をした飯)3(容量の単位)を賜う。90歳以上の者には2斛、80歳以上の者には1斛を賜う。

 孝子(孝行の心がある子)、順孫(よく祖父母に使える孫)、義夫・節婦(配偶者と死別したあとに再婚をしない夫と妻)はその門閭もんりょ(村の入り口に建てられた門)に名を標示して税を3年間免除する。

 鰥寡かんか(未亡人と妻を失った夫)惸独けいどく(身寄りのない者)のうち自存することのできない者に粈1斛を賜う。

 百官人に各自差をつけて禄(給与)を賜う。諸国の郡司に位1階を加える。ただし、正六位上より上の者はこの限りにあらず。

 武蔵国の今年のちからしろとその郡の調つきを免除する』と宣り賜う天皇のおほみことを皆はよく聞くように、と宣る」。

 和銅の発見は国の慶事であるとして、官人は位階を昇級させボーナスを支給、罪人は許し、高齢者や未亡人など身寄りのない者には食料を支給し、孝子、順孫、義夫、節婦など表彰されるべき人には税を免除し、和銅が出現した武蔵国と国内の郡の庸・調を免除することが定められました。

みちのく
みちのく

この辺りは、前年(慶雲4年7月17日)の元明天皇即位の宣命でも同様の大赦と高齢者への支給が行われていましたが、今回はさらに手厚いものになっていますね。

いずみ
いずみ

現代とはぜんぜん違いますね

 宣命はここまでになります。

改元に伴う叙位を行う

(続き)

この日、
四品志貴親王に三品
従二位石上朝臣いそのかみのあそん麻呂・藤原朝臣不比等に正二位
正四位上高向朝臣たかむこのあそん麻呂に従三位
正六位上阿閇朝臣あえのあそん大神
正六位下川辺朝臣母知・笠朝臣吉麻呂・小野朝臣馬養うまかい
従六位上上毛野かみつけぬ朝臣広人・多治比真人たじひのまひと広成
従六位下大伴宿禰宿奈麻呂おおとものすくねすくなまろ
正六位上阿刀宿禰智徳あとのすくねちとこ高荘子こうしょうし・買文会
従六位下日下部宿禰老くさかべのすくねおゆ・津嶋朝臣堅石かたしわ
無位金上无こんじょうむに従五位下を授けた。

 阿閇氏は元明天皇とかかわりのある氏族です。元明天皇はいみな(本名)を阿閇といい、この氏族が天皇の養育を担ったものと思われます。阿閇は現在の兵庫県播磨町の地名で、阿閇神社や阿閇橋などに名前が残っています。

 無位(位階を持たない者)から一挙に従五位下が授けられた金上无は、鉱山にかかわる有識者として新羅から渡来した人物といわれ、タイミング的に和銅発見に功績があったものと思われます。

みちのく
みちのく

金上无という象徴的な名前から、もしかしたら彼は日本人で和銅発見によりこの名前に改名されたのかもしれません?

催鋳銭司の設置、讃岐国に疫病

崇福寺跡出土の和同開珎(新和同)(東京国立博物館所蔵) 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

2月11日(甲戌きのえいぬ) 初めて催鋳銭司さいじゅせんしを設置し、従五位上多治比真人三宅麻呂たじひのまひとみやけまろをこれに任じた。
 讃岐国(香川県)に疫病が発生したため、薬を賜ってこれを治療させた。

 文武天皇3年(699)12月20日に「初めて鋳銭司を設置した」とあり、今回の催鋳銭司との関係が気になります。「催」とはうながす、急き立てるという意味なので、和同開珎製造を推進させるための官司でしょう。鋳銭司と同じく設置された場所については書かれておらず、京内なのか武蔵国なのかは不明です。

平城京遷都の詔

みちのく
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改元の詔に続き、遷都の詔が発せられました。
前年の慶雲4年2月19日、王臣に遷都のことを会議させており、それからおよそ1年、今回正式に遷都が決定したようです。

いずみ
いずみ

とうとうあの有名な平城京が出てきましたね!
「なんと(710)きれいな平城京」で覚えました♨️

前置き

2月15日(戊寅つちのえとら) 次のように詔した。「朕、つつしんで宇内うだい(天下)に君主として臨み、菲薄ひはくの徳(徳の乏しいこと)を以て紫宮しきゅう(天子の居る所)という尊いところにいる。常に思うに、これをつくる者は労が重く、一方でこれに住む者はほしいままに安楽である。

要約
朕は、不徳の身でありながら天皇として、紫宮という尊い場所にいる。紫宮をつくる者は重い労働を課せられる一方で、これに住まう天皇は負担もなく安楽である。

公・大臣から遷都の言上があった

(続き)

 遷都はこれまでにもなかったわけではない。王公(皇族)や大臣は皆言上するに「(歴代の天皇は)往古から近代に至るまで、日をはかり、星を(仰ぎ見る)て宮室のもといを起こし、世をぼく(占う)、土地をうらなって帝皇のゆう(人の住むところ、村、里、町)を建てられました。定鼎ていてい(都を定めること)の基は永く固く、無窮(永遠)の業はここにあります」と。(王公、大臣たちの)衆議は忍び難く、詞情は深切(切実)なり。則ち、京師けいしは百官の府であり、四海の帰するところなり。どうして朕ただ独りが逸予いつよ(気ままに遊び楽しむこと)することがあるだろうか。いやしくも皆に利益があるのなら、これ(遷都すること)を遠ざけるべきだろうか。

要約
遷都はこれまでの時代にもなかったわけではない。王公や大臣たちは「ご歴代の天皇は古代から今に至るまで天体を観測して世界を占い、土地の良し悪しを占って帝都を建てられました。都を定めて国の基を永く固くすることで、天皇の御代は永遠のものとなるのです」と言う。彼らの奏上は切実である。都は百官の集う中央であり、世界の中心である。どうして朕ひとりの意のままにできるだろうか。仮にも人民や百官に利益があるのなら、遷都のことを遠ざけるべきだろうか。

 かつては、古くからの慣例として天皇の代が替わるとその度に宮を新しく別の場所に作り直していました。

みちのく
みちのく

この時点の都は藤原京ですが、以前には飛鳥や大津や難波などに都が作られており、天皇の代が替われば宮室も作り替えらえていました。ただ、当然都をつくるというのは民に多大な負担を強いるので、やがて都は1箇所に永く定めることを良しとする流れになっていきます。

いずみ
いずみ

平城京は数代の天皇の都になりましたし、のちの平安京はもう完全に永遠の都として定着しましたね。都のあるべき姿として、藤原京の時代は平安京にいたるまでの過渡期といえるのですね。

殷・周の故事

 昔、殷の王は5回都を遷して中興(衰えていたものを再び繁栄させること)の号を受け、周の王は3度都を定めて太平の世をつくったと称えられた。以てその久安(永く安泰であること)の住まいを遷し、国を安んずるべきである。

 中華の古代朝である殷と周の故事を引き、遷都の必要性を説きます。当時の日本の文化の多くは主に大陸からの輸入で形成されており、特に殷周時代の君主の模範的な統治はたびたび引き合いに出されます。

平城に新都を建てることを命じる

四禽は東西南北の守護神、左から玄武(北)・朱雀(南)・青龍(東)・白虎(西) 東寺で開催された唐彩画展より

(続き)

 方今ほうこん(まさに今)平城ならの地は四禽しきんの図に叶い、三山さんざんが鎮めをす。亀筮きぜい(亀の甲羅と筮竹。占いのこと)の相もまた良い。よって、この地に都を営構(構築)すべし。資材は事情に従って必要なものを奏上せよ。また、秋の収穫を待ち、その後に路橋を造ること。子来しらい(天子を慕って集まりくる民)の義に対し労擾ろうじょう(疲れ、乱れること)をいたすことなく、制度が決められた後になってから新たに負担を加えてはならない」と。

要約
まさに今、平城の地は四禽の構図に見合い、三山が鎮守となっている。占いの結果も良い。よってこの地に都を立てるべし。資材は状況に応じて必要なものを奏上せよ。また、秋の収穫を待ってから道路や橋を造ること。天皇を慕う人民の義に対して無用な労役を課すことなく、制度が決まった後になってから新たな負担を加えてはならない。

 ここにおいて、元明天皇は新都に平城の地を選んだことを表明します。平城は今では「へいじょう」と呼ぶのが普通ですが、当時は「なら」と読みました。その語源は、土地を平らに「ならす」ことから来ています。

みちのく
みちのく

平らな土地とは、ならされた土地…要するに山のない盆地であり、今の奈良盆地を指します。


 四禽とは四神ともいい、東西南北の4方位を守護する神獣です。四禽図は古代中国の思想に基づく都市の配置理論で、四方にそれぞれの象徴的な神獣がいる理想的な地形を意味します。

  • 青龍(東):川などの流水があることが理想(守りと発展)→ 佐保川
  • 白虎(西):街道が通っている(商業や交流)→ 河内国(大阪)につながる道
  • 朱雀(南):開けた平地(発展・拡張) → 奈良盆地南部の開けた土地
  • 玄武(北):高い山(守り・安定) → 平城山丘陵

これを「四神相応」とも言います。

いずみ
いずみ

確かに地図を見ると、北には丘陵、南は開けた盆地、東は佐保川、西は河内に通じますね☀️

みちのく
みちのく

平城京は藤原京よりも北方にあるので山背国→近江国→北陸への交通もスムーズです。

 また、三山が鎮めをなすとは、都の北・東・西の3方位が山に囲まれ、これが天然の砦となって都市の守りとなることをいい、四神と並び神聖視されました。

みちのく
みちのく

北方は平城山丘陵、東方は若草山と春日山、西方は生駒山地がこれにあたります。生駒山については『万葉集』で次のように歌われています。

『万葉集』第20巻 歌番号:4404 大田部三成

難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく

 この歌の通り、平城京の西方の生駒山は「神さぶる」神聖な山であると歌われています。

みちのく
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ちなみに藤原京も北以外の三方が耳成山、畝傍山、香具山の三山に囲まれています。
この三山鎮守の思想がどれほど重要視されていたのかが窺い知れますね。

いずみ
いずみ

「三山が鎮めをなす」…。
確かに山に囲まれていると守られている安心感がありますね♨️

みちのく
みちのく

いずみさんは和歌山の田舎生まれですもんねぇ…










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