【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年② 和銅の新体制、春の管理職人事。国防の要職に護衛武官を賜う

元明天皇
いずみ
いずみ

こんにちは、いずみです♨️

みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回は大きなできごとはなく少し退屈な話が多いかもしれません💦
三関の話は今に跡地が伝わっているので個人的には面白いと思います!

和銅元年(戊申・西暦708年)現代語訳・解説

疫病の発生

3月2日(乙未きのとひつじ) 山背国(京都府)、備前国(岡山県東南部)の2国で疫病が発生した。薬を賜ってこれを治療させた。

任官

神祇官・太政官

3月13日(丙午ひのえうま)次のように任官した。 

従四位上中臣朝臣意美麻呂おみまろ 神祇伯(神祇官の長官)

右大臣正二位石上いそのかみ朝臣麻呂 左大臣
大納言正二位藤原朝臣不比等 右大臣
正三位大伴宿禰すくね安麻呂 大納言
正四位上小野朝臣毛野けぬ、従四位上阿倍朝臣宿奈麻呂すくなまろ、従四位上中臣朝臣意美麻呂 中納言
従四位上巨勢こせ朝臣麻呂 左大弁
従四位下石川朝臣宮麻呂 右大弁

神祇官と中臣意美麻呂について

 律令制のもとでの国家組織は、神祇官と太政官の2官に大別され、神祇官は神事を担当し、太政官は行政全般を司りました。律令法には規定の順序として神祇官を最初に置き、その次が太政官という構成になっており、今回の記事でも最初に神祇官の人事を載せているので、序列として神祇官は太政官よりも上に位置付けられていることが分かります。

 長官の神祇伯に任じられた中臣意美麻呂は藤原氏と同族で、藤原不比等とは「はとこ」の間柄になります。また、藤原鎌足とは養親子の関係にあり、鎌足の娘との結婚によって本家藤原氏との結びつきも強く、当初は意美麻呂も藤原朝臣を名乗っていました。しかし、文武天皇2年(698)8月19日条にて神事に奉仕する氏族として旧姓の中臣氏に戻ることとなりました。

不比等と意美麻呂は同世代であり、縁戚としても深い繋がりがある
いずみ
いずみ

氏族ごとに担当する仕事が決められていたということですね

みちのく
みちのく

中臣氏が神事を担うというのは、昔からの慣わしであり、生業だったと言って良いでしょう。

太政官のトップに石上麻呂が就任

 このときの太政官首班は慶雲2年(705)9月5日に知太政官事に任じられている穂積親王ですが、これを除くと左大臣に任じられた石上麻呂が首席になりました。麻呂は壬申の乱で大友皇子が自殺する最後の瞬間まで付き従った数人のうちの1人であり、天武天皇に敗北した側の人物として新体制に組み込まれたわけですが、重用されこのように左大臣という極位にまで登りつめました。

みちのく
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重用されたのは、敵対側勢力とはいえ大友皇子に最後まで従ったという忠誠心が評価されたためといわれています。

 麻呂は当時69歳と高齢であり、重鎮という存在だったはずです。しかし、この頃実際に国政をとりしきっていたのは右大臣に任命された藤原不比等であったといわれています。

いずみ
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それでも、ここまで出世したのは天皇や周囲からの信頼があったからですよね。

八省(中務省除く)と造宮卿

(続き)

従四位下下毛野しもつけぬ朝臣古麻呂 式部卿

従四位下弥努みぬ(美努王。橘諸兄の父) 治部卿

従四位下多治比真人池守たじひのまひといけもり 民部卿

従四位下息長真人老おきながのまひとおゆ 兵部卿

従四位上竹田 刑部卿

従四位上広瀬 大蔵卿

正四位下犬上王 宮内卿

正五位上大伴宿禰手拍たうち 造宮卿

 八省は、太政官の管下8種の行政機構で、今回はこのうち中務卿のみ任命がありませんでした。現職は慶雲2年(705)11月3日に任命された正四位上小野毛野です。毛野は今回の任官で中納言に任じられていますね(兼職)。

 造宮卿は律令に規定のない臨時の官(令外官りょうげのかん)で造宮省という役所が創設されたものと思われます。これは新都平城京(平城宮?)の建設を担当するものでしょう。

京官

 宮内や京内の官を任命。ただし、左京大夫と右京大夫は厳密には地方官です。

(続き)

正五位下大石王 弾正尹だんじょういん(弾正台の長官。官人の不正を監察)

従四位下布勢朝臣耳麻呂 左京大夫(左京の行政府の長官)

正五位上猪名いな真人石前いわさき 右京大夫(右京の行政府の長官

従五位上大伴宿禰男人 衛門督えもんのかみ(衛門府の長官)

正五位上百済遠宝くだらのえんぽう 左衛士督さえじのかみ(左衛士府の長官)

従五位上巨勢朝臣久須比 右衛士督(右衛士府の長官)

従五位上佐伯宿禰垂麻呂 左兵衛率さひょうえのかみ(左兵衛府の長官)

従五位下高向朝臣色夫知たかむこのあそんしこふち 右兵衛率(右兵衛府の長官)

国守と大宰帥、大宰大弐

 国守は国司の長官で、それぞれの国の行政全般を司ります。摂津大夫も同様ですが、摂津国は難波宮を有する重要な国であるため「摂津守」ではなく、摂津大夫という特別な名称になっています。藤原京を抱える大倭国(のちに大和国)よりも上に摂津大夫が記述されており、また従三位という高官が任命されていることからもその重要さがうかがえます。

(続き)

従三位高向たかむこ朝臣麻呂 摂津大夫

従五位下佐伯さえき宿禰おとこ 大倭守

正五位下石川朝臣石足いわたり 河内守

従五位下坂合部宿禰三田麻呂 山背守

正五位下大宅朝臣金弓 伊勢守

従四位下佐伯宿禰太麻呂 尾張守

従五位下美努連浄麻呂みぬのむらじきよまろ 遠江守

従五位下上毛野かみつけぬ朝臣安麻呂 上総守

従五位下賀茂朝臣吉備麻呂 下総守

従五位下阿倍狛あべのこま朝臣秋麻呂 常陸守

正五位下多治比真人池守 近江守

従五位上笠朝臣麻呂 美濃守

従五位下小治田おはりだ朝臣宅持やかもち 信濃守

従五位上田口朝臣益人 上野守

正五位下当麻たいま真人櫻井 武蔵守

従五位下多治比真人広成 下野守

従四位下上毛野朝臣小足 陸奥守

従五位下高志連こしのむらじ村君 越前守

従五位下阿倍朝臣真君 越後守

従五位下大神おおみわ朝臣狛麻呂 丹波守

正五位下忌部いんべ宿禰子首こおびと 出雲守

正五位上巨勢朝臣邑治おおじ 播磨守

従四位下百済王南典くだらのこにきしなんてん 備前守

従五位上多治比真人吉備 備中守

正五位上佐伯宿禰麻呂 備後守

従五位上引田朝臣尒閇にえ 長門守

従五位上大伴宿禰道足 讃岐守

従五位上久米朝臣尾張麻呂 伊予守

従三位粟田朝臣真人 大宰帥だざいのそち(大宰府の長官)

従四位上巨勢朝臣多益首たます 大弐だいに(大宰府の次官)

 高向麻呂は慶雲2年(705)4月22日に中納言に任命されていました(当時は従四位下)が、いつの間にか(今回?)解任され摂津大夫に任じられました。中納言は定員3名で他氏が任命されています。

 国守の多くは五位ですが、尾張守、陸奥守、備前守の3カ国は四位です。いずれも国の要所を押さえる大国であるため高官が任じられたのでしょう。後述しますが、尾張守は護衛の武官がつけられるという特別待遇をされています。

 大宰帥は、名誉職で実際に現地に赴任しない遙任ようにんとされ、実務上の長官は大弐とされますが、粟田真人は藤原不比等にその優秀さを警戒され左遷の意図で任命されたのではないかという説があります。

大宰帥などに傔仗を賜う

3月22日(乙卯きのとう) 大宰帥と大弐、並びに三関さんげんの国と尾張守に初めて傔仗けんじょう(護衛の武官)を賜った。その人員は、大宰の帥に8人、大弐及び尾張守に4人、三関の国守に2人とした。その考選(昇進にかかわる勤務考査)事力じりき(国司などの地方官に与えられる雑務や耕作を行う使用人)及び公廨田くがいでん(地方官の官職に対して与えられた田)は史生に準ずることとした。

 三関は、畿内防衛のため重要とされた3箇所の関所で、美濃国(岐阜県南半部)の不破関、伊勢国(三重県)の鈴鹿関、越前国(福井県)の愛発あらち関です。天皇が崩御したときには固関こげんといい、政情不安に乗じた変事を事前に防止するため関所が閉じられる措置がとられました。

いずみ
いずみ

不破関は今の関ヶ原があるところですね。このように、地名からもかつて関所があったことがわかります。


愛発関推定地。愛発関はのちに廃止され逢坂関(滋賀県大津市)にとって替わられるため詳細な位置はよくわかっていないようです。

 尾張国(愛知県西部)は東海道の要所であり、三関国と同じく交通・国防で重要な国でした。3月13日の任官で従四位下佐伯太麻呂が尾張守に任じられており、先述のように他の国守の多くが五位である中で、四位として任命されていることに注目。

いずみ
いずみ

尾張守の傔仗の人数は4人なので、三関の国守よりも2人多いんですね。関所はないですが、実はこの中で最も重要だったのは尾張だった…?

任官(玄蕃頭、下総守)

(続き)

 従五位下鴨朝臣吉備麻呂かものあそんきびまろ玄蕃頭げんばのかみに、従五位下佐伯宿禰百足さえきのすくねももたりを下総守に任じた。

 鴨吉備麻呂は3月13日に下総守に任じられていましたが、なんらかの事情で異動になったようです。玄蕃頭は治部省玄蕃寮の長官で、職掌は律令の規定によると以下のものとなっています。

職員しきいん令 第18条(玄蕃寮条)

仏寺、僧尼の名籍(名簿)供斎ぐさい(宮内や京中の仏教に関する礼儀)のこと、蕃客ばんきゃく(外国使節)の辞見(謁見と別れの挨拶)讌饗えんきょう(酒や食事でもてなすこと)・送迎のこと、及び在京の夷狄いてき(上京している蝦夷)のこと、館舎を監当(管理。ここでは、外国使節のための館舎)すること。

 その職掌は仏事や外交に関するもので重要であり、その長官になるということは吉備麻呂自身に何か問題があったわけではなさそうです。

みちのく
みちのく

「玄」は法師、「蕃」は外蕃、つまり外国の意味です。

 替わって下総守に任じられた佐伯百足は、大宝2年(702)12月23日条で持統上皇葬儀のための作殯宮司に任命されたと見え、また慶雲4年(707)6月16日条には文武天皇葬儀のため、「殯宮のことに奉仕させた」と記述があります。

任官(授刀舎人寮の長官)

3月23日(丙辰ひのえたつ) 従五位下小野朝臣馬養うまかい帯剣たちはき授刀舎人たちはきのとねり寮)の長官に任じた。

 帯剣寮は、慶雲4年(707)7月21日条にて設置された「授刀舎人寮」のことと思われます。

いずみ
いずみ

なぜこのように表記が揺れるんでしょうね?

三つ子の出産

3月27日(庚申かのえさる) 美濃国安八あはち郡の人、国造くにのみやつこ千代の妻である加是女かくめが一度に3人の男子を産んだ。よって、稲400束と乳母1人を支給した。

 現在の岐阜県安八あんぱち郡であり、「あんぱち」という読みは明治時代以降からのもの。その語義には、「安」寧が多い(八)という意味が込められています(「八」という字は数が多いさまを表す)。『日本書紀』には「安八磨郡」とありますが、磨の字はいつの頃からか除かれたようです。
 「国造千代」というのは、当地の豪族(美濃国造?)の千代という男性で、その妻が加是女という女性ということです。

みちのく
みちのく

稲1束から30グラムほどの白米がとれるとすると、400束は12キログラムとなります。1食に食べる白米を50グラムとすると、12キログラムの白米は240食分です。
ただ、当時の庶民はそもそも白米をほとんど口にはできず、麦や稗や粟を混ぜた雑穀米を食べていたため、240食分以上にはなったはずです。

いずみ
いずみ

豪族の奥さんということは、こちらの家は比較的裕福な食事ができていたかもしれません?

叙位(村王)

夏 4月7日(己巳つちのとみ) 無位村王に従五位下を授けた。

 村王については、事績、出自などは不明です。ただし、無位から従五位下を授けられているということから、「選叙令」の規定により3世から5世の皇族であることは分かります。

律令 選叙令せんじょりょう

35(蔭皇親条)
 皇親におんするときは、親王の子に従四位下、諸王(4世王まで)の子に従五位下を授ける。5世王は従五位下を授け、その子(6世王)には一等下して授けること。(以下略)

いずみ
いずみ

1文字の名前というのもなかなか珍しいですね。

貢人・位子、国博士・医師の登用について

式部省の不正 その1

4月11日(癸酉みずのととり) 次のように制定した。「貢人こうじん(官吏に採用されるように推挙された諸国の国学生)位子いし(六位以下八位以上の者の嫡子で、父の位階により官人に登用される者)の中で、こう(勤務考査。年に1度行われる)の日を迎えていないにもかかわらずみだりに常選に入れ(考の結果に基づき官職に登用すること)、また白丁はくてい(無位・無官の良民。租税や労役等を負担する)が規則に反して貢人となっている者がいる。こういった事例が多くなっているが、これは式部省が検査を怠った過失である。今、彼らを按覆あんぷく(よく調べること)し真実を申告させるようにせよ。不正を行っていた式部の史生ししょう(下級書記官)以上の者で、罪を知り自首した者はその罪を免じる。自首をしなかった者は律(刑法)により罪を科す。

 官吏候補の国学生(貢人)と、親が六位以下八位以上の官人である者(位子)を登用する場合、まずは年に1度行われる「考」という勤務の査定を受けなければなりません。ところが、この考を経ないままに登用を決めるという不正が行われていました。また、貢人ではないのにその資格がない一般市民(白丁)を貢人としているような実態があったようです。
 これらの不正は、役人登用や試験を担当する式部省の怠慢であるとされました。罰則に関しては「職制律」に官人候補者の推薦・試験・選任・勤務評定などの不正についての罰が定められており杖罪という、杖で尻を60発叩くという刑罰が科されました。

式部省の不正 その2

(続き)

 また、位子は令によると嫡子だけが対象であり、庶子を用いてはならないのであるが、今の実態は嫡子・庶子ともに位子として用いている。これもまた式部省が令の規定に反している。もしその庶子に位記(位階が記された身分証明書)を授けたとしても、みな本色ほんじき(もとの身分)に戻すこと。ただし、その能力が職務に堪えられて登用される意思のある者はこれを許可せよ。

 嫡子は、後継ぎと決めた子のことで通常長男が嫡子になります。庶子は嫡子以外の子、または正妻以外の妻から生まれた子のことをいいます。つまり、位子と認められるのはその親について1人の嫡子のみになります。

国博士と医師の考選

(続き)

 また、諸国の国博士と医師で朝廷から派遣されて任命されている者は、その考選は史生に準ずることとする。考第(考査結果の等級)はそれぞれ本来の基準に従うこと。もし、現地の人または傍国の人から採用する場合は、令に従うこと。
 また、もろもろの位子・貢人がその職務に堪えられるものであれば、すべてその所属する官司に案記(よく考え記すこと)させること。登用に臨んで式部省は、当該官司に指示し追ってこれを登用すること」と。

 国博士は諸国で学生に学問を教授した学者です。国博士と医師はそれぞれの国に1人を定員として任用されました。原則として、その国の人から採用することとなっていましたが、適任者がいない場合は隣国から採ることも認められていました。しかし、当国や隣国からも適任者を採用することは現実的に難しかったようで、朝廷から派遣されて任用されていたのが実態だったようです。

いずみ
いずみ

それぞれの国にたった1人の医師を採用するのにも適任者がいない…この時点で、日本はまだまだ唐に比べて発展途上だったと言わざるを得ないですね。

(柿本佐留)

4月20日(壬午みずのえうま) 従四位下柿本かきのもと朝臣佐留さるしゅっした。

 柿本佐留は、『万葉集』に多くの歌が載る宮廷歌人・柿本人麻呂の兄弟です。『日本書紀』天武天皇10年(681)12月29日に、柿本臣猨かきのもとのおみさるとして小錦下の冠位を授けられたという記録がありますが、特に他に事績は見当たりません。










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