【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅5年④ “音那”たちの内助の功。祥瑞に勝るは豊年

元明天皇紀
いづみ
いづみ

こんにちは、いづみです♨️
音那ってなんですか?

みちのく
みちのく

それをこれから見ていきましょう。

和銅5年(壬子・西暦712年)現代語訳・解説

(大臣の未亡人に封戸・賜姓を行う)

9月3日(己巳つちのとみ) 次のように詔した。「故左大臣正二位多治比真人嶋たじひのまひとしまの妻、家原音那いえはらのおとなと贈右大臣従二位大伴宿禰御行おおとものすくねみゆきの妻、紀朝臣きのあそん音那の2人は、夫の存命のときは国を治める道を互いに勧め、夫の亡き後は同じ墓に入る意思を固く守っている。ちん(天皇の一人称)はその貞節を思い、感嘆を深めている。よって、この2人にそれぞれ封地として50戸を賜り、家原音那にはむらじかばねを加えて賜うこととする」と。

曰。故左大臣正二位多治比眞人嶋之妻家原音那。贈右大臣從二位大伴宿祢御行之妻紀朝臣音那。並以夫存之日。相勸爲國之道。夫亡之後。固守同墳之意。朕思彼貞節。感歎之深。宜此二人各賜邑五十戸。其家原音那加賜連姓。

 すでに故人となった左大臣と右大臣、そして、その未亡人となった2人の妻、家原音那と紀朝臣音那。彼女たちは大臣である夫を支え、自らの死後は夫と同じ墓に入ることを固く誓っている。これが「貞節を守る良妻」であると評価され、詔により褒賞が授けられました。

 多治比嶋の死去は大宝元年(701)7月21日(壬辰)、大伴御行の死去は、大宝元年(701)正月15日(己丑)のこと。

「音那」ー史料は女性の実名を語らないー

いづみ
いづみ

「内助の功」というやつですね。ところで奥様は2人とも「音那」という同名ですが、偶然なのでしょうか??

みちのく
みちのく

音那」は個人名ではなく、女性を表す通称名である可能性が高いです。
女性の個人名はあまり表に出されることがなく、誰々の妻、誰々のむすめ、誰々の母といった表記になりがちです。

いづみ
いづみ

言われてみれば、百人一首には「菅原孝標女すがわらのたかすえのむすめ」とか、父の名前だけが出てくるパターンがありますね。「清少納言」も父の氏と官職名が由来ですし…。なぜ女性の名前は伏せられるのでしょう?

みちのく
みちのく

複数の理由が合わさっていると思います。
まず、女性は「奥」「内」の存在であり、名を「表」「外」に出さないのが慎みであり、礼節であるという価値観がありました。これは貴人の名前を「忌み名」として軽々しく言わない・書かない文化にも通づるものがあります。

いづみ
いづみ

言われてみれば「奥様」という言葉からして、「奥」「内」の存在ということがよく分かりますね。それにしても、文字にして書くことすら憚られるのは現代人の感覚とは少し離れていますね。

みちのく
みちのく

こういった理由にプラスして、国史はその記録の性格上「行政のログ」ですから“彼女個人のアイデンティティ”は必要なく、誰の妻として顕彰するかどの家に恩賞が及ぶかが重要なので、実名よりも「大臣の妻」という関係の表示が優先されるし、その表示だけで足りてしまうのです。

いづみ
いづみ

なるほど、こういう事情で昔の女性の名前は残りにくいのですね。
私なんて逆に「いづみ」っていう下の名前しか分からないんですけどね。

みちのく
みちのく

余談ですが、詔を出した元明天皇自身が未亡人(夫は草壁皇子)なので、今回の恩賞には思うところがあったかもしれませんね。

元明天皇は女帝。



(祥瑞の発見を祝う)

玄狐(黒狐)のイメージ画像

(続き)

 また、次のように詔した。「朕は聞く。旧老(昔の事柄を知っている年寄り)の伝承が云うに『の年(ねずみ年)は穀物が実らない』とされるが、天地の垂祐すいゆう(神が恵みを授けること)があり、今ここに大きな実りがあった。古の賢王が言うには、『祥瑞の美も豊年に勝ることはない』と。言うまでもなく、伊賀国司の阿直敬たちが献上した黒狐は上瑞じょうずいに合致しており、文書はこれを、王者の治世が太平であるときに現れると伝えている。思うに、衆庶しゅうしょ(大衆、庶民)とともにこの歓慶かんけい(めでたい慶び)にあずかるべきである。
 よって、天下に大赦する。ただし、強盗・窃盗で常の赦で許されないものは、今回の大赦に含めない。私鋳銭しじゅせん(銭貨を偽造すること)は罪1等を下して罰する。
 伊賀国司のさかん(四等官の序列4番目)以上は、位を1階進める。祥瑞が発見された郡は庸(労役に代えて布を納付する)を免除する。祥瑞を捕獲した人の戸(世帯)は3年間給復きゅうふく(税と労役を免除すること)する。また、天下の諸国の今年の田租、並びに大和、河内、山背の3カ国の調を免除する」と。

又詔曰。朕聞。舊老相傳云。子年者穀實不宜。而天地垂祐。今茲大稔。古賢王有言。祥瑞之美無以加豊年。况復伊賀國司阿直敬等所獻黒狐。即合上瑞。其文云。王者治致太平。則見。思与衆庶共此歡慶。
宜大赦天下。其強竊二盜常赦所不免者。並不在赦限。但私鑄錢者。降罪一等。
其伊賀國司目已上。進位一階。出瑞郡免庸。獲瑞人戸給復三年。又天下諸國今年田租。并大和。河内。山背三國調。並原免之。

 同年7月15日(壬午)に、伊賀国の国司が献上した玄狐(黒狐)が祥瑞と認められ、国の慶事として大赦が行われました。また、伊賀国司たちは位階を1階昇級され、黒狐が発見された郡(具体的な郡名は不明)はとして納入される布が免除となり、捕獲した人の家は3年間の税と労役を免除されました。さらに、全国のこの年のが免除され、大和・河内・山背の3カ国は調も免除となりました。

みちのく
みちのく

祥瑞には大瑞・上瑞・中瑞・下瑞という4ランクがあり、玄狐は上瑞であるとされました。

子の年(ねずみ年)は穀物が不作になる?

 「の年は穀物が実らない」という伝承があったようです。実際、和銅5年は子の年にあたります。この伝承の原典は不明ですが、なぜこのような言い伝えが生まれたのか、推理することは可能です。

ハツカネズミ Wikipediaより

 まず前提として、干支(えと)は1年を代表する動物というイメージがありますが、当時は年だけでなく月・日、また時刻をも干支で循環して数えていました。

みちのく
みちのく

令和8年(2026)は午年ですね。

いづみ
いづみ

時代劇とかで、時刻を「子の刻」と言ったりしますし、方角にも干支が使われてましたよね。干支は今とは比べものにならないくらい日常生活に密着していたことが分かります。

子には「冬至」のイメージがあった

 子は干支の起点ですが、旧暦において「子の月」は1月ではなく、11月にあてられていました。旧暦は10月・11月・12月が冬で、11月は冬のど真ん中であり、冬至に至る月です。つまり、日照時間が1年で最も短くなる(=陽の気が弱まり、陰の気が最も強くなる)月にあたるのです。
 また、干支の起点である子が11月に置かれたのは、農事のサイクルに基づいています。11月は、収穫を終えた田が空になり、冬至を迎えるこの時期は、実りが終わると同時に次の循環が始まる折り返し点と捉えられたのです。

みちのく
みちのく

冬至は陰の気が最も強くなりますが、言い換えれば、そこから先は陽の気に切り替わる点でもあるわけですね。これが子の月が11月に置かれた理由です。この連想から、子年は陰→陽の新たな循環が始まる年で、作物の作柄もまだ未熟で、実りが悪くなるという伝承が生まれたのでしょう。

いづみ
いづみ

なるほど…陰の極まり→陽の始まりが「子」の持つイメージで、それが1年の作物の収穫にも結びついたと。ねずみは穀物を食い荒らす獣のイメージが強いですから、それで「子の年は穀物が実らない」の言い伝えに繋がったのかと思いましたけど、そういうわけではないんですね。

みちのく
みちのく

ねずみの持つイメージとして、穀物の食害に繋がるのは自然です。ですが、干支そのものは動物のイメージがつく前から、年月日や方位を表す記号に使われていたので、そこは慎重に考えた方がいいでしょう。

 干支に動物イメージが付与されたのは、遅くとも古代中国を統一した秦(紀元前221〜前206年)の時代ですが、もともと干支は動物とは無関係で、その原点は、殷の時代(紀元前13世紀ごろ)の甲骨文字までさかのぼることができるようです。

いづみ
いづみ

12種類の動物は後付け設定だったんですね…!



玄狐を献上した国司に叙位(従五位下)

9月4日(庚午かのえうま) 正六位上阿直敬に従五位下を授けた。

授正六位上阿直敬從五位下。

 祥瑞の玄狐を献上した伊賀国司(おそらく長官の伊賀守)が、その功績を称えられ従五位下に昇級しました。正六位上から従五位下はたった1階の差ですが、この1階は「貴族とそれ以下」を線引きするラインなので官人のキャリアとしては非常に大きな意味があります。

みちのく
みちのく

従五位下から上の階が「貴族」とされました。

僧綱の任命

9月15日(辛巳かのとみ) 観成かんじょう法師を大僧都そうずに、弁通法師を少僧都に、観智法師を律師りっしに任じた。

觀成法師爲大僧都。弁通法師爲少僧都。觀智法師爲律師。

僧綱って?

 僧綱そうごうは、律令制において、僧尼を統制する朝廷の機関です。序列があり、僧正・僧都・律師の3階層が定められており、この三職を「三綱」といいます。

鉛で作った白粉(おしろい)で有名 観成法師

 大僧都に任命された観成法師は、『日本書紀』の持統天皇6年(692)閏5月4日(戊戌)条に登場します。そこには、自ら作った鉛粉(化粧のため顔に塗る白粉)を持統天皇に献上したことが記されており、天皇はこれをほめて、絁15匹・綿30屯・布50端を賜わったとあります。
 鉛で作った白粉は、それまでの貝殻や米粉でつくったものよりも格段に肌へのツキやノビがよく、肌を美しく白く見せることができたとのこと(ポーラ文化研究所「原始化粧から伝統化粧の時代へ 飛鳥・奈良時代2」より)。

いづみ
いづみ

持統天皇もこの白粉でお化粧していたってことですね!

持統天皇は女帝
みちのく
みちのく

ただし、鉛の白粉は人体に有害だそうです。明治20年(1887)に、歌舞伎役者が演技中に脚の震えが止まらなくなり、これは鉛中毒であることが判明し社会問題になりました(資生堂「もともとファンデは「鉛」でできていたの?」)。

いづみ
いづみ

ええ…💦

新羅にネットワークがあった 観智法師

 律師に任命された観智も同じく『日本書紀』に登場しており、新羅への学問僧であることが知られています。持統天皇3年(689)3月20日(壬寅)に、新羅から帰国したことが記され、同年6月20日(辛丑)には、新羅にいる師匠や友人たちに送るための綿140斤を天皇から賜ったことが記されています。

いづみ
いづみ

学問僧を通じて新羅との国交があったんですね。



任官(遣新羅大使)

9月19日(乙酉きのととり) 従五位下道君首名みちのきみおびとなを遣新羅大使に任じた。

以從五位下道君首名。爲遣新羅大使。

 道首名(みち の おびとな)は、大宝律令撰定のメンバー(文武天皇4年(700)6月17日条)であり、その講義を行うなど律令に通じた官人でした。
 遣新羅大使の任命は、慶雲3年(706)8月21日(壬辰)以来6年ぶり。

出羽国の設置

出羽国(Wikipediaより)

9月23日(己丑つちのとうし) 太政官は次のように議奏(審議のうえ奏上すること)した。「国を建ててさかい(国の境)をひらくことは、武功の貴きところであります。官を設け撫民ぶみん(民を慈しむこと)することは、文教のとうとぶところであります。その北道の蝦狄えみしは、遠く阻険そけん(山や道が険しいこと)たの(よりどころにする)、まことに狂心をほしいままにし、たびたび辺境を脅かしていますが、官軍が雷のごとくに撃ち、凶賊は霧のごとくに消え失せました。てき(蝦狄の領域)晏然あんぜん(安らかで落ち着いているさま)とし、皇民はみだされることがありません。誠に望むらくは、この時期に乗じて一国を置くことであります。よって、律令に基づき司宰しさい(国司)を置き、永く百姓を鎮めることと致します」と。
 これを奏可(奏上された内容を許可すること)し、初めて出羽国を置いた。

太政官議奏曰。建國辟疆。武功所貴。設官撫民。文教所崇。其北道蝦狄。遠憑阻險。實縱狂心。屡驚邊境。自官軍雷撃。凶賊霧消。狄部晏然。皇民無擾。誠望便乗時機。遂置一國。式樹司宰。永鎭百姓。
奏可之。於是始置出羽國。

 さかのぼること4年前の、和銅元年(708)9月28日(丙戌)、越後国に新たに出羽郡がたてられましたが、蝦狄との戦闘や混乱状態が落ち着いたため、郡を国に格上げし「出羽国」とすることとなりました。

みちのく
みちのく

「蝦狄」という表記ですが、これは『続日本紀』が、日本海側は「蝦狄」、太平洋側は「蝦夷」と区別して表記したものです。
和銅2年(709)3月同年8月には、エミシ征討が行われ一定の成果を得ており、今回の郡→国への昇格もこの流れに乗ったものでしょう。

出羽郡→出羽国へ その意図は?

いづみ
いづみ

越後国から出羽国を新たに独立させる、その意義とは…?

みちのく
みちのく

郡政は在地の豪族に任されることが多いですが、郡→国に格上げすることによって、中央から直接国司を送り込むことができるんですね。
在地豪族に任せると、その土地の蝦狄との婚姻や交易などで、律令国家の枠組みよりも、蝦狄のコミュニティに溶け込んでしまい、中央の命令より現地の権威の方が勝ってしまうおそれがあるわけです。

いづみ
いづみ

なるほど、京から出羽まではかなりの距離がありますし、遠い彼方にある朝廷の命令よりも、現地で信用がある豪族の言うことを聞くのは人情として自然なことですね。だからこその出羽国創設だったということ。

みちのく
みちのく

また、越後国があまりに広大なので、越後国司が国中を把握し切れないという単純ながら現実的な問題もあったと思います。辺境での蝦狄の状況を国司が把握するのに時間がかかり、有事が起きても対応が遅れてしまうことは非常にまずいわけですね。

いづみ
いづみ

おお💡そこに出羽国司がいれば、出羽から直接朝廷に危急を報せることができて情報伝達がスピーディーになるというわけですね!



帳内・資人の採用制限

9月29日(乙未きのとひつじ) 三関さんげん(関所のある、伊勢・美濃・越前の3か国)の人から帳内(親王または内親王に与えられる従者)資人しじん(五位以上の貴族や大臣などに与えられる従者)を採用することを禁じた。

禁取三關人爲帳内資人。

 帳内・資人の採用ルールをめぐる記事は、この数年でしばしば登場しています。まず、和銅3年(710)3月7日(戊午)で、帳内・資人の、畿外の人からの採用が規制されました。続く、和銅4年(711)5月15日(己未)には、一転して畿外の人の採用が許可されました。

 そして今回の記事では、三関(伊勢国・美濃国・越前国の3か国)の人から採用することを禁止とされました。

いづみ
いづみ

右往左往しているように見えますが、なぜ三関から帳内・資人を採用してはいけないのでしょうか?

みちのく
みちのく

三関とは、国防のための重要な関所を擁する3国のことです。
この国からは帳内・資人に採用するよりも、関所やその関連の業務の需要があるため、採用を禁止したのでしょう。




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