
こんにちは、みちのくです☀️
今回もよろしくお願いします。

大宝3年の4月からですね!さっそくいってみましょう!♨️
大宝3年(西暦703年)現代語訳・解説
持統上皇の百か日法要
夏 4月2日(癸巳) 太上天皇(持統上皇)のおんために100日の斎会を御在所に設けた。
持統上皇が崩御されてから100日が過ぎました。死後7日目に行われる初七日法要を初めとして、1週間ごとに経を唱え四十九日法要を終えたあと、次に行われるのが百か日法要です。冥土での安楽を祈ると同時に、現世に残された人々が故人を失った悲しみと区切りをつける日とされています。

ちなみに、この時点においてまだ持統上皇のご遺体はまだ棺の中に安置されています。そのため御在所というのは棺が安置されている場所のことをいっています。
高句麗王族に賜姓

4月4日(乙未) 従五位下高麗若光に王の姓を賜った。
この氏(うじ)が示す通り、高麗若光は朝鮮(高句麗)から渡来した帰化人です。高句麗は唐の侵攻により668年(日本では天智天皇元年)にすでに滅びており、当時朝鮮半島は新羅により統一されていました。

王の姓を賜った…ということは高句麗の元王族なんですか?

はい。若光は高句麗最後の王である「宝蔵王」の子です。
また、姓の王(こにきし、こきし)は古代朝鮮語「こんきし」から来ているようです。

高句麗の王族として一定の敬意を払ったということでしょうか。
他の高句麗からの帰化人たちの取りまとめ役としても期待されていたのかも。
賜姓(和気氏)
4月20日(辛亥) 従七位下和気坂本に君の姓を賜った。
「君」の姓は主として地方の豪族に与えられました。
他に「公」という同じ読みの姓がありますが、こちらは古墳時代の第15代応神天皇または第26代継体天皇以後に別れた氏族に与えられた姓として区別されています。
和気氏は、第11代垂仁天皇の皇子である鐸石別命を始祖とし、交通の要所である吉備国(岡山県。備前・備中・備後の3国に分かれる)に勢力を持った有力豪族です。

和気氏で著名な人物としては、「宇佐八幡神託事件」で皇統を守った和気清麻呂がいます。現在皇居外苑には和気清麻呂像が建てられています。

奴婢の復籍
4月27日(戊午) 安芸国(広島県)のさらわれて奴婢となっている者200人余りに、本籍に復すことを許した。

さらわれたって穏やかじゃないですね…安芸国だけで200人ってかなりの規模じゃないですか?怖い…。

この時点で朝廷が把握している数で200人ということですから、実際にはもっといたのでしょう。
律令は、人をさらうことを刑罰として規定しています。
賊盗律
45 略人条
人を略し(さらうこと)、売って奴婢とした者は遠流とする。家人とした者は徒(懲役刑)3年とする。妻妾・子孫とした者は徒2年半とする。(以下略)
詔(新羅王の弔使をねぎらう)
閏4月1日(辛酉) 天下に大赦した。
新羅国の客使を難波館において饗宴した。詔に曰く「新羅国使・薩飡(新羅国の官位)金福護の上表文にいうに『寡君(自国の君主をへりくだっていう語)は不幸にも、昨年の秋から病気となり今春に薨じ(貴人が亡くなること)、永く聖朝(日本のこと)を辞することとなりました』とのことである。
朕は思うに、蕃君(隣国の君主。新羅王のこと)は異境に住むといえども覆育(天地が万物をおおい育てること)することはまことに愛する我が子と同じである。寿命には終わりがあり、人倫の大期(重要な時期)であるといえども、この言葉を聞いてから哀感すでに甚だしい。弔意の使者を発し贈り物を授け弔うべきである。福護らははるかに海の蒼波を渡ってよく使いの使命を遂げた。朕はその辛い務めを憐れんでいる。よって、布帛(質の良い織物)を賜うべし」と。
正月9日に、新羅の使者から新羅国王の訃報がもたらされました。今回は文武天皇の詔により、哀悼の意を表明したものになります。昨秋に発病し、今春(春は1月から3月)に薨じたということから、新羅からの報告はかなり迅速に行われたようです。

外交としての社交辞令はもちろんあるのでしょうが、かなりねんごろに国王を悼んでいるように感じます。

新羅とは全史を通して敵対している時期が多かったですが、文武天皇の時代は比較的良好な関係を保っていたようです。
新羅王(孝昭王)は15歳という若さで薨じたため、5歳年長の文武天皇としても思うところがあったのかもしれません。
右大臣阿倍御主人が亡くなる
(続き)
この日、右大臣従二位阿部朝臣御主人が薨じた。正三位石上朝臣麻呂たちを派遣して弔使を送り贈り物を賜った。
正月20日に刑部親王が太政官を統括する知太政官事に任命されているため、右大臣の阿部御主人は当時の太政官のナンバー2でした。
阿部御主人は、左大臣阿部内麻呂の子。阿部氏は古代からの軍事氏族であり北陸地方の蝦夷平定に功績がある有力豪族です。御主人は壬申の乱において大海人皇子(天武天皇)側につき勝利に貢献したため右大臣にまで出世しました。享年69歳。

太政大臣も左大臣も空席のため、右大臣阿部御主人が亡くなった今「大臣」が1人もいなくなってしまいました。ちなみに、大宝律令体制下の初代右大臣であり、阿部氏で唯一の大臣でした。

69歳は当時としてはかなりの長生きですね。
新羅王弔使の帰国、愁訴による雑戸身分の免除
5月2日(壬辰) 金福護たちが蕃(隣国。新羅)に還った。
正七位上倉垣連子人は、高祖父(祖父の祖父。4代前)根猪の子孫である。正七位上私小田、従七位上私比都自・長嶋及び昆弟(兄弟)たちが皆訴えて雑戸の身分を免除された。
雑戸は、弓矢や鎧など兵器や農具の製造、馬の飼育、紙の生産など専門的な知識や技術を持った職人集団です。特定の官司に所属してこれらの生産に隷属する代わりに税や兵役を免除されました。

技術者集団ということで国に多大な貢献をしていたはずですが、どういうわけか雑戸は卑しまれる存在だったようで、賎民以上良民以下のような扱いを受けていました。

だから雑戸の身分をやめたいと集団で願い出たわけですね。
貴重な技術者なのに、なぜ差別されていたのでしょう…?
漂着新羅人を帰国させる
5月3日(癸巳) 漂着してきた新羅人を金福護につけて帰郷させた。

ちょうどいいのでこの機会に帰ってくださいね…ということですね。
紀伊国の各郡の調について

5月9日(己亥) 紀伊国(和歌山県)の奈我(那賀)・名草の2郡に布の調を停止して糸を献上させることとした。ただし、阿提・飯高・牟漏の3郡は銀を献上することとした。
阿提郡はのちに在田郡に改称され、さらに現在の有田郡へと変わります。

桓武天皇の長子であり、第51代平城天皇の本名を「安殿」といい、発音が同じなため、これを避けて改称したそうです。

飯高郡だけ飛地になってますね。ここも紀伊国の範囲なんですか?

そのようです!江戸時代においては和歌山藩の直轄地で、明治時代に入って廃藩置県が行われても飯高郡は和歌山県に編入されました。ただし、その後まもなく三重県に編入されたようです。
相模国の疫病
5月16日(丙午) 相模国(神奈川県)に疫病が発生した。薬を支給してこれを治療させた。
任官(左京大夫、大倭守など)
6月5日(乙丑) 従四位上大神朝臣高市麻呂を左京大夫に、従五位下大伴宿禰男人を大倭守に、従五位上引田朝臣広目を斎宮頭兼伊勢守に任命した。
左京大夫は、京(藤原京)の左半分(左京)の行政をつかさどる左京職の長官です。律令には次のように規定されています。
職員令
66 左京職
大夫一人。職掌は、左京の戸籍のこと。百姓を慈しみ養うこと。所部を監察すること。貢挙(官吏に適任な者を推薦すること)、孝義、田宅、民の雑徭(年間60日の労働)のこと。良民・賎民のこと。訴訟、市場、度量(長さや重さの計測)、倉庫、租調、兵士、儀仗、道路・橋、過所(関所)、闌遺(遺失物)、僧尼の籍のこと。(以下略)
大倭守は、大倭国(奈良県)の国守で、のち大和守に改称されます。

「倭」は古くから日本を指す語でしたが「倭」の字が雅でないとして「日本国」に改めたことが『旧唐書』東夷伝に記されています。大倭国ものちに大和国に改称されますが、これも同じ理由でしょう。

中国から見て周辺異民族は蔑んだ名前がつけられたんですよね。倭もやはりそうなのでしょうか?

どうやら「倭」に関しては必ずしもそうではないらしく、倭の字は「従順である」というのが語義であり儒教の精神に照らすと良い意味を持つようです。
「倭」の字は小人を指すという「悪字説」は江戸時代に始まったとのこと。
参考書籍など

コメント