
こんにちは、みちのくです☀️
大宝3年の下半期に突入します!

今回もよろしくお願いします♨️
大宝3年(西暦703年)現代語訳・解説
庚午年籍不改の詔

秋 7月5日(甲午) 詔に曰く「戸籍と計帳の作成は国家の重要な事業である。時を追って追跡調査をしなければ、必ず詐称や改ざんが起こるだろう。よって庚午の年【天智天皇9年】に作成した戸籍をもって定式とし、これを改め変えることのないようにせよ」と。
天智天皇9年(670年)当時は白村江の戦い(663年)で唐・新羅連合軍に敗戦し、同盟国の百済が完全に滅びるなど緊迫した国際情勢が続いていました。そのため、日本は国をあげて国防を強化し、人民からの税(租・庸・調など)により国力を向上させていく必要に迫られていました。
そこで、これらを実施するため日本全国の人口や世帯数、男女の別、年齢、良民賎民の別などを把握するため、初めて全国規模の戸籍が作られました。これを天智天皇9年(庚午年)に作られたので庚午年籍といいます。

大宝3年は庚午年籍が作られてから33年目ですね。

全国的な戸籍の初めとなった庚午年籍ですが、記載された戸籍の内容は当然ながら時間が経てば変わります。そのため律令(戸令)では6年ごとに再調査することとなっており、さらに5回分の戸籍(つまり30年分)を保存することとされていました。

その中で、最初につくられた庚午年籍は永久保存にせよとされたんですね。
理由は↑の引用に、詐称や改ざんの防止のためとありますね。でも古い戸籍は情報も古いのですから詐称などの防止になるのでしょうか…?

天皇中心の秩序を根底にする律令体制において、氏姓を定めてこれを序列化することは国家を安定させるために重要なことでした。そのため、身分についての訴えがあったときに証拠として用いることができるように、庚午年籍を最も古く信用できる戸籍として指定したのです。
氏姓…たとえば、「藤原」という一族名(氏)と、それに付属する朝廷での「朝臣」という姓がある。このふたつを合わせて「氏姓」と呼び、身分を定めている。

なるほど、世帯の人数や年齢などは変わりますが、氏姓で決められた身分は基本的にずっと変化しないものなので、庚午年籍に記載された情報が最も古い記録として、身分証明のよりどころになるわけですね💡
実際に、庚午年籍の記載を証拠に良人の身分を回復させた事例が『続日本紀』に記録されています。
『続日本紀』第6巻 元明天皇紀 和銅6年(713)5月12日(甲戌)
讃岐守正五位下大伴宿禰道足らが次のように言上した。「寒川郡の人、物部乱たち26人は庚午年以来良民とされていました。しかし、庚寅年(持統天皇4年(690))の改籍のときに誤って飼丁(交通馬や軍馬の飼育を担当した雑戸。官司に掌握され良民の扱いを受けられなかった)の籍に入れられてしまいました。乱たちに自ら調査させた結果、たしかに戸籍に誤りがあったことが明らかになりました。(中略)良民の籍につけることを要請します」と。
これを許可した。
なお、永久保存とされた庚午年籍は平安時代中ごろまでは現存していたようですが、以後は失われてしまいました。
任官(国守)
(続き)
従五位上大石王を河内守に、正五位下黄文連大伴を山背守に、従五位下多治比真人水守を尾張守に、従五位下引田朝臣祖父を武蔵守に、正五位上上毛野朝臣男足を下総守に、正五位下猪名真人石前を備前守に任じた。

国守は全員五位以上が任命されるんですね。
詔(調の半減、庸の免除、賢良方正の士の推挙)
(続き)
災異がしきりにあらわれ年穀が実らないことをもって、詔により京畿(大倭国の周辺国)及び大宰府管内の諸国の調を半減し、ならびに全国の庸を免除した。
また、五位以上に詔し、賢良方正の士(賢く善良で行いが正しい人物)を推挙させた。
律令施行後、日々の業務が激増し多くの官司で人手不足におちいっていたであろうことが想像されます。「賢良方正の士」おそらく、公文書の処理のため文章を理解し、文字を書ける人物が必要だったのではないでしょうか。
金光明経の読経
7月13日(壬寅) 四大寺に金光明経を読経させた。
金光明経とは、この経を読み君主が正しい政治を行えば、四天王をはじめとした仏教の守護神の加護を受け、国家が安らかに治まるとされた経典です。

のちに聖武天皇が、この金光明経の再翻訳版である「金光明最勝王経」を重宝し、全国にこの経典を根本とした国分寺と国分尼寺を建立することになります。

聖武天皇はまだ赤ちゃんなのでまだまだ先のお話ですね。
山火事と祈雨
7月17日(丙午) 近江国(滋賀県)に山火事が発生した。使者を送って名山と大川に祈雨を行わせた。

大規模な山火事となると、もう雨乞いをするしか手がないのですね…
贈位
7月23日(壬子) 従五位下民忌寸大火に正五位上を、正六位上高田首新家に従五位上を贈位した。並びに使者を送って贈り物を授けた。壬申の年の功績をもってである。
贈位とは、亡くなった人の生前の功績を讃えて特別に位階を授けることです。壬申の年の功績とはつまり、天武天皇元年(672)の壬申の乱で勝利に貢献したということです。
『日本書紀』天武天皇元年6月25日条によると、民大火は壬申の乱の際、東国に向け出発した大海人皇子(天武天皇)一行と、伊賀国で高市皇子(天武天皇の長子)と共に合流したことが記録されています。
高田新家は同条において、伊勢国鈴鹿郡で大海人皇子を出迎えたとされています。新家は、「湯沐令」という皇族の私有地の管理を行う職についていたようです。おそらく、鈴鹿郡には大海人皇子の領地があったのでしょう。

高田新家は天武天皇と領地を通じて結びつきが強そうですね。
任官(伊予守)
8月2日(辛酉) 従五位上百済王良虞を伊予守に任じた。
伊予国は現在の愛媛県です。百済王良虞は「郎虞」とも表記されます。

く、百済の王が伊予守に…?

百済は663年の白村江の戦いで完全に滅亡しているのですでに王はなく、「百済王」というのは姓であり、百済王の末裔ですね。
前回(大宝3年4月4日条)にも、同じく滅亡した高句麗王の子が「高麗王」の姓を授けられたという記事がありました。
王(こにきし、こきし)とは、古代朝鮮語の王を意味する「こんきし」から来ています。

百済最後の王、第31代義慈王の王子2人が日本に渡り、善光は百済滅亡後、持統天皇の時代に「百済王」の姓を授けられました。
善光の兄の豊璋は、百済復興戦争のさい王族として担ぎ上げられて帰国しましたが白村江の戦いで敗れ、高句麗に逃走したことが『日本書紀』に伝えられていますが、その後高句麗も唐に滅ぼされ、11世紀半ばに北宋で成立した『資治通鑑』によると、豊璋は唐に連行され辺境の地に幽閉されたとのことです。
大宰府にいる有勲位者の選叙について
8月4日(甲子) 大宰府が次のように要請した。「勲位のみを有し職務を持たない者は、番(シフト、当番のこと)を作って軍団に所属させ、散位(位階を持ちながら特定の職務に就いていない者)の例に準じて考課(勤務評価)が満了する日に式部省に送付して長く選叙(任官したり、位階を授けたりすること)の対象とすることを要請します」と。
これを許可した。
勲位は位階と同様、国から授けられるもので、勲一等から十二等までがありました。位階との違いは、主に軍功のある人物が叙勲された点です。しかし、勲一等は位階と対比すると、正三位レベルに相当するなど、位階に比べるとその地位は低かったようです。

そもそもあまり叙勲された事例が見当たりません…。
対象となる軍功、つまり軍事行動そのものが少ないから仕方ないのかもしれません。

壬申の乱に功績のある人が褒美をもらったという記事はしばしば見られますけど、そういう人にも叙勲はされていないんですね…?

そのようです。壬申の乱以外で直近の軍事行動というと、隼人の反乱がありましたが(大宝2年8月1日条)、叙勲があったという記事はありません。
これはただ、記録されていないだけだと思います。そうでなければ、今回の大宰府の要請が出されることはなかったでしょうから。
鉄穴を賜う
9月3日(辛卯) 四品志紀親王に近江国(滋賀県)の鉄穴を賜った。
鉄穴とは、砂鉄を採取するための施設です。砂鉄の混ざった土砂を崩し、それを川に流して砂鉄と土砂を分離して砂鉄だけを採取する「鉄穴流し」という手法が取られました。

採取された砂鉄は、たたらという炉で木炭を原料に加熱され、不純物である炭素を取り除いて製鉄されます。

鉄は農具、武器、工具、釘などの建築材料、金具、馬具など様々な用途に用いられました。ちなみに志紀親王は天智天皇の皇子で、今の皇室の直系のご先祖様です。

天智天皇といえば近江国の大津宮ですよね。
志紀親王に近江国の鉄穴が授けられたのも父親からの縁なのかも?
名前の表記は志紀親王のほか、芝基皇子、施基皇子と表記される場合があります。
任官(遣新羅大使)
9月22日(庚戌) 従五位下波多朝臣広足を遣新羅大使に任じた。

新羅とのかかわりはこの年の正月に国王の弔使が訪れたことが直近のできごとでしたね。

やはりこの時期は新羅との関係が密接みたいです。
僧侶に施捨
9月25日(癸丑) 僧の法蓮に豊前国(福岡県東部と大分県北部)の野40町を施捨(寺や僧侶に金品等を寄付すること)した。医術を褒めてのことである。
当時の僧侶は単に仏教だけでなくさまざまな専門知識を有していました。律令には官職としての医師がいましたが、その人材は特に地方においては乏しく、僧侶による医術が重宝されたことでしょう。
参考書籍など



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