
こんにちは、みちのくです☀️
今回は『続日本紀』文武天皇の即位前紀について解説していきます。

「即位前紀」…ですか?
即位前のことが書いてあるということですか?

はい、天皇の生まれや即位することになった経緯などが書かれています。
その天皇が即位した正統性を示す記述なので、歴史的にとても重要ですよ。

おお、これはしっかりおさえておきたいですね!☀️
第42代文武天皇 即位前紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文武天皇の出自
天之真宗豊祖父天皇(文武天皇)は、天渟中原瀛真人天皇(天武天皇)の孫で、
日並知皇子尊(草壁皇子)【後の天平宝字2年(758)に勅により「岡 宮 御 宇 天 皇」の尊称を贈られる】の第2子である。
母は、天命開別天皇(天智天皇)の第4女である、
平城宮御宇日本根子天津御代豊国成姫天皇(元明天皇)である。


あれ、いずみさん!?
いきなりルビが大量にふられた漢字ばかりで読みづらいですね。しかし、ここでは原文と本来の読みを重視してあえてこのまま記載しています。私たちが普段よんでいる天皇の名前は死後に臣下から贈られたもので、これを諡号、または諡といいます。
たとえば、「文武」や「天武」を漢風諡号といい、ルビに示した「あめのまむねとよおおじすめらみこと」を和風諡号(または国風諡号)といいます。日本古来の読み、すなわち和訓で名付けられたものです。
もちろん存命中の名前(本名)もあり、これを諱といいます。「いみな」はすなわち「忌み名」であり、天皇の名前を口に出して言ったり書いたりすることは大変はばかられました。なので天皇の本名というのは、特別な場合を除いてほとんどオモテに出てくることはありません。

ちなみに…文武天皇のご本名はなんとおっしゃるのですか?⭐️

(戻ってきた…)
文武天皇の諱は「珂瑠(かる)」といいます☀️
選ばれし者にふさわしい、みやびな響きがありますね!
文武天皇の系図

文章だけでは関係が分かりづらいと思いますので、系図で表すと以下になります。


あれ、文武天皇のお父様は天皇ではないんですね。
お母様が天皇…女性天皇ですね!

はい。文武天皇は母と祖母が天皇に即位しているんですね。
そこのところの事情は後述します。

文武天皇の人柄など
(つづき)
天皇は、天性の才覚をお持ちでありながら、寛仁(心が広く思いやりがあること)であらせられ、温和にして感情をお顔に表されることがなかった。博く経史をお読みになり、射芸(弓術)に優れておられた。
高天原広野姫天皇(持統天皇)の治世11年(697)に、立って皇太子となられた。

温和で落ち着きがあって、学問に打ち込まれた…理想の天子さまですね!
弓を引くときのりりしい横顔が目に浮かびます🧡

文武天皇は、このときまだ15歳の若者でした。
当時、15歳で天皇というのは前代未聞のことでした。

15歳!?ちょっとイメージしてなかったです!

しかも、当時は生まれた年を1歳とする「数え歳」でしたから、
今の数え方にすると実際は14歳ですね。
後の時代においてはより幼い天皇が多く登場しますが、697年当時、天皇に即位するためにはおおむね30歳以上でなければならないという不文律がありました。
というのも、本来天皇になるのは父親の草壁皇子だったのです。しかし、草壁皇子は皇太子になったものの、即位することなく亡くなってしまったのでした。
⭐️文武天皇が即位するまでの時系列
681年(天武天皇8年) 草壁皇子(19) 立太子(皇太子になること)
689年(持統天皇3年) 草壁皇太子(27) 死去
697年(持統天皇11年) 2月 珂瑠皇子(15) 立太子
同年 8月 珂瑠皇太子 即位
そのため、持統天皇は草壁皇子の遺児である、まだ年若い珂瑠皇子を代わって皇太子に立て、即位させることとしたのです。
30歳以上でなければ天皇になれないという、古来から続いてきた不文律を乗り越えるのは容易ではなかったでしょう。ひとえに、天武天皇の皇后であり、女帝・持統天皇の影響力の強さ、そしてそれをサポートした藤原鎌足の子、不比等の力添えが強力だったといえます。
もちろん、15歳の文武天皇が政治を行えるかといえば、それはやはり不可能なので、祖母であり先帝である持統太上天皇(上皇)の全面的な指導のもと、不比等の補佐のもとに行われていたことは間違いありません。

いろいろあったんですね(超ざっくり)
参考書籍など



次回予告

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