
こんにちは、みちのくです☀️
今回は『続日本紀』に書かれる文武天皇の即位前紀についてです。

「即位前紀」とは即位前のことが書いてあるということですか?

その通り。文武天皇の生まれや即位することになった経緯などが書かれています。即位の正統性を示す記述なので、とても重要ですよ。

これはしっかりおさえておきたいですね!☀️
第42代文武天皇 即位前紀
続日本紀 第1巻
続日本紀 巻第1
丁酉年(文武天皇元年、697)8月から庚子年(文武天皇4年、701)12月まで。
従四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子学士臣菅野朝臣真道らが奉勅し撰す。
天之真宗豊祖父天皇〈文武天皇 第42代〉續日本紀 巻第一〈起丁酉年八月盡庚子年十二月〉
從四位下行民部大輔兼左兵衛督皇太子学士臣菅野朝臣眞道等奉勅撰。
天之眞宗豐祖父天皇〈文武天皇 第卌二〉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
文武天皇の系譜
天之真宗豊祖父天皇(文武天皇のこと)は、天渟中原瀛真人天皇(天武天皇のこと)の孫で、
日並知皇子尊(草壁皇子のこと)【後の天平宝字2年(758)に勅により「岡 宮 御 宇 天 皇」の尊称を贈られる】の第2子である。
母は、天命開別天皇(天智天皇のこと)の第4女である、
平城宮御宇日本根子天津御代豊国成姫天皇(元明天皇のこと)である。天之眞宗豊祖父天皇,天渟中原瀛眞人天皇之孫,日並知皇子尊之第二子也。〈日並知皇子尊者。寶字二年有勅。追崇尊號。稱岡宮御宇天皇也。〉母天命開別天皇之第四女。平城宮御宇日本根子天津御代豊國成姫天皇是也。

何ですか?この呪文は…

いきなり漢字まみれですみません。
しかし、原文ではこのように書かれていますし、変えると固有の尊称の意味が失われるので、敢えて漢字まみれのものをそのまま「現代語訳」としています💦
文武天皇の系図

文章だけでは分かりづらいと思いますので、系図で表すと以下になります。


文武天皇のお父様は天皇ではないんですね。
お母様が天皇…女性天皇ですね!

はい。文武天皇は母と祖母が天皇に即位しているんですね。
そこのところの事情は後述します。
諡号について
私たちが普段呼んでいる天皇の名は、その死後に臣下から贈られた称号で、これを諡号、または諡といいます。たとえば、「文武」や「天武」を漢風諡号といい、「天之真宗豊祖父天皇」や「天渟中原瀛眞人天皇」を和風諡号(または国風諡号)といいます。和風諡号は、日本古来の読み、すなわち和訓で名付けられたものです。

諡(おくりな)ですか、死後に贈られた名前だから「贈り名」なんですね!
漢風も和風も「尊称」であり、在世中の事績や神聖性などを込めて、これを顕彰して贈られました。特に和風諡号はこの要素が強く、名前も長く荘重なものが多いです。
漢風諡号と和風諡号の例
| 漢風諡号 | 和風諡号 | 和風諡号の読み |
|---|---|---|
| 神武天皇 | 神日本磐余彦天皇 | かむやまといわれびこのすめらみこと |
| 仁徳天皇 | 大鷦鷯天皇 | おおさざきのすめらみこと |
| 天智天皇 | 天命開別天皇 | あめみことひらかすわけのすめらみこと |
| 天武天皇 | 天渟中原瀛真人天皇 | あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと |
| 文武天皇 | 倭根子豊祖父天皇/天之真宗豊祖父天皇 | やまとねことよおおじのすめらみこと/あめのまむねとよおおじのすめらみこと |
| 聖武天皇 | 天璽国押開豊桜彦天皇 | あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと |
和風諡号が2つある?文武天皇の諡号の謎

先ほどの表を見ると、文武天皇にだけ「倭根子豊祖父天皇」と「天之真宗豊祖父天皇」と2つの和風諡号がありますね??

そのようです。僕もここでまとめていて初めて気が付きました!
これは不可思議です。
まず、ここまで見てきた通り「天之真宗豊祖父天皇」が使用されているのは、この『続日本紀』第1巻の冒頭である文武天皇の即位前紀です。では「倭根子豊祖父天皇」が使われているのはどの場面かというと、第3巻の慶雲4年(707)11月12日(丙午)条の文武天皇の崩御と葬送儀礼の流れにおいて、諡号を奉じられたときでした。

つまり、「崩御された当時においては、『倭根子豊祖父天皇』が諡号だった」ということです。

ということは、後になって諡号が「天之真宗豊祖父天皇」に変わったということなんですか?
ここからは仮説になります。結論から言うと、ある時点において諡号が「倭根子豊祖父天皇」→「天之真宗豊祖父天皇」に変わり、『続日本紀』編纂もその変更後に行われたのだと思います。
『続日本紀』第1巻〜第3巻の文武天皇紀は比較的早い段階で草稿ができていたとされ、その時期は淳仁天皇の時(758-764。奈良時代中期)と推察されています(坂本太郎『六国史』)。淳仁天皇の時代は皇位継承の危機が絡んで政変が発生するデリケートな時代でした。

文武天皇の父であり、天皇に即位していない草壁皇子に「岡宮御宇天皇」と天皇号を贈ったのもちょうどこの時期です。
その流れにおいて、文武天皇の従来の諡号である「倭根子豊祖父天皇」を、神聖性を示す「天」と、皇統の正統性を強調する「真宗」を取り入れた「天之真宗豊祖父天皇」として重ねて顕彰したというのはあり得る話ではないでしょうか。

皇位継承の危機があったからこそ、正統性がより強調されたのですね
文武天皇の諱
当然ではありますが、存命中の名前(本名)もあり、これを諱といいます。「いみな」とはすなわち「忌み名」であり、天皇や貴人の本名を口に出して言ったり書いたりすることは大変強くはばかられました。なので天皇の本名というのは、特別な場合を除き、ほとんどオモテに出てくることはありません。

ちなみに…文武天皇のご本名はなんとおっしゃるのですか?⭐️

文武天皇の諱は「珂瑠(かる)」といいます☀️
どことなくみやびな響きがありますね!
文武天皇の人となり
(続き)
天皇は、天性の才覚をお持ちでありながら、寛仁(心が広く思いやりがあること)であらせられ、温和であり、感情をお顔に表されることがなかった。博く経史をお読みになり、射芸(弓術)に優れておられた。
高天原広野姫天皇(持統天皇のこと)の治世11年(西暦697年)に、立って皇太子となられた。天皇天縦寛仁。慍不形色。博渉經史。尤善射藝。
高天原廣野姫天皇十一年。立爲皇太子。

温和で落ち着きがあって、学問に打ち込まれた…理想の天子さまですね!
弓を引くときのりりしい横顔が目に浮かびます🧡

文武天皇は、このときまだ15歳の若者でした。
当時、15歳で天皇というのは前代未聞のことでした。

15歳!?ちょっとイメージしてなかったです!

しかも、当時は生まれた年を1歳とする「数え歳」でしたから、
今の数え方にすると実際は14歳ですね。
文武天皇の和歌と漢詩

和歌と漢詩により、文武天皇の人柄をよく知ることができます。以下に掲載しています。
和歌👉 大宝元年(701)2月20日(癸亥)
漢詩👉 文武天皇元年(697)8月1日(甲子)
文武天皇の即位事情
後の時代においてはより幼い天皇が多く登場しますが、697年当時、天皇に即位するためにはおおむね30歳以上でなければならないという不文律がありました。というのも、本来天皇になるのは父親の草壁皇子だったのです。しかし、草壁皇子は皇太子になったものの、即位する前に亡くなってしまったのでした。
⭐️文武天皇が即位するまでの時系列
681年(天武天皇8年) 草壁皇子(19) 立太子(皇太子になること)
689年(持統天皇3年) 草壁皇太子(27) 死去
697年(持統天皇11年) 2月 珂瑠皇子(15) 立太子
同年 8月 珂瑠皇太子 即位
珂瑠は文武天皇の諱(本名)
そのため持統天皇は草壁皇子の遺児で、まだ年若い珂瑠皇子を代わって皇太子に立て、即位させることとしたのです。
30歳以上でなければ天皇になれないという、古来から続いてきた不文律を乗り越えるのは容易ではなかったでしょう。ひとえに、天武天皇の皇后であり、女帝・持統天皇の影響力の強さ、そしてそれをサポートした藤原鎌足の子、不比等の力添えが強力だったといえます。
もちろん、15歳の文武天皇が政治を行えるかといえば、それはやはり不可能なので、祖母であり先帝である持統上皇の全面的な指導と、不比等(と近臣たち)の補佐のもとであったことは間違いありません。

いろいろあったんですね(超ざっくり)
参考書籍など


次回予告

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