元明天皇

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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅2年① 蝦夷征討軍の徴発と持節将軍の任命

平城京の造営が進められているさなか、突如越後と陸奥の蝦夷の征討軍が組織される。皇化に馴染まぬ夷狄が良民を害しているのだと『続日本紀』は伝えている。遠江、駿河、信濃、甲斐、越前、越中、上野など多数の国から兵を招集し朝廷はどうやら本気のようだ。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年⑤ 大嘗祭に臨む天皇、緊張感の中で歌を詠む

即位後、初めて11月を迎えた元明天皇。この月は天皇一世一代の重要祭祀である大嘗祭が執り行われる。天皇はこのときに御製を詠まれており、そのときの心境が天皇の姉である御名部皇女の答歌により推察することができる。天皇個人の感情を知ることのできる貴重な史料が今に残されていたのである。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年④ 平城京予定地、視察の旅へ

山の木々が色づき、涼風が吹き始める9月。元明天皇は即位後初の行幸に出発した。行き先は菅原、平城京の予定地である。ケガレの満ち満ちた藤原京から脱するため遷都は喫緊の課題であった。なんと(710)きれいな平城京遷都まで残り1年半。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年③ 和同開珎の銀銭・銅銭を鋳造 天皇、高官たちに訓示を下す

和銅改元が行われ、その記念硬貨と言うべき「和同開珎」はこの年の5月と7月に、銀銭と銅銭の鋳造がそれぞれ開始されるのであった。世にいう「皇朝十二銭」の魁である。貨幣そのものはこれより以前にも日本にはあったが、今回の貨幣は本格的な流通を目指していたと思われるが、実態はどうだったのだろう?
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年② 和銅の新体制、春の管理職人事。国防の要職に護衛武官を賜う

和銅に改元され、新しい天皇の時代が本格的に始動した。国政を主導する太政官の人事が行われ、元老と呼ばれるにふさわしい69歳の忠臣・石上麻呂が右大臣から昇進し首席として左大臣に任じられる。しかし、当時の政権の中心は麻呂と入れ替わりに右大臣に就任した藤原不比等だった…?
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅元年① 和銅改元、平城遷都の詔 -平城之地、四禽叶図、三山作鎮-

元明天皇が即位し、初めて年が明けた。正月の早々に東国の武蔵国から和銅が発見され、献上される。天皇はこれを大いに慶び、元号をそのものズバリ「和銅」と改めた。そして平城京への遷都の詔…。新たな御代が天からの賜り物が贈られると共に大きく動き出した。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 慶雲4年② 凡為政之道、以礼為先。全ての政道は礼を先とする

君主の代替わりは政変が起きやすいもの。そこで朝廷は新たに授刀舎人寮を設置した。これはのちの近衛府の原型組織であり、天皇や皇太子の側衛を担ったと思われる。そして元明天皇は官吏の綱紀粛正を図って改めて正しい礼法の徹底を命ずる。
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【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 慶雲4年① 元明天皇即位。史上唯一、子から母への皇位継承

文武天皇には皇子がいた…のちの聖武天皇である。しかし、未だ数えで7歳の幼少であり皇位を継承することは不可能であった。病に倒れた文武天皇は苦渋の中で母に譲位することを決断し、今際の際にあった天皇であり我が子を前にして元明天皇はやむを得ぬまま宝祚を受け入れる決断をしたのであった。