こんにちは、みちのくです。
今回は、文武天皇4年(700年)正月から3月までの記事をとりあげます。
新田部皇子や道照和尚などについて語っているよ☀️
よろしくおねがいします♨️
文武天皇4年(西暦700年)現代語訳・解説
万葉歌にみえる新田部皇子
春 正月7日(丁巳) 新田部皇子に浄広弍を授けた。
正月13日(癸亥) 詔があり、左大臣多治比真人島に霊寿の杖と輿を賜った。高年を優遇してのことである。
新田部皇子は天武天皇の皇子です。
天武天皇の子供たちがつぎつぎ亡くなっていく中、新田部皇子は長生きしました。
のちには、皇子の子である道祖王が皇太子に定められたり、同じく子の塩焼王が皇位継承者として担ぎ上げられたりなど、奈良時代に頻発した政争に巻き込まれていくことになります。
この前、同じ名前の人が出ていませんでしたっけ?あれ?亡くなってたような…?💦
前年に亡くなった人は「新田部皇女」ですね。
前年に亡くなった「新田部皇女」という人がいますが、名前が同じなので当時どう呼び分けていたのか少し気になります。昔は男女が同じ場所に集まること自体が少なかったでしょうから、そこはあまり問題にならなかったのかもしれません。
『万葉集』に皇子のことを歌った和歌がありますので、紹介します。
万葉集 巻第16 由縁有る雑歌 3835番歌
新田部親王が宮の裏に遊びに出かけられた。勝間田の池をご覧になって、御心の内にとてもお気に召された。
池からお帰りになってからも興奮冷めやらず、婦人に次のように語られた。
「今日、勝間田の池を見た。水影がとうとうと絶え間なく流れ、蓮花が灼灼と照り輝いていたんだ。あまりの愛らしさに感動して、言葉が出なかったよ」と。
そこで、婦人はたわむれに次の歌をつくり、声を上げて詠んだ。勝間田の池は我れ知る蓮なし しか言う君が鬚なきごとし
(現代語訳)
勝間田の池には蓮なんてないこと、私は知っていますよ。そんなことを言うあなたにおヒゲがないのと同じようにね。
蓮の花はなかった?どういうことです!
あれれ〜?おかしいぞ〜?
夫人は、皇子が見たのは花ではなく、蓮のように美しい女性を見たのでしょう?とからかったのです。蓮(レン)のことばから恋(レン)を引き出し、女性の気配を見抜いたのでしょう。
皇子はきっと立派なヒゲをたくわえていたのだと思います。
その皇子が「『自分にはヒゲがない』などと、一目でわかるウソを言っているようなものですよ」と、婦人はたわむれに歌ったのです。
嘘を見抜く力が強すぎて怖いです…
あるいは、皇子の態度があまりにも「きれいな花を
見てきた」人の態度ではなかったのかもしれません。
2月5日(乙酉) 上総国司が、安房郡の大領・少領に父子・兄弟をつらねて任命することを要請してきたので、これを許可した。
2月8日(戊子) 丹波国に錫を献上させた。
大領は、郡司の長官で、少領は次官です。
郡司の任命は、国司が行っていたものと思われますが、郡司はその土地の実力者(豪族)の世襲により代々地位が継承されるのが慣習になっていました。
ここにおいて安房郡は、上総国司の要請が許可されたことで、一族で郡を治めることを国家公認とさせたことになります。
2月19日(己亥) 越後・佐渡の2国に石船柵を修理させた。
2月22日(壬寅) 巡察使を東山道に派遣して、非法・違法を検察させた。
2月27日(丁未) 重ねて王臣・京畿に勅を下し、戎具を備えさせた。
2年前(文武天皇2年・698年)の12月21日にも石船柵の修理が行われました。
戎具とは、兵器・武器のことをいいます。巡察使の派遣は、前年から数えて今回で3度目になります。
2月の下旬は今でいう4月の頭ころなので、東国の雪解けも進み、再び蝦夷対策を始めたということでしょう。
最後に、長い記事ですがお付き合いください。
道照という偉大な僧侶の人物伝です。
道照…どうしよう…ンフッ
道照の出自、逸話
3月10日(己未) 道照和尚が物化(死去)した。天皇は、甚だこれを惜しみ悼み、使いを遣わして弔いの品を贈った。
和尚は、河内国丹比郡の人である。俗姓は、船連であり、父の恵釈は、少錦下である。和尚は、戒律をよく守り修行を怠ることがなかった。もっとも忍辱を尚んだ。
かつて弟子が、和尚の本性を見極めようとして密かに便器に穴を開け、ここから漏れ出た汚物により、布団を汚した。しかし、和尚は微笑して「いたずら小僧が人の寝床を汚したな」と言うだけで、ついに他には何も言わなかったという。
便器に穴!?いたずら小僧のレベルをはるかに超えてます!
道照和尚の名僧たる所以というわけですね☀️
道照(または道昭)は法相宗の僧です。出家前は船氏で、その名の通り造船に携わった氏族です。
和尚は、僧侶に対する敬称であり「わじょう」、「おしょう」、「かしょう」などの読みがありますが、全て使い分けられていて、法相宗の場合は特に「わじょう」と読みます。
死を意味することばは多くありますが、「物化」は「天命を終えて死ぬ」という意味が込められています。
忍辱とは、迫害や侮辱からの精神的苦しみを耐え忍び、他者に対して寛容になることを目指す修行です。「いたずら小僧が人の布団を汚したな」の逸話も、この忍辱の業が身についていた証明といえるでしょう。
玄奘三蔵との出会い
(続き)
孝徳天皇の白雉4年(653)に、遣唐使に従って唐に入国した。たまたまそこで玄奘三蔵に会い、これを師として修行した。三蔵は道照を特に愛し、同じ部屋に住まわせた。
三蔵は「私は昔西域に行き、道中で飢えに苦しんでいたが、食を乞う村もなかった。しかし、そこに1人の沙門(僧侶)が現れ、手に持っていた梨を食べさせてくれた。私はこれを食べてからというもの、日に日に気力が満ち健康になった。お前は、この沙門と同じだ」と語った。
また、さらに言うことには「仏の経典は深妙で難解であり、完全に究めることは不可能だ。お前はむしろ禅を学んで東土(日本)に伝えてはどうか」と。
和尚は教えを受け、初めて禅行を習った。これから学び悟ることがとても多かった。
三蔵…ってもしかして、あの有名な三蔵法師さんですか!?
実在の人物だったんですね…!
いかにもです。西域、つまり天竺まで行ってきたのも
フィクションではなく実話なんですね。
道照さん、三蔵法師さまにとっても気に入られてますね✨
ここでもやはり、道照和尚の人柄がいかに優れ、愛される人だったかが分かりますね☀️
三蔵というのは偉大な僧侶に対する敬称であり、三蔵法師とはいわば称号です。玄奘というのがあの「三蔵法師」の固有の名前となります。
玄奘は、『西遊記』の通り天竺(インド)に到達して経典を唐に持ち帰るという使命を果たしました。時に西暦645年、日本ではちょうどあの「大化の改新」のときのことでした。
玄奘三蔵との別れ、そして帰国
(続き)
のちに、道照は遣唐使に従って帰国するにあたり、玄奘との別れに臨んだ。
玄奘は持っていた舎利・経典をすべて和尚に授けて、
「今、『人能く道を弘む』という言葉をお前に贈る」
と言い、さらにひとつの鍋を授けて、
「この鍋は西域から私が持ち帰ったものだ。これで調理すると、神験により病を治すことができる」
ここにおいて和尚は、玄奘を拝し、礼を言い、声を上げて泣いた。
港がある登州に到ったとき、大勢の遣唐使が病気となった。和尚は鍋で水を温め粥を煮て、みんなにふるまったところ、その日のうちに病気を治してしまった。
纜(船を固定する綱)を解き、風にしたがい唐を出発したものの、船が海上で漂い進まなくなることが七日七夜もつづいた。
人が怪しんで「よい風が吹いており、もう本国にたどり着いてもよさそうなものなのに、未だに到着できないということは、これは何らかの神意があるに違いない」と言った。
そこで占い師が言うに「龍王が鍋を欲しがっているのであろう」と。
和尚「この鍋は三蔵が施してくれたものだ。龍王は何故にこれを求めるのか!」
船員たち「しかし、今この鍋を惜しんでいたら、船が龍に食われてしまいます!」
やむなく鍋を海中に投げ入れたところ、船が進み出して無事に帰国することができた。
道照さん、めずらしく取り乱してますね。
さすがの和尚も、三蔵からいただいた鍋を手放すのはつらかったでしょうね。
「人能く道を弘む」とは『論語』中の孔子の言葉で、これには続きがあります。
「人能く道を弘む。道、人を弘むるに非ず。」
→「人が道(道徳)を広めるのであり、道が人を広めるのではない。」
すなわち、「道徳や規範とは、人が努力によって高めていくものであり、道徳そのものが人格を高めるものではない。」
玄奘は道照に、唐で学んだことを日本で活かし、道を道照自身の努力で広めていってほしいと餞の言葉を贈ったのでした。
国家の公共事業に励む、そして不思議な晩年
(続き)
和尚は、元興寺の東南の隅に、禅の院を建ててそこに住んだ。時に、天下の修行者たちが和尚に師事して禅を学んだ。
のちに全国を周遊したとき、道ばたに井戸を掘り、ところどころの港に船をもうけ、橋をつくった。山背国(京都府)の宇治橋は、和尚のつくったものである。
全国を周遊すること10年余りになったころ、勅により請われ、禅院に還った。もとのように坐禅をすること、3日に一度立ち上がり、あるいは7日に一度立ち上がるという様子であった。
ある日、にわかに香気が和尚のいる部屋からただよい、弟子たちが驚き怪しんでうかがうと、和尚は縄床に座ったまま息を引き取っていた。時に72歳であった。
弟子たちは遺言に従って栗原の地で火葬に付した。天下の火葬の習慣はこれから始まったのである。世が伝えていうに、火葬が終わったあと、親族と弟子たちが相争って和尚の遺骨を納めようとしたとき、たちまちつむじ風が吹き、これをどこかに吹き飛ばしてしまったという。時の人はこれを怪異として語り合った。
のちに都が平城京にうつったとき、和尚の弟と弟子たちは、禅院を新京に移し建てることを奏聞した。今の平城京右京の禅院がこれである。この院には経典が多くあり、その筆跡は手本のように誤りがない。すべて、和尚が唐から将来してきたものである。
息を引き取ったときに香気が…?ふしぎですね
死を悟った和尚がその死の直前にお香を焚いたということでしょうか。
それにしても、当時のお坊さんは船をつくったり橋をかけたり…
いろんなことをするんですね。
道照は船氏という出自ですから、ノウハウがあったのでしょう。
それに僧侶は聖職者でありつつも学問を追求する人たちでもあったので、仏教のことだけを勉強していたわけではないのですね。
道照の、もと船氏としてのノウハウは、遣唐使船に乗船したときにも発揮されたかもしれません。
この道照和尚の記事は、『続日本紀』で最初の列伝(人物伝)です。
前作にあたる『日本書紀』には列伝はなく、国家として初めての試みということになります。
日本における火葬のはじまりが伝えられているのも重要で、非常に貴重な記事です。
参考書籍など
次回予告
道照さんのすてきなお人柄、三蔵法師や、不思議なお鍋のこと…今に伝わる宇治橋のことなど、当時から現代までのつながりまで感じられて楽しかったです!
次回は、文武天皇4年(700年)3月〜12月までの記事をとりあげます。
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