【現代語訳】続日本紀 元明天皇紀 和銅6年④ 各国から献上される鉱物。きらら、水銀、白石英…

元明天皇紀(708-715)
みちのく
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こんにちは、みちのくです☀️
今回は鉱物資源が古代の日本でどのように利用されていたのかについてです!

いづみ
いづみ

和同開珎は銅から作られていますし、貨幣も鉱物由来の製品ですよね♨️

みちのく
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鋭いですね!和同開珎の原料は銅だけではなく鉛やすずとの合金ですが、まさに鉱物を利用したものです。これだけを見ても鉱物は国家運営に欠かせない素材となっていました。




和銅6年(癸丑・西暦713年)5月 現代語訳・解説

諸国の調の物品の変更

相模など5カ国に布と絁を献上させる

絁(正倉院宝物)

5月11日(癸酉みずのととり) 相模さがみ(神奈川県)常陸ひたち(茨城県)上野こうずけ(群馬県)、武蔵(東京都、埼玉県、神奈川県の一部)下野しもつけ(栃木県)の5カ国の調は元来、布を輸納しているが、今後はあしぎぬ(目の粗い絹)と布を貢進することとする。

相摸。常陸。上野。武藏。下野。五國輸調。元來是布也。自今以後。絁布並進。

 献上物が布だけでしたが、これに絁が追加されました。単純な負担増を強いてまで行わせるということはそれだけ絁の需要が大きかったということです。また、これら5カ国がすべて東国であるということにも注目できます。

大倭など13カ国に新たに鉱石を献上させる

(続き)

 また、大倭やまと(奈良県。のちの大和国)参河みかわ(愛知県中東部)雲母きららを、伊勢(三重県の大部分)水銀みずがねを、相模は石硫黄いしいおう白樊石はくばんせき黄樊石おうばんせきを、近江おうみ(滋賀県)慈石じしゃくを、美濃(岐阜県南半部)青樊石せいばんせきを、飛騨(岐阜県北半部)と若狭(福井県西部)は樊石を、信濃(長野県)は石硫黄を、上野こうづけ金青こんじょうを、陸奥は白石英はくせきえい・雲母・石硫黄を、出雲は黄樊石おうばんせきを、讃岐は白樊石を貢進することとする。

又令大倭參河並獻雲母。伊勢水銀。相摸石硫黄。白樊石。黄樊石。近江慈石。美濃青樊石。飛騨。若狹並樊石。信濃石硫黄。上野金青。陸奥白石英。雲母。石硫黄。出雲黄樊石。讃岐白樊石。
みちのく
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とても多様な鉱物が献上されました。少々複雑なので表にまとめます。

まとめ表 献上された鉱物とその用途(推定)
献上された鉱物国名予想される用途
雲母(きらら、うんも)大倭国装飾材・顔料・パール光沢表現、薬用
参河国同上
陸奥国同上
水銀(みずがね、すいぎん)伊勢国赤色顔料の原料、薬用、鍍金
石硫黄(いしいおう)相摸国薬用、防虫、工芸、黄色系顔料の原料
信濃国同上
陸奥国同上
白樊石(はくばんせき)相摸国染色の媒染剤、薬用。ミョウバン
讃岐国同上
黄樊石(おうばんせき)相摸国染色補助材、薬用
出雲国同上
樊石(ばんせき)飛騨国染色補助材、薬用
若狭国同上
青樊石(せいはんせき)美濃国染色補助材・薬用
慈石(じしゃく、じせき)近江国薬用、
金青(こんじょう)上野国青色顔料、仏像・仏画・装飾彩色
白石英(はくせきえい)陸奥国薬用、儀礼、装飾、祭祀

何に使われたの?

いづみ
いづみ

まとめてもらった表によると、塗料の原材料に使われたみたいですね。

みちのく
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いくつか解説していきます。

雲母(うんも、きらら)

大倭、参河、陸奥から献上

雲母 金属光沢のある鉱石。「きらら」という名称もその光沢の輝きからきている
画像:コトバンク
いづみ
いづみ

きらら、いい名前ですね✨

 雲母は真珠のような光沢、つまりパール色が特徴の鉱石です。このことから、荘厳さを出すために仏像・仏具・寺院の装飾などの光沢に使われた可能性が高いです。英語では「マイカ(mica)」といい、自動車のパール光沢のあるボディカラー名に「パール・マイカ」と名付けつけられることも多いですね。

みちのく
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和銅6年は平城京遷都後まもない時期で、国家としての寺院造営・荘厳さの演出・儀礼空間の整備が進んでいく時期ですから、雲母をはじめとした装飾や塗料の原料が調として求められたのはとても納得がいく話です。


 また一方、雲母は神仙思想(修行・薬・特殊な術によって、不老長寿の「仙人」になれると考える思想)において仙薬的に扱われることもあり、薬物・霊的素材としての認識もあったようです。



水銀(すいぎん、みずがね)

伊勢から献上

水銀 常温で液体の金属。この外見から当時の人が神秘性を覚えたのは理解できる
画像:Wikipedia

 水銀の用途は複数考えられます。

金を溶かし液化させる(金合金法)

 水銀には常温で金と混ざり合う(合金化)特殊な性質があり、これを利用して金色の塗料を精製することができました。

みちのく
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東大寺の大仏の表面にもこの製法で作られた金塗料が塗られました。

いづみ
いづみ

常温で、ということは金を高熱で溶かす必要がなく、水銀で簡単に金を液化させることができたということですね。これはすごいです

赤色塗料の原料に
辰砂 水銀と硫黄を合成させ、硫化水銀となると赤色となり、赤色塗料の顔料となる
画像:Wikipedia
いづみ
いづみ

宝石みたいできれいですね✨
水銀と硫黄を合わせるとこうなる…化学は不思議ですね

みちのく
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赤色塗料の原料として使われ、辰砂しんしゃまたは朱砂すさといい、日本ではと呼ばれました。

 奈良・平安時代の建築や仏像において赤は単なる装飾ではなく、複数の意味を持っていました。赤色はもともと古墳時代から邪気を払う神聖な色とされており、古墳の石室内部に朱砂が撒かれた例は全国に多数あります。朱塗りの建築はその延長線上にある「聖なる空間」の表現でした。
 また、実用的には、硫化水銀には防腐・防虫効果があり、木材の保護にも役立っていました。朱塗りは見た目の華やかさと実用性を兼ね備えていたわけです。

薬用として

 そんな万能感のある「水銀」ですが、現代感覚においては「危ない」「怖い」というイメージがあると思います。

みちのく
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その感覚はその通りで、歴史上において水銀による健康被害は世界中にみられます。

いづみ
いづみ

水俣病の原因になったのは「メチル水銀」でしたね。学校で習いました

秦の始皇帝

 最も有名なのは秦の始皇帝です。不老不死を熱望し、水銀を含む仙薬を飲み続けたとされています。さらに彼の巨大な陵墓の地下には、水銀で作った川や海が広がっていたと『史記』に記されており、実際に現代の調査で陵墓周辺の土壌から異常に高い水銀濃度が検出されています。始皇帝の晩年の異常な言動や早死にも、慢性的な水銀中毒と関係していた可能性があります。

『史記』本紀・秦始皇本紀より
原文:以水銀為百川江河大海、機相灌輸。上具天文、下具地理。

書き下し文:水銀を以て百川江河大海を為し、機 相灌輸す。上に天文を具え、下に地理を具う。

現代語訳:水銀によって無数の川・大きな川・大きな海を作り、機械仕掛けで水銀を流し循環させた。天井には天文(星空)を表し、床には地理(山河)を表した。

みちのく
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水銀の川や海…本当だとしたら始皇帝の水銀信仰は振り切れてますね…

「金液丹」を服用して視力を失った三条天皇

 平安時代後期に成立した歴史物語『大鏡』には、三条天皇が医師が制止も聞かずに「金液丹」という硫化水銀を原料にした薬を服用したところ視力を失ったという話があります。

いづみ
いづみ

医師の制止があったということは、毒性に気付いていた人もいたんですね。

みちのく
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それでも敢えて使ったということは、それだけ強固な水銀信奉があったということでもあるわけです。薬と信じて飲んでいたものは猛毒だったというのは重すぎる皮肉ですが…。

 先に挙げた、金を溶かして塗料を作る製法でも、その過程において水銀が蒸気として大量に発生し、その蒸気を吸い込んだ職人たちが慢性的な水銀中毒になったことが容易に想像されます。奈良の大仏の鍍金作業でも多くの職人が犠牲になった可能性が指摘されています。

ヨーロッパでも

 ヨーロッパでは水銀は梅毒の治療薬として16〜19世紀に広く使われました。塗り薬や吸入という形でしたが、やはり水銀中毒の症状(歯の脱落・神経障害など)を引き起こしており、「治療が病気より辛い」と言われるほどでした。



石硫黄(いしいおう)

相模・信濃・陸奥から献上

天然に産出される硫黄を「自然硫黄」といい、石硫黄もこれと同じか
画像:Wikipedia

皮膚疾患への外用

 石硫黄の用途は薬用だったと考えられます。硫黄には殺菌・角質の柔軟化・皮脂分泌抑制という3つの効果があり、これは現代医学でも認められています。本草学(薬になる動植物・鉱物を研究する学問)では、皮膚の痒みなどに対して硫黄の効能が多く記載されていました。硫黄を油脂と混ぜて患部に塗る方法が一般的だったとされます。
 日本は火山国という地理的条件もあり硫黄の産出は豊富で、温泉による皮膚病への効能が硫黄への信頼を裏付けていた可能性があります。実際、硫黄泉は現代でも皮膚病・慢性皮膚疾患への効能が認められています。

いづみ
いづみ

とても鮮やかな黄色ですが、顔料としては使われなかったのですか?

みちのく
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硫黄は加熱や光で変質しやすいため顔料には不向きでした。ただし、ヒ素と硫黄が結合した「雄黄おおう」と呼ばれるものがあり、こちらは顔料に使用されたようです。

各種の樊石(ばんせき)

相模、讃岐、出雲、飛騨、若狭、美濃から献上

(ミョウバン) 一連の鉱物の中では最も一般的かもしれない

 白樊石、黄樊石、青樊石と色のバリエーションが多いので顔料として使われそうですが、樊石は一般に水溶性が高く、水や湿気で溶け出してしまうため、顔料としての定着性に難があるようです。色鮮やかではあるものの、顔料ではなく媒染剤や薬用の用途が主流だったと考えられます。

 白樊石は明礬(ミョウバン)ともいい、現代においてはこちらの名前の方が一般的です。用途も多様であり、古代では染料を繊維に定着させるために使われる媒染剤として、現代ではそれに加えて食品加工(例えば、アク抜き、ナスの漬物の色止めなど)、殺菌剤、消臭剤、制汗剤などにも利用されています。

みちのく
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よって、古代においても薬用として利用されていた可能性があります。
ちなみにミョウバンは小学校の理科の授業で実験に利用されることもあります。

いづみ
いづみ

「ミョウバン」ってなんだか聞き覚えがあるなぁと思ったら小学校の授業で登場するんですね♨️

慈石(じせき、じしゃく)

近江から献上

磁鉄鉱(黒い部分が磁力を帯びた天然磁石)
画像:planetscope(https://planet-scope.info/rocks/minerals/magnetite.html

 慈石は磁石と同じもので磁石の古表記です。なぜ「慈」なのかというと、鉄を引き寄せる性質から、「母が我が子を慈しんで抱き寄せる様子を思わせるから」という説が古くから伝わっています。

 現代の我々は「磁力」で鉄が引き寄せられることを知っていますが、古代の人は「目には見えない神秘的な力」として認識されていたはずです。この神秘性から薬用の用途となり、また、珍奇品、祭祀の奉納品、占術的用途などに用いられた可能性もありそうです。

いづみ
いづみ

慈愛のある石のイメージがあったんですね。古代の人の想像力はすごいです



金青(こんじょう)

上野から献上

金青は銅を主成分とする鉱物で、藍銅鉱ともいい、英語では「アズライト」という
画像:Wikipedia

 金青は、藍銅鉱らんどうこうを原料とする青色顔料と考えられます。これを砕いて粒度を調整することで、濃い青から淡い青までの岩絵具として用いられたようです。仏像・仏画・寺院装飾などの彩色に関わる重要な顔料であったとみられます。

いづみ
いづみ

彩色に使われる原料も貴重な鉱物由来。使うのがもったいなさそうです

白石英(はくせきえい)

陸奥から献上

石英の結晶化したもの(水晶)。英語では「クォーツ」という
画像:Wikipedia

 石英は普遍的な鉱物の1つで、川原や砂浜の砂にも普通に含まれており、日本において決して珍しいものではありません。それでもあえて(しかも遠方の陸奥から)献上させている背景としては、いくつかの理由が考えられます。

 白色・透明という特殊性として、「白石英」と記されていることが重要で、純白の石英は同じ石英であっても産地や品質にばらつきがあり、薬用・儀礼用として良質なものが求められた可能性があります。特に純粋で透明度が高いものは「水晶」と呼ばれます。

いづみ
いづみ

水晶…。これを指して「白石英」と言っていたのかもしれませんね。

 正倉院宝物にも白石英が収蔵されています(宮内庁のサイトへ移動します)。

みちのく
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古代中国で生まれた、薬になる動植物・鉱物を研究する「本草学」には白石英は強壮・不老の薬と位置付けられています。

 このことから石英、特に透明度が高い「白石英」は、「ありふれた石」という認識より「霊験ある薬物」という認識が優先されていたのでしょう。それをわざわざ陸奥から献上させるということは、「陸奥」という産地のブランドがあり、未だ未開の異境である陸奥からもたらされるものに特別な霊力を感じていた可能性もあります。

いづみ
いづみ

水晶は今でも心を映すスピリチュアルなイメージとしても語られますよね✨



過去の献上事例

 『続日本紀』においては、過去にも白樊石、金青、朱砂、雄黄が献上された記録があります。

文武天皇2年(698)6月8日(丙申ひのえさる 近江国が白樊石を献上
同年9月28日(乙酉きのととり 近江国など9カ国が金青など鉱石由来の顔料を献上

戸籍の誤りを訂正する

5月12日(甲戌きのえいぬ) 讃岐守さぬきのかみ正五位下大伴宿禰道足おおとものすくねみちたりたちが次のように言上した。「国内の寒川郡の人である物部乱もののべのみだるたち26人は、庚午かのえうまの年(天智天皇9年(670))以来すべて良人とされていました。しかし、庚寅かのえとらの年(持統天皇4年(690))の改籍のときに誤って飼丁してい(馬の飼育を行う戸)の籍に入れられてしまいました。そこで、乱たち自らに調査させ理を求めさせたところ、支証(物事の事実認定の裏付けとなる証拠)により事情は明らかになりましたが、その後も本来の籍に附けられないままとなっていました。それゆえに、皇子命宮みこのみことのみやの飼丁を検括けんかつ(点検・調査して把握すること)する使者は、乱たちを飼丁と誤認してしまいました。道理において斟酌しんしゃく(事情を汲み取って推察すること)するに、どうしてこれを憑據ひょうきょ(根拠)とすべきでしょうか。よって、乱たちを良人とすることを要請します」と。
 これを許可した。

讃岐守正五位下大伴宿祢道足等言。部下寒川郡人物部乱等廿六人。庚午以來。並貫良人。但庚寅校籍之時。誤渉飼丁之色。自加覆察。就令自理。支證的然。已得明雪。自厥以來。未附籍貫。故皇子命宮検括飼丁之使。誤認乱等爲飼丁焉。於理斟酌何足憑據。請從良色。
許之。

 飼丁は左右馬寮という官司において馬の飼育を行う「雑戸ざっこ」であり、「良人ではあるが、奴婢ではない、身分秩序の下層に置かれたもの」という立場でした。

 物部乱(もののべ の みだる)たち26人は、庚午かのえうまの年、つまり初めての全国的な人民戸籍である「庚午年籍こうごねんじゃく」を造ったときには良人に登録されていたところ、その後の庚寅かのえとらの年に造った新たな戸籍「庚寅こういん年籍」のときに誤って飼丁に編入されてしまったというのです。

 そのため、乱たちは自ら戸籍の誤りを証明し、それが認められたにもかかわらず、依然として戸籍は修正されないまま放置されていたのでした。その結果、皇子命宮(皇子の住居)の馬を検査する使者がやってきたときに、その使者が乱たちを飼丁と誤認してしまったのです。

みちのく
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このように、戸籍の不備を放置し続けた結果、中央からの使者を誤認させるという実害が出てしまったわけですね。

いづみ
いづみ

これは郡司か国司の責任でお咎めがあるのでは…

 ちなみに「皇子みこのみこと」は誰かというのは不明ですが、「皇子命」と呼称されるのは草壁皇子と高市皇子の2名だけ(いずれも天武天皇の皇子)とされていますので、このいずれではないかと言われています。



初めて乳牛戸を指定

ホルスタイン乳牛が日本に入ってくるのは明治以降

5月25日(丁亥ひのとい) 初めて山背国(京都府南部。後の山城国)に乳牛戸として50戸を指定させた。

始令山背國點乳牛戸五十戸。

 乳牛戸、すなわち乳牛の飼育を生業にさせるために設置された戸(世帯)です。

いづみ
いづみ

この時代にも乳牛っていたんですね。

みちのく
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白黒のホルスタイン牛はいませんでしたが、乳牛そのものはいたようです。実際、律令の職員令には、宮廷の医療をつかさどる典薬寮という役所に「乳戸」を置く規定があります。

いづみ
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医療関係の役所の管轄というのが興味深いですね。当時は乳製品が薬用として用いられたということでしょうか。

みちのく
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薬用としても、高級な栄養食としても食べられていたようで、平安時代には天皇の食膳にも牛乳が上がっていました。また牛乳を煮詰めて濃縮した「」という濃厚な乳製品があり、正月には大臣以下高官たちに天皇から蘇の下賜があったのだとか。

蘇(復元品) Wikipediaより
いづみ
いづみ

今のホルスタイン乳牛みたいに、牛乳をとるために特化した牛じゃなかったから、牛の乳は貴重な高級品だったんですね。滋養強壮にも効果があり、新年を祝う正月料理にぴったりです。




まとめ

みちのく
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和銅6年5月の記事は、朝廷が諸国の鉱物資源を把握し、薬用・顔料・装飾・儀礼などに活用しようとしていたことを示していますね。前回の風土記編纂命令とあわせて見ると、律令国家が地方の産物を体系的に把握して租庸調の納入に活用しようとしていることがうかがえます。

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