
こんにちは、みちのくです☀️
今回は丹後・美作・大隅の3つの国が誕生します。当時の「国」とは今でいう都道府県の感覚に近い単位です。

丹後も美作も大隅も、現代の地名にもしっかり残ってますよね。歴史の繋がりを感じます♨️
和銅6年(癸丑・西暦713年)現代語訳・解説
丹後国、美作国、大隅国の設置など
丹波国から丹後国が分立
夏 4月3日(乙未) 丹波国の加佐、与佐、丹波、竹野、熊野の5郡を割いて、初めて丹後国を置いた。
割丹波國加佐。與佐。丹波。竹野。熊野五郡。始置丹後國。


丹波国の北部にある5郡が分割され、新たに丹後国として成立しました。
理由1 海上交通の特色

なぜ分立したのでしょうか?

丹波国北部の日本海側を、中央がより直接に把握したかったからだと思います。
国を新たに建てるということは、新たに国の政庁(国府)を置き、そこに中央から国司を赴任させるということです。丹波国は広く、しかも山の向こうの日本海側は中央も実態を把握しづらい実情があるでしょう。

なるほど…これは少し前の、陸奥国の郡を出羽国に所属させた時もそうでしたね。
和銅5年(712)10月1日(丁酉)陸奥国の2郡を出羽国に分割する

また、丹後地域は日本海側という地理的性質から、古来より海上交通において独自の交通・交流圏があったようです。このことから交易や外国使節の対応、防衛などにおいても重要な位置にありました。なので丹後地域を丹波国という塊でおさえるよりも、丹後国として分国する方が合理的だったのでしょう。

丹後は辺境というわけでもなく、都にも比較的近い位置にありますし、防衛に関しては中央の直接把握は重要ですよね。
理由2 調の納入物品の管理のしやすさ

さらに、調の貢納品として日本海側の国らしく烏賊(イカ)が定められており、木簡資料により、魚・海藻・鮭・造酒用の米も運ばれていたことが分かっています。海産物は鮮度が大切で、手早く都まで送り届ける必要があるため、丹後国分立により管理が行き届きやすくする必要があったと考えられます。

地図を見ると、分立前の丹後地域の人にとって丹波国の国府は位置的にかなり遠いですよね。丹後国を建てて、その国府に物資を集積した方が合理的ですし、人民の負担も大きく軽減できるはず。
参考:菱田哲郎「律令国家のなかの丹後国」『第135回埋蔵文化財セミナー資料 丹後国独立!?―遺跡が語る古代の丹後―』2017年
上原眞人「丹後国“分立”の意義」『京都府埋蔵文化財論集 第8集』2021年、237―250頁
備前国から美作国が分立
(続き)
備前国の英多、勝田、苫田、久米、大庭、真嶋の6郡を割いて、初めて美作国を置いた。
割備前國英多。勝田。苫田。久米。大庭。眞嶋六郡。始置美作國。


備前国の北部6郡を分割して、新たに美作国が建てられました。
理由1 南北の地理的条件の違い

「みまさかのくに」ですか、なんだか響きが柔らかくていい名前ですね。
こちらはどういった理由で分立されたのでしょう?

備前国から分立したのは、一言で言うと、備前国の北部と南部では地理条件がかなり違っていたからだと思います。備前の南部は海に面し、都を西国へ繋ぐ大路と共に発展する一方、美作地域は四方を完全に山に囲まれた内陸地形であり、物資輸送も困難を極めたようです。
実際、『続日本紀』神亀5年4月15日条には、次のようにあります。
『続日本紀』神亀5年(728)4月15日(辛巳)条
美作国が次のように言上した。「大庭郡と真嶋郡の2郡は、1年の内に庸米860余斛を輸送することとなっていますが、山川は遠く険しく、輸送は大変困難で人馬ともに疲労しており、出費が極めて多くなっています。重たい米に代えて、軽い綿と鉄の輸送を行うことを望み要請します。」と。
美作国言。部内大庭眞嶋二郡。一年之内。所輸庸米八百六十餘斛。山川峻遠。運輸大難。人馬並疲。損費極多。望請。輸米之重。換綿鐵之輕。

米に代えて運びやすい綿と鉄を納めることにしたとのことですが、そもそも山地が多すぎて耕地として利用できる土地が少なかったことも大きかったでしょう。つまり、この地域は備前南部の平野・海辺とは条件が別物で、同じ備前国のままだと行政実務がやりにくかった可能性が高いです。

地理の特徴による産業構造が南北で大きく違ったから、美作を1国として分立させた方が統治するのに合理的だったということですね。
理由2 播磨→美作→出雲に抜ける交通路「美作路」の整備・管理

もうひとつ、主要な理由として考えられるのは「美作路」という、瀬戸内海側の播磨国から美作国を経由して、日本海側の山陰に抜ける交通路の整備が関係していると思います。山間部にある備前の北部6郡をひとまとめにしておくと、山陰連絡路を直接押さえやすい利点があったのでしょう。

山陽と山陰を結ぶ連絡路「美作路」。これは確かに交通網として動脈になり得ますよね。
分国すると新たに国府を建てて、国司を派遣し、帳簿類も別管理にするなど中央の管理コストは増えますが、美作路の整備管理に当たらせるために美作国として備前国から分国するメリットは大きそうです。
参考:津山市『津山市歴史的風致維持向上計画 第2期』2019年3月、津山市
津山市『津山市文化財保存活用地域計画』2020年2月、津山市
日向国から大隅国が分立
(続き)
日向国の肝坏、贈於、大隅、姶衤羅の4郡を割いて、初めて大隅国を置いた。
割日向國肝坏。贈於。大隅。姶ラ【衤に羅】四郡。始置大隅國。


日向国の南部4郡を分立させ、新たに大隅国が建国されました。

今の鹿児島県の右半分という感じですね。大隅国はどういう理由でできたのでしょうか?
理由1 隼人を律令国家に取り込むため

当時の九州南部はまだ完全には国家の支配が行き届いておらず、隼人と呼ばれた南九州の現地民がしばしば朝廷に対し反抗することがありました。
大宝2年(702)8月1日(丙申) 薩摩の多褹島(種子島)で反乱

そういえばそんなこともありましたね(?)
実際、大隅建国からおよそ1年後の和銅7年3月には次のようにあります。
『続日本紀』和銅7年(714)3月15日(壬寅)条
隼人は心が荒々しく、未だ国家の法も学ばず従っていない。よって、豊前国(福岡県東部及び大分県の北西部)の人民200戸を移住させ、彼らに教え導かせることとした。
隼人昏荒。野心未習憲法。因移豊前國民二百戸。令相勸導也。
鹿児島県の大隅国の解説では「豊前国の民200戸など約5千人。移住地は,国の役所(国衙)が置かれた今の霧島市国分府中周辺ではないかと推測されています。」とあります(大隅国の成立(鹿児島県))。

『続日本紀』には、豊前国の民を「どこに」移住させたとは書いてありませんが、建国からの流れとして大隅に移住させたと見るのは自然でしょう。

つまり、大隅国建国は、隼人支配を進めるための前線行政拠点づくりということなんですね。

そう、隼人を抑えるためには日向国の南端の1地方のままにしておくのは負担が重く、新たに国を建てて国府を置いて統治させるのがよいと判断されたのでしょう。
なお、建国から7年後の養老4年(720)2月に、大隅国で隼人の反乱が記録されており、抵抗は根強く律令国家に馴染ませることは一筋縄ではいかなかったことが分かります。
理由2 日向国が広すぎるため

これは先の丹後国や美作国にも同じことが言えますが、従来のままだと国が広すぎて国司が国内を把握しきれないという問題があったはずです。分国することにより、調・庸・軍事・街路管理などを含む行政処理はやりやすくなります。
疫病(大倭国)

(続き)
大倭国(奈良県。のちの大和国)に疫病が発生したため、薬を支給してこれを救わせた。
大倭國疫。給藥救之。
新格・はかり・物差し・枡(ます)を頒布

4月16日(戊申) 全国に新格と権衡(はかり)・度量(物差しと枡)を頒布した。
頒下新格并權衡度量於天下諸國。
新格とは、この年の2月19日(壬子)条に見える、度・量・調・庸・義倉について定めた律令の改正法のことを指しています。
諸寺の田記を訂正
4月17日(己酉) 諸寺の田記(田に関する記録)に誤りがあったため、これを訂正して1通を所司に保管し、もう1通を諸国に頒布した。
因諸寺田記錯誤。更爲改正。一通藏所司。一通頒諸國。
寺院の保有する田の記録について誤りがあったので、この訂正版を作成。原本を所司に保管、副本を諸国に頒布しました。
「所司」とは、ここでは中央の官司を指し、具体的には寺院行政を担当する治部省管轄の玄蕃寮かと思われます。「諸国」とは、その寺院の建つ国のことを指していると見るのが自然でしょう。
律令 職員令第18【玄蕃寮条】
職掌は、仏寺、僧尼の名籍、供斎のこと。蕃客の辞見、讌饗、送迎のこと。及び在京の夷狄のこと。館舎を監当すること。
貴族たちに叙位

4月23日(乙卯) 従四位下安八万王に、従四位上を授けた。
正五位下大石王に、従四位下を授けた。
従五位上益気王に、正五位下を授けた。
従四位上多治比真人池守に、正四位下を授けた。
正五位上百済王遠宝に、従四位下を授けた。
従五位上大伴宿禰男人に、正五位上を授けた。
従五位下賀茂朝臣吉備麻呂に、正五位下を授けた。
従五位下笠朝臣長目、穂積朝臣老、小野朝臣馬養、調連淡海、倉垣忌寸子首に、従五位上を授けた。授從四位下安八萬王從四位上。
正五位下大石王從四位下。
從五位上益氣王正五位下。
從四位上多治比眞人池守正四位下。
正五位上百濟王遠寶從四位下。
從五位上大伴宿祢男人正五位上。
從五位下賀茂朝臣吉備麻呂正五位下。
從五位下笠朝臣長目。穗積朝臣老。小野朝臣馬養。調連淡海。倉垣忌寸子首並從五位上。
下級・中堅貴族層の位階を1階〜2階昇叙させました。皇族から3名、他それぞれの氏族から幅広く1名ずつの昇級となっています。
皇族の王3名は残念ながら全員系譜は不詳ですが、安八万王は天武天皇長男の高市皇子の子であるという説があります。
多治比池守は、養老年間に公卿層へ進む人物で、後年には参議に至ります。多治比氏の伸長が確認できる叙位です。
百済王遠宝ですが、彼の兄弟である百済王南典は現職の備前守であり、先の美作国分立の建言を中央に行った人物として知られています(『色葉字類抄』)。今回の遠宝の昇叙と共に、百済王氏は地方統治と中央官人層の両面で存在感を持っていたと見ることができます。
疫病(讃岐国)

(続き)
讃岐国に飢饉が発生したため、これを賑恤(貧乏な人や被災者を救うために、金銭や物を与えること)した。
讃岐國飢。賑恤之。
同じ位階内での序列を定める
(続き)
初めて次のように制定した。五位以上の者で同じ位階のものは、年齢の長幼で序列をなす。
始制。五位以上同位階者。因年長幼。以爲列次。
五位以上で、同じ位階を持つ者同士の序列をどうすれば良いかを定めました。これによると、年齢の長幼(年長・年少)に従うこととなり、例えば従五位下という位階を持つ30歳と35歳であれば、年長の35歳を先とすることとなりました。

なお、律令にはもともと同じ位階同士での序列について次のように定めがありました。
律令 公式令第55【文武職事条】
およそ文武の職事、散官が朝参の際に列を作り並び立つ時の順序は、各々位階の序列に従うこと。位階が同じ場合、五位以上は、授位の先後に従うこと。六位以下は年齢により従うこと。
これによると、もともとは五位以上は「先に位階を授けられた者が先」という決まりになっていました。しかし、今回これを改めて年齢順に従うこととなりました。

六位以下はもとから年齢順だったんですね。

そう、理由は分かりませんが、今回の制で位階を持つ官人は全員、同じ位階同士での序列は年齢順に決まりました。
式部省の人物査定について制定する
4月25日(丁巳) 次のように制定した。人物を銓衡(能力の適・不適、当否をはかり調べること)し、優劣を黜陟(功の有無により官位を上げ下げすること)することは式部省の任務であり、その任務は他の省よりも重い。よって、勲績(手柄、功績)を会議する日に式部省の長が不在であれば、その事について会議してはならない。
制。銓衡人物。黜陟優劣。式部之任。務重他省。宜論勲績之日。無式部長官者。其事勿論焉。
ここでいう式部長官とは、式部卿のことでしょう。式部省の任務は他の7省よりも重いとはっきり書かれているのは面白いです。ただし、式部卿の官位相当が他の卿よりも高いというわけではありません。
平安時代初期以降は、卿は親王が任命されることが慣例になり、名誉職化して実務上のトップは次官の大輔となりますが、律令が動き出してまだ10数年の和銅期においては、卿が実務として確実に機能していたことがこの記事から分かります。


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