
こんにちは、いずみです♨️
今回は天皇の代替わり直後ということで、国がどのような動きをするのか注目ですね。

『続日本紀』は起きた事実のみが記述され、理由や事情がよく分からない箇所もあるので背景をよく考察すると面白い発見があるかもしれません。
慶雲4年(丁未・西暦707年)現代語訳・解説
天武・持統天皇陵にて事を行う

7月5日(庚子) 大内山陵(天武・持統合葬陵)に事を行った。
「事」というのは、天皇陵に文武天皇崩御と(事前の)元明天皇即位を奉告したことを指すかと思われます。

編纂当時は「事」だけでなんのことか伝わると思ったんですかね…?
ところで元明天皇の即位は7月17日のため、時系列が前後しています。本来この記事は即位の前に置かれるべきだったでしょう(編集上のミスでしょうか?)。ここは『続日本紀』の第3巻末と第4巻初めに当たっており、文武天皇崩御と元明天皇即位は編集の意図で時系列が前後させている可能性もありますが、この部分については混乱を招きそうです。
南の嶋の島民に物を賜い位を授ける
7月6日(辛丑) 使いを大宰府に遣わして南の島の人にそれぞれ差をつけて物を賜い、位を授けた。
こちらの記事も↑に同じく編集のミスかと思います。内容的にも天皇の即位とは関連がありません。
南の島についての記事は以前にも存在し、文武天皇2年(698)4月13日には島の調査を目的に国使が派遣され、この翌年7月19日には島民が来朝し、位を授けて物を賜ったとの記事があります。
南の島とは具体的には今の鹿児島県から沖縄県の間にある多褹(種子島)、夜久、奄美、度感(徳之島)などの島を指しています。

南島は遣唐使の航行ルートになっていました。第8回遣唐使の副使たちが3月2日に帰国し、5月15日とこの後の8月16日に褒賞と位階の昇叙が行われています。このタイミングを考えるに、今回南島の島民たちに叙位が行われたのは航行ルートにおける遣唐使の支援が評価された結果ではないかと思います。
授刀舎人寮の設置
7月21日(丙辰) 初めて授刀舎人寮を設置した。
「授刀」に「たちはき」という和訓をつけていますが、これは刀を佩く(刀などを腰につける)ということなので、授刀舎人寮は宮中の警護・警衛を担当する官司であることがわかります。しかし、律令にはすでに五衛府(衛門府・左右衛士府・左右兵衛府)という類似の組織があり、授刀舎人寮が具体的にどのような職務を行ったのかは分かりません。

当時の主要な武器は刀剣ではなく弓矢です。そこにあえて刀を持つことを強調する官職名を持つということは、弓ではなく刀剣を主武装とした可能性があり、彼らは天皇や皇太子などにごくごく近い距離で護衛にあたったのかもしれません。
明くる和銅元年(708)3月23日に従五位下小野朝臣馬養が長官に任命されています。
遣唐副使たちの位階を昇進
8月16日(辛巳) 入唐副使従五位下巨勢朝臣邑治たちに、それぞれ差をつけて位を進めた。従七位上鴨朝臣吉備麻呂に従五位下を授けた。水手(船の乗務員。舵取り、船漕ぎ)たちに10年間税を免除した。
大神氏の氏長を任命
9月12日(丁未) 正五位下大神朝臣安麻呂を氏長とした。
大神安麻呂は慶雲3年(706)2月6日に亡くなった大神高市麻呂の弟です。これまで高市麻呂が氏長でしたが、兄に代わり安麻呂が氏長となりました。氏長とは氏上とも書き、氏族の代表者としてこれを統括する存在です。

氏上はその氏族の神(氏神)を祭り、氏寺の運営することなどについて指揮監督の権限がありました。

大神氏なら大神神社ですね!
卒(文禰麻呂)
冬 10月24日(戊子) 従四位下文忌寸禰麻呂が卒した。使いを遣わして詔により正四位上を贈った。並びに、絁(目の荒い絹)と布を贈った。壬申の年の功(壬申の乱(天武天皇元・672)での軍功)を以てである。
文忌寸禰麻呂(ふみ の いみき ねまろ)は、『日本書紀』天武天皇元年6月24日(甲申)条に初めて登場し、そこでは書首根摩呂(ふみ の おびと ねまろ)という名前になっています。大海人皇子(天武天皇)の蜂起に最初から従った約20人のうちの1人に名を連ねています。
氏の文・書はいずれも「ふみ」と読み、忌寸・首は氏族の朝廷における序列を示すもので姓(かばね)といいます。天武天皇即位後、姓は制度改革が行われ、従来の姓を改めて新たに8種類の「八色の姓」を制定しました。この8種のうちのひとつが「忌寸」であり、これは第4位に位置します。

禰麻呂は『書紀』同年7月2日(辛卯)条で、将軍として他3人の将軍とともに数万の軍勢をもって不破(美濃と近江の境)から、近江の大津京にむけて進撃したと伝えられます。緒戦で勝利を重ね、7月22日(辛亥)に瀬田で激戦となり近江軍は敗走。最終的に大友皇子の自死をもって天武天皇側を勝利に導きました。

たしかにすごい軍功です。
江戸時代に発見された禰麻呂の墓

はるかに時代が下って江戸時代になり、奈良の百姓が農作業をしていたところ遺物を発見。調査によると金銅製の墓誌であることが分かり、禰麻呂の名前が刻まれていることからここが彼の墓であることが判明したのです。

墓誌には正四位上とあり、今回贈られた位階と一致しています。ただ、『続日本紀』には亡くなった日は10月24日とありますが、墓誌には9月21日とあってズレがあります。これは墓誌の方を信用するべきでしょう。
墓から出土した墓誌と、遺骨が納められていた壺は現在国宝に指定され東京国立博物館に所蔵されています。
・文祢麻呂墓誌(文化遺産オンライン)
・金銅壺(同上)

これは大発見で貴重な史料、国宝級にまちがいないです✨
志摩国に賑恤、任官(越後守)
11月2日(丙申) 志摩国(三重県南部・東部)を賑恤(困窮者や病人を救うため金品を送って支援すること)した。
従五位下阿倍朝臣真君を越後守に任じた。
阿倍真君は慶雲3年(706)7月27日に大倭守に任じられています。今回の越後守任官は、慶雲3年閏正月5日から任じられていた猪名大村(威奈大村とも書く)の後任となります。

ちなみに、前任者の猪名大村は赴任地の越後にて没したことが国宝「金銅威奈大村骨蔵器」(京都国立博物館)に記されています。
国名 | 国力 | 種別 | 守の官位相当 | 主な相当位置 |
越後国 | 上国 | 北陸道 | 従五位下 | 新潟県 |
文武天皇を山陵に葬る

11月20日(甲寅) 倭根子豊祖父天皇【文武天皇】を安古山陵に葬った。
文武天皇を山陵に葬る記事は文武天皇紀の慶雲4年11月20日にあり、重ねて掲載されています。
卒(衣縫王)
11月24日(戊午) 弾正尹従四位下衣縫王が卒した。
衣縫王は、『日本書紀』持統天皇7年(693)2月10日(己巳)に、藤原京造営の担当である「造京司」として、詔により土に埋まっていた人の遺体を掘り出して他所に移動し収めさせたと記述があります。
『続日本紀』においては、文武天皇3年(699)10月20日(辛丑)に越智山陵(斉明天皇陵)の修理・修繕のために遣わされたとあります。

『書紀』の「収めた」という記述は、京をつくる領域内と被った墳墓の遺骨を掘り返して移動し、埋葬し直したという意味かと思います。
弾正尹は弾正台の長官で、職掌は以下の通り(要約)
律令 職員令第58条(弾正台条)
尹(長官)は風俗を粛清し、内外の非違を弾奏(不正を奏上する)する事。大忠(第3等官)は内外を巡察し、非違を糺弾(罪や失敗をとがめる)する事。
ここでいう風俗の粛清とは民間の風俗をただすことではなく、行政や官人の綱紀粛正を指します。

朝廷内部の警察組織みたいな位置付けなんですね
日蝕
12月1日(乙丑) 日蝕があった。
日蝕についてはこちらをごらんください。
伊予国に疫病
12月4日(戊辰) 伊予国(愛媛県)に疫病が発生した。薬を賜ってこれを救わせた。
詔により官人の礼節をただす
12月27日(辛卯) 次のように詔した。「すべての政の道は、礼をもって先となす。礼がなければ言葉は乱れ、言葉が乱れればその言葉の趣旨は失われる。
往年の詔があり、跪伏の礼(ひざまずいてするお辞儀)は停止してきた。今聞くところによると、内外の省庁を前にして、官人には厳粛さがなく、進退する(立ち居振る舞い)に礼が失われ、陳答(事情を述べること)をすれば度を失ったかのごとくその要領を得ないとのことである。
これはすなわち、その官司が序列を恪ず自ら礼節を怠ることによっている。今後は厳しくこれを糺し、その弊俗(悪い風俗)を改め淳風(すなおな風俗。人情のあつい風習)に靡かせるべし」と。
「礼」について

朝廷での言葉遣いが乱れていたようです。これは、新たに天皇が即位したため官人たちに気を引き締めさせるための訓示でしょうか。年末ということで、正月の朝賀から始まる儀式に備えたものでもあるでしょう。
「礼」とは孔子の教えである儒教の思想であり、目上の者を敬うことを説いたものです。親や上の兄弟、年配者、上官、そしてすべての頂点に立つ天皇を敬うことによって国家の秩序を保つことが肝要であるとされました。礼が失われるということは、目上の者への敬意が失われることであり、それが今回の詔にいう「言葉の乱れ」として現れるということですね。
「礼」やその他仁・義など儒教の教えについてはこちら(慶雲3年(706)3月14日)でも解説しています。
跪伏の礼について

跪伏の礼は過去の記事にも登場し、↑のように地に手と膝をつけ正座の状態で上体を前傾させる礼儀作法です。このような礼は以前から(慶雲元年(704)正月25日)禁止されていましたが、古来より続けられてきた日本の礼法であったため強固な習俗となっており完全に禁ずることはできなかったようです。

元明天皇の治世、このときの日本が抱えていた課題をクリアしていければ良いですね。

このときは目下の課題として、官人たちの統制、国内の疫病や飢饉などへの対策、そして将来皇位につく首皇子(のちの聖武天皇)の養育…これらが挙げられますね。



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