
こんにちは、みちのくです☀️
今回から慶雲元年の記事を取り上げていきます。ただし、大宝から慶雲に改元されるのは5月ですので、それまでは大宝4年ということになります。

改元ですか!何がきっかけだったんでしょう?タイミング的にこれも持統上皇の崩御が関係してるのかも…?いろいろ考察できて楽しいですね。
慶雲元年(大宝4年、西暦704年)現代語訳・解説
朝賀の儀

春 正月1日(丁亥) 天皇は大極殿に御し、朝賀を受け給われた。五位以上の座席に初めて榻(腰掛け)を設けた。
前年(大宝3年)は、持統上皇の崩御により朝賀の儀が行われなかったため2年ぶりとなりました。五位以上、すなわち貴族は特別待遇としてこの年から初めて榻という腰掛け座席が設けられました。

朝賀のイメージって、大極殿の高みに出御した天皇を臣下が起立のまま壇の下から見上げるような光景を考えるのですが…座る場面もあったということでしょうか。

儀式の最中に腰掛けているとは考え難いですし、天皇が出御する前時間に腰掛けるためとか…?

詔(右大臣任官、昇叙)



正月7日(癸巳) 詔により、大納言従二位石上朝臣麻呂を右大臣に任じた。
無位長屋王に正四位上を、無位大市王・手嶋王・気多王・夜須王・倭王・宇大王・成会王に従四位下を授けた。
従六位上高橋朝臣若麻呂、従六位下若犬養宿禰檳榔(あじまさ)、正六位上穂積朝臣山守・巨勢朝臣久須比・大神朝臣狛麻呂・佐伯宿禰乗麻呂、従六位下阿曇宿禰虫名、従六位上采女朝臣枚夫、正六位下大朝臣安麻呂、従六位上阿倍朝臣首名、従六位下田口朝臣益人、正六位下笠朝臣麻呂、従六位上石上朝臣豊庭、従六位下大伴宿禰道足・曽禰連足人、正六位上文忌寸釈加、従六位下秦忌寸百足、正六位上佐太忌寸老・漆部(ぬりべ)造道麻呂・上村主大石・米多(めた)君北助(ほぞ)・王敬受、従六位上多治比真人三宅麻呂、正六位上台忌寸八嶋に従五位下を授けた。
前年の大宝3年(703)閏4月1日に右大臣の阿倍御主人が亡くなって以来、太政官には臨時の筆頭官「知太政官事」である刑部親王がいたものの、大臣が1人もいない状況になっていました。石上麻呂のほか、藤原不比等も大納言でしたが、両者のうち石上麻呂が右大臣に抜擢されたのは、すでに麻呂は65歳で政界の重鎮となっていたからではないでしょうか。

このとき、藤原不比等は44歳前後です。
無位からいきなり正四位上に叙位されている長屋王は、天平元年(729)皇位継承争いに巻き込まれ滅ぼされる「長屋王の変」で有名な人物で、『続日本紀』においてはこの記事が名前の初見です。長屋王は、天武天皇の孫で、天武の長子であり壬申の乱で活躍した高市皇子の子です。
従六位上から従五位下に叙位されている石上豊庭は、右大臣石上麻呂の子です。大安麻呂は、現存最古の日本の書物であり歴史書『古事記』を筆録し天皇に献上した人物として有名です。

従五位下に昇った氏族は1人も重複していないのが特徴ですね。
それぞれの氏族の代表者が選ばれて年頭に昇格されたということでしょうか。
封戸の追加支給
正月11日(丁酉) 二品長親王・舎人親王・穂積親王、三品刑部親王に封戸を各々200戸加増した。
三品新田部親王・四品志紀親王に各々100戸を、右大臣従二位石上朝臣麻呂に2170戸を加増した。
大納言従二位藤原朝臣不比等に800戸を、その他三位以下五位以上の位階を持つ14人には各々差をつけて封戸を加増した。
封戸とは、領地のことです。領地内の戸(世帯)から徴収された租調などの税の一部または全部を個人の給与とすることを許されていました。

長親王・舎人親王・穂積親王・刑部親王・新田部親王、これらはすべて天武天皇の皇子たちです。志紀親王はこの中では唯一天智天皇の皇子ですね。

封戸の制度で富める者はますます富むといった感じですね。特に右大臣に昇進した石上麻呂の2170戸はすごい…。あと天武天皇すごく子沢山なのもすごい…。
詔による封戸の追加支給
正月16日(壬寅) 御名部内親王と石川夫人に詔し、封戸を各々100戸加増した。
御名部内親王は天智天皇の皇女で、天武天皇長子である高市皇子の妻です。長屋王の母でもあります。


ちなみに天智天皇と天武天皇は同母兄弟です。

ということは御名部内親王は叔父と結婚したということですね…。

この時代の皇室は特に近親間の婚姻が多いです。
「石川夫人」は文武天皇の妻の石川朝臣刀子娘です。天皇の配偶者には序列があり、皇后を筆頭に、上から妃、夫人、嬪という地位があります。
『続日本紀』文武天皇元年(697)8月20日(癸巳)条
藤原朝臣宮子娘【藤原不比等の女子】を夫人と定めた。
紀朝臣竈門娘、石川朝臣刀子娘を妃と定めた(これは妃ではなく嬪の誤りと思われる)。

時期は不明ですが、石川刀子娘は嬪から夫人に格上げされたようです。
ただ、のちの和銅6年(713)に「石川の嬪」と呼ばれている箇所があり、正直よく分かりません。

夫人に格上げされていたとすれば、藤原宮子と同列なわけですか…。だとすると石川氏の勢力が大きくなったということでしょうか。

石川を姓とする人物は国史にはあまり見られず、やはりよくわかりません。
石川刀子娘と文武天皇の間には2人の皇子が誕生していたという説があり、夫人への昇格があったとすればこれがきっかけかも??

同じく嬪である紀竈門娘を差し置いて封戸を加増されているわけですから、なんらかのお手柄があったということですもんね。
神郡の郡司に、親族間の任命を許す
正月22日(戊申) 伊勢国多気・度会の2郡の少領(郡司の次官)以上には3等以上の親族を任命することを許可した。
多気郡と度会郡は伊勢神宮を擁する特別な土地として「神郡」と呼ばれました。郡の行政は当然のように神宮の影響力が加わり、郡司においても神宮経営の関係者が就任。少領とは郡司の次官なので、長官の大領と共に、神宮とその親族による共同統治が公認されたということです。

伊勢国司も神郡には介入するのが難しかったようです
今回と同様の事例は過去にもあります。
『続日本紀』文武天皇2年(698)3月9日(己巳)条
次のように詔した。「筑前国宗形郡と出雲国意宇郡の郡司は、これを任命するときに3等以上の親族の任命を許すこと」
これは宗像大社と出雲大社における同様の事例ですね。これらの神社に認められて、伊勢が認められない理由はないということでしょう。
『続日本紀』大宝3年(703)3月16日(丁丑)条
(前略)また、才能が郡司にたえる者があるにもかかわらず、もし当郡に3等以上の親族がある者は、その隣の郡の郡司に任命することを許可すること。
これは違うパターンですが、同じく3等内の親族を郡司に任命した事例です。
跪伏の礼を停止
正月25日(辛亥) 初めて百官が行う跪伏の礼を停止した。

跪伏の礼は、跪(ひざまず)くお辞儀のことで、跪礼ともいいます。

つまり土下座ですか…!?


土下座も確かに跪いていますが、跪礼は顔を地につけることはありません。ただ、今でいう土下座のような方法も存在したようで、そちらは「匍匐礼」といいます。
『魏志』倭人伝にも倭人の習俗として「身分の下の者は、高位の者にすれ違ったときは、これを避けて草に入り、ひざまずいたり、うずくまったりする。両手を地について恭しく敬意を示す」とあります。
このように跪礼は日本古来の礼式であり、古墳時代の埴輪にも跪礼をしていると思われるものが存在します。

『日本書紀』推古天皇12年(604)9月条
詔により朝廷における拝礼の規定を次のように改めた「宮門を出入りするときは、2つの手をもって地を押し、2つの脚をもって跪き、梱(敷居)を越えてから立って通ること」と。

聖徳太子の十七条憲法が定められた数ヶ月後のことです。
しかしその後、天武天皇の時代に入ると、跪礼や匍匐礼は禁止されました。
『日本書紀』天武天皇11年(682)9月2日(壬辰)条
今後、跪礼や匍匐礼は停止し、難波朝(孝徳天皇の時代)の立礼を用いることとした。

なんだ、もっと前からすでに禁止されていたんですね。

そうですね。ただ、なにぶん魏志倭人伝の時代にすでにあった古来の礼式ですから、禁止しようにも長年染みついた習慣を変えることは難しかったのでしょう。

実際に今でも、お作法として正座からのお辞儀とか、お客をお出迎えするときに膝をついてお辞儀をしたり、最大級の謝罪をするときには跪いて土下座をする文化(?)がありますし、これは日本特有だそうですね…。
そもそもどうして廃止しようとしたのでしょう。服が汚れるからですか?

儀式や礼式を唐風にならったものだといわれています。
外国使節に跪礼は後進的だと思われることを避けたのでしょう。
服が汚れるというのも、単純ながらもっともな理由だと思います。
日蝕
2月1日(丙辰) 日蝕があった。
律令制における日蝕についての解説は↓の記事で取り上げています。

大宮主について
2月8日(癸亥) 神祇官の大宮主を長上(常勤者)の例に入れることとした。
宮中の神事をつかさどる役所である神祇官において、亀卜(亀の甲羅を焼いて、その亀裂の形で吉凶を占う)などの占いを担当する卜部の中から優秀な技術を持つ者が選ばれ、これを宮主と呼びました。
大宮主は、選ばれた宮主の中でも筆頭の者ということでしょう。

常勤の長上に対し、非常勤の人を番上といいます。
賜姓
2月20日(乙亥) 従五位上村主百済の姓を改めて阿刀連を賜った。
「村主」を姓に持つ氏族は大陸からの渡来人(帰化人)の子孫です。が、この人物が新たに授かった「阿刀連」姓は「饒速日命」という日本の神を祖とする氏族が従来から名乗っていたもので、なぜ渡来系を出自とする村主氏が阿刀に改姓されたのか、事情は不明です。
疫病の流行
3月29日(甲寅) 信濃国(長野県)に疫病が流行した。よって薬を支給して治療させた。
諸国印の製作
夏 4月9日(甲子) 鍛治司に令して諸国の印を鋳造させた。

律令制は文書主義をとり、木簡のほか紙が用いられました。そのため公文書の偽造を防止するため印章が製作されたのです。

日本はハンコ文化と言われますが、その始まりはこの時代でした。

鍛治司ということは、名前からして金属加工が専門ですよね。ということは当時のハンコは金属製だったんですね。
東国の弓を大宰府に充当
4月15日(庚午) 信濃国(長野県)が献上してきた弓1400張を大宰府に充てた。
東国から大宰府への弓の献上記事は2年前にもあり、今回は「梓弓」とは書かれていませんが同様のものかと思います。
大宝2年2月22日(己未)条
歌斐国(甲斐国、山梨県)が梓弓500張を献上した。これを大宰府に充てることとした。大宝2年3月27日(甲午)条
信濃国(長野県)が梓弓1020張を献上した。これを大宰府に支給した。

1400張は今までで最大規模ですね。

新羅との関係は良好だったようですが、その一方で大宰府の防人にはさらに防衛を強化するよう備えさせていたようですね。
梓弓の解説は以下の記事で触れています↓

飢餓の発生
4月19日(甲戌) 讃岐国(香川県)に飢餓が発生した。よってこれを賑恤(貧困者や病人や被災者などを支援するため金品を与えること)した。
苗の損失
4月27日(壬午) 備中(岡山県西部)・備後(広島県東半部)・安芸(広島県西半部)・阿波(徳島県)4国の苗に損失があったため、これらの国に賑恤を加えた。

このところ、災害・飢饉・疫病の記事がつづきますね…。

来月、大宝から慶雲に改元されますが、これら災害から起こる政情不安を払拭する狙いもあったかもしれません。
参考書籍など



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