
こんにちは、いずみです♨️
今回も楽しく学んでいきましょう!

今回は帰国してきた遣唐使のお話です☀️
慶雲元年(西暦704年・甲辰)現代語訳・解説

遣唐使の帰国、唐人との会話
秋 7月1日(甲申) 正四位下粟田朝臣真人が唐国から帰国した。
初め唐に到着したとき、唐の現地人と次のような問答があった。
現地人「あなたたちはどこの国の使人ですか?」
遣唐使「我々は日本国の使者である。ここはどこの州境か?」
現地人「ここは大周国の楚州で、塩城県の境です」
遣唐使「以前ここは大唐であったが、今は大周と称している。なぜ国号が改まったのか?」
現地人「永淳2年(683年)に天皇太帝【高宗】(唐の第2代皇帝)が崩御され、皇太后【則天武后】が位に登られました。そこで聖神皇帝と称して国号を大周とされたのです」問答はここで終わった。
大宝2年(702)6月19日に出発した第8回遣唐使が帰国しました。粟田真人は遣唐使の代表責任者で天皇から下賜される節刀をとる「遣唐執節使」という任についていました。

2年間の異国の旅だったわけですね♨️
遣唐使のたどり着いた場所

この記事では唐に着いてまもなく出会った現地人との興味深いやりとりが記述されています。まず遣唐使はどこから来たのか尋ねられ「日本国の使者である」と答えているところです。律令国家、すなわち独立した立派な国であることを示すため、倭とされていた国の名を「日本国」と定めたことを外国に対し初めて表示した事例といえます。

つづいて、遣唐使はここは唐のどこの州境かと現在地を尋ねていますね。

大宰府から出発した遣唐使船は楚州の塩城県という地に着いたようです。遣唐使の発言から分かりますが、当時の航海技術では目標を定めた特定の港に到着することはほぼ不可能であり、到着地の現在地が分からなかったようです。また、風波で予定の航路よりも大幅にずれて到着地がわからなくなる場合もあったでしょう。

そこで遣唐使たちは、現地人から衝撃の事実を伝えられます。
なんと唐はすでに滅び、あらたに「周」という王朝が成立したというのです。
周の興りと中国史上唯一の女帝・則天武后

683年に国号を周に改めた…ってなにげに20年以上も前の話じゃないですか!日本はこのことを全く知らなかったってことですか??

今回の遣唐使発遣は前回から30年以上経っており、唐から使者が来ることもなかったので、内情はまったく知らなかったのでしょう。
でも新羅とは相互の国交があったのに、その中でも唐の情報が入ってこなかったのは不審ですね…。
国号が変わるということは、中華王朝を支配する皇帝が滅びて、別の人物が皇帝の位についたということです。唐王朝は李姓の人物が皇帝についていましたが、これに代わって武姓が皇帝となったため「周」という国号に改めたのです。皇帝の姓が変わることによって別の王朝に移り変わることを「易姓革命」といいます。

これじゃ遣唐使じゃなくて「遣周使」ですね…。
中華王朝の国号は国を支配する皇帝の姓が基準になってるんですね。

はい。日本だと、もしも藤原氏が皇位を奪って天皇になったとしたら「日本」という国号が切り替わってしまうことになるんですね。中国ではこういったことが何度も何度も繰り返されてきましたが、日本ではこれが改まることは一度もありませんでした。
そして、その武姓の人物とは中国史上で唯一の女帝である「則天武后」でした。則天武后は、中国では一般的に「武則天」と呼ばれ、本名を武照といいました。則天武后と呼ばれるのは、「后」とあるように、もともと彼女は唐の第2代皇帝・高宗の皇后であり、自身が皇帝となってからも皇太后としての地位も維持していたからです。



目指した国がすでに何年も前に滅びていて、さらに女性が皇帝になって新しい国ができているなんて聞いたら、遣唐使たちも目玉が飛び出るくらいに驚いたでしょうね。
則天武后にかかわる年表
※年齢は則天武后のもの。緑字は日本における重大事
624年 誕生
646年 22歳 改新の詔
649年 25歳 初代皇帝太宗が崩御し、息子の高宗が即位する。
655年 31歳 高宗の皇后である王皇后を謀略の末に排除し、自らが皇后となる。高宗は気質が大人しく政治の才能がない一方、太宗の宮女の時代から非常に勝気な性格でしられていた則天武后は高宗に代わって政治の実権を握るようになる。
663年 39歳 白村江の戦いで百済・日本連合軍を破る。
668年 44歳 新羅と連合して高句麗を滅ぼす。
669年 45歳 倭国(日本)から使節が到着する(第7回遣唐使)。
683年 59歳 高宗が崩御する。
684年 60歳 高宗の太子の中宗が即位するが、わずか2ヶ月足らずで則天武后により廃位される。中宗の同母弟の睿宗が即位するが、武則天の傀儡(あやつり人形)であった。
690年 66歳 則天武后が睿宗を廃位して自ら即位し、国号を大周と改め自らを聖神皇帝と称する。
701年 77歳 大宝律令施行
702年 78歳 日本から約30年ぶりに使節が到着する(第8回遣唐使)。
705年 81歳 2月 病気となった則天武后は、かつて廃位した中宗に譲位した。よって唐が復活した。5月 則天武后は崩御し、高宗の陵に合葬された。

則天武后は今回の記事の翌年(705年)には、高宗との子である中宗に譲位し、崩御してしまいます。そのため結局周は則天武后ただ1代で終焉を迎え、唐が復活することになりました。

日本は周という国をほとんど認知する暇もなかったわけですね。
でも年表を見ると、日本とのかかわりも多いですね。
君子国、日本
(続き)
問答が終わり、唐人が遣唐使に言うことには、
「しばしば聞いております。海東に大倭国があり、これを君子国というと。人民は豊楽(物が豊かで楽しく暮らしていること)にして礼儀が敦行(誠実であること)であると。今あなた方を見るに、儀容は大いに浄く、まったくそのとおりです」と。
こう言い終わると、唐人は去っていった。

日本ベタ褒めですね〜

先にも述べたように、中国は多くの血を流した末に天下を統一し、何度も何度も易姓革命を繰り返して別の国が興っては滅びるを繰り返してきました。一方で日本は天地が開けて以来ずっと神の子孫(天皇)が国を治めていて、そのもとに人民は安らかであると。唐人はその事実をほめて「君子国」であると言ったのかもしれません。
祥瑞の献上
7月3日(丙戌) 左京職が白燕を献上した。下総国(千葉県北部と茨城県南西部)が白烏を献上した。
白いツバメや白いカラスは、メラニン色素をつくる遺伝子が突然変異を起こして体が白くなる「アルビノ」と呼ばれる個体ですね。

黒いカラスが白い。ここから白カラスという語はありえない物事の例えとして使われることがあります。
祈雨
7月9日(壬辰) 時節の雨が降らないため使いを諸社に遣わして祈雨を行わせた。
役所の費用給付
7月17日(庚子) 公廨(役所)の費用を式部省の大学寮や散位寮などの寮に給付した。
賑恤の詔
7月19日(壬寅) 詔により京師(みやこ)の80歳以上の高齢者全員に賑恤(貧困者や病気の者に恵みを与えること)を加えた。
住吉社に奉幣

7月21日(甲辰) 幣帛(供え物)を住吉社に奉った。
住吉社は現在の住吉大社(大阪市住吉区住吉)で、祭神は海の神であり、古来より航海や漁労に携わる人々は海上安全や豊漁を住吉の神に祈りました。今回幣帛が奉られたのは、遣唐使の無事の帰還に感謝を示すためのものでしょう。
贈位、封戸の伝領
7月22日(乙巳) 従五位上坂合部宿禰唐に正五位下を贈った。
故・右大臣従二位阿部朝臣御主人の功封100戸のうち1/4を子の従五位下阿部朝臣広庭に伝領(相続)させた。
贈従五位上高田新家の首功封40戸の1/4を子の無位首名に伝領させた。

封戸、つまり領地のことで、亡くなった親の領地を子に相続させたという記事ですね。功封とは、国家に対し功績がある人に与えられた領地です。
贈位や高田新家については大宝3年(703)7月23日条でも触れています。
遣新羅使の帰国
8月3日(丙辰) 遣新羅使従五位上波多朝臣広足たちが新羅から帰国した。
『続日本紀』に記録される波多広足についての記述は以下の通り。
大宝元年(701)7月21日に左大臣多治比嶋の葬儀の監護を務める。
大宝3年(703) 9月22日 遣新羅大使に任命される。
同年 10月25日 大使として天皇に謁見する。

遣唐使の影に隠れがちですがそういえば新羅にも使節を送っていましたね
イナゴの害
8月5日(戊午) 伊勢・伊賀(三重県)の2国に蝗害(イナゴの害)があった。
イナゴは稲に限らず畑作の作物や果ては紙まで食害してしまいます。
大風の被害
8月28日(辛巳) 周防国(山口県)に大風があり、樹木が倒れ秋稼を損なった。

災害ばかりですね…

こればかりはどうすることもできません
参考書籍など



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