【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 慶雲元年③ 衝撃を受ける遣唐使。君子国、日本

巻3(大宝3年正月〜慶雲4年6月)
いづみ
いづみ

こんにちは、いづみです♨️
「衝撃を受ける遣唐使」…何かとんでもないものを見たのでしょうか?

みちのく
みちのく

今回のメインは帰国してきた遣唐使のお話です☀️
遣唐使を中断していた30年、東アジア情勢は大きく変化していたようです。



慶雲元年(甲辰・西暦704年)現代語訳・解説 7月〜8月

遣唐使船

秋 7月1日(甲申きのえさる) 正四位下粟田朝臣真人あわたのあそんまひとが唐国から帰国した。

 初め唐に到着したとき、現地の者(以下「現地人」)と次のような問答があった。
現地人「あなたたちはどこの国の使人ですか?」
遣唐使「我々は日本国の使者である。ここはどこの州境か?」
現地人「ここは大周の楚州で、塩城県の境です」
遣唐使「以前ここは大唐であったが、今は大周と称している。なぜ国号が改まったのか?」
現地人永淳えいじゅん2年(天武天皇12年、683年)に天皇太帝【高宗】(唐の第3代皇帝・高宗)が崩御され、皇太后【則天武后】が位に登られました。そこで聖神皇帝と称して国号を大周とされたのです」

 問答はおおよそこのようなものであった。

正四位下粟田朝臣眞人自唐國至。
初至唐時。有人來問曰。
何處使人。
荅曰。日本國使。我使反問曰。此是何州界。
荅曰。是大周楚州塩城縣界也。
更問。先是大唐。今稱大周。國号縁何改稱。
荅曰。永淳二年。天皇太帝崩。皇太后登位。稱号聖神皇帝。國号大周。
問荅畧了。

 大宝2年(702)6月19日に出発した第8回遣唐使が帰国しました。粟田真人は遣唐使の代表責任者で天皇から下賜された節刀をとる「遣唐執節使」という任についていました。

いづみ
いづみ

2年間の異国の旅だったわけですね♨️

 そして、この第8回遣唐使は、天智天皇8年(669)の第7回目以来33年ぶりに派遣された遣唐使でした。この30年以上の間に東アジアの情勢は急変していたようです。

遣唐使のたどり着いた場所

この記事では唐に着いてまもなく出会った現地人との興味深いやりとりが記述されています。

みちのく
みちのく

面白いのは、遣唐使はどこから来たのかを尋ねられ「日本国の使者である」と答えているところです。
律令国家、すなわち独立した立派な国であることを示すため、これまで倭とされていた国の名を「日本国」と定めたことを外国に対し初めて示した例といえます。

いづみ
いづみ

それってなんとなくですけど、すごいことだって分かります✨

つづいて遣唐使は、「ここは唐国のどこの州境」かと現在地を尋ねています。

 大宰府から出発した遣唐使船は、楚州の塩城県という地に着いたようです。遣唐使の発言から察することができますが、当時の航海技術では目標を定めた特定の港に到着することはほぼ不可能であり、到着地の現在地が分からなかったようです。また、風波で予定の航路よりも大幅にずれて到着地がわからなくなる場合もあったでしょう。

みちのく
みちのく

そこで遣唐使たちは、現地人から衝撃の事実を伝えられます。
なんと唐は「」という国に変わっていたのです。



周の興りと中国史上唯一の女帝・則天武后

いづみ
いづみ

683年に国号を周に改めた…ってなにげに20年以上も前の話じゃないですか!日本はこのことを全く知らなかったってことですか??

みちのく
みちのく

今回の遣唐使発遣は前回から30年以上経っており、唐から使者が来ることもなかったので、内情はまったく知らなかったのでしょう。
でも新羅とは相互の国交があったのに、その中でも唐の情報が入ってこなかったのは不審ですね…。

 国号が変わるということは、中華王朝を支配する皇帝が滅びて、姓の異なる別の人物が皇帝の位についたということです。唐王朝は姓の人物が皇帝についていましたが、これに代わって姓が皇帝となったため「周」という国号に改まったのです。

中国では、天命を受けた新たな王朝が旧王朝に代わって天下を治める、という考え方があり、これを易姓革命といいます。

いづみ
いづみ

これじゃ遣唐使じゃなくて「遣周使」ですね…。
中華王朝の国号は国を支配する皇帝の姓が基準になってるんですね。

みちのく
みちのく

はい。日本だと、もしも藤原氏が天皇になったとしたら「日本国」という国号が切り替わってしまうことになるんですね。中国ではこういったことが何度も繰り返されてきましたが、日本ではこれが改まることは一度もありませんでした。

 そして、その武姓の人物とは中国史上で唯一の女帝である「則天武后」でした。則天武后は、中国では一般的に「武則天」と呼ばれ、本名を武照といいました。則天武后と呼ばれるのは、「后」とあるように、もともと彼女は唐の第2代皇帝・高宗の皇后であり、自身が皇帝となってからも皇太后としての地位も維持していたからです。

則天武后 中国唯一の女帝。もともとは高宗の皇后だった
高宗 唐の第2代皇帝。本名は李治。
いづみ
いづみ

目指した国がすでに何年も前に滅びていて、さらに女性が皇帝になって新しい国ができているなんて聞いたら、遣唐使たちも目玉が飛び出るくらいに驚いたでしょうね。

みちのく
みちのく

果たして無事に生きて帰れるか…といったところでしょうか。
恐ろしいと思うと同時に、当時の人の使命感や勇気に感服します。

則天武后にかかわる年表

※年齢は則天武后のもの。緑字は日本における重大事

624年 誕生
646年 22歳 改新の詔
649年 25歳 初代皇帝太宗が崩御し、息子の高宗が即位する。
655年 31歳 高宗の皇后である王皇后を謀略の末に排除し、自らが皇后となる。高宗は気質が大人しく政治の才能がない一方、太宗の宮女の時代から非常に勝気な性格で知られていた則天武后は高宗に代わって政治の実権を握るようになる。
663年 39歳 白村江の戦いで百済・日本連合軍を破る。
668年 44歳 新羅と連合して高句麗を滅ぼす。
669年 45歳 倭国(日本)から使節が到着する(第7回遣唐使)。
683年 59歳 高宗が崩御する。
684年 60歳 高宗の太子の中宗が即位するが、わずか2ヶ月足らずで則天武后により廃位される。中宗の同母弟の睿宗えいそうが即位するが、則天武后の傀儡かいらい(あやつり人形)であった。
690年 66歳 則天武后が睿宗を廃位して自ら即位し、国号を大周と改め自らを聖神皇帝と称する。
701年 77歳 大宝律令施行
702年 78歳 日本から約30年ぶりに使節が到着する(第8回遣唐使)。
705年 81歳 2月 病気となった則天武后は、かつて廃位した中宗に譲位した。よって唐が復活した。5月 則天武后は崩御し、高宗の陵に合葬された。

先に掲げた『続日本紀』の、現地人との問答では、683年に周が建国されたように読めますが、この部分は高宗崩御から則天武后の周建国までがかなり圧縮して語られているようです。
実際には、高宗崩御は683年、則天武后の周建国は690年です。

みちのく
みちのく

則天武后は今回の記事の翌年(705年)には、高宗との子である中宗に譲位し、崩御してしまいます。そのため結局周は則天武后ただ1代で終焉を迎え、唐が復活することになりました。

いづみ
いづみ

年表を見ると、第8回遣唐使が到着したのは則天武后の治世末期だったことが分かりますね。日本は周という国をほとんど認知する暇もなかったわけですか。
でも、治世中は意外と日本とのかかわりも多かったみたいですね。

君子国、日本

(続き)

 問答が終わり、現地人が我が国の使者に言うことには、
「しばしば聞いております。海東に大倭国があり、これを君子国というと。人民は豊楽(物が豊かで楽しく暮らしていること)にして礼儀が敦行とんこう(誠実であること)であると。今、使人であるあなた方を見るに、儀容は大いにきよく、まったく聞いていたとおりです」と。
 こう言い終わると、現地人は去っていった。

唐人謂我使曰。
亟聞。海東有大倭國。謂之君子國。人民豊樂。禮義敦行。今看使人。儀容大淨。豈不信乎。
語畢而去。
いづみ
いづみ

日本、ベタ褒めですね

みちのく
みちのく

先にも述べたように、中国は多くの血を流した末に天下を統一し、何度も易姓革命を繰り返して別の国が興っては滅びるを繰り返してきました。
一方で日本は神話の時代からずっと神の子孫、つまり天皇が国を治めていて、そのもとに人民は安らかであると。唐人はその事実を称えて「君子国」であると言ったのかもしれません。



祥瑞の献上

7月3日(丙戌ひのえいぬ) 左京職さきょうしきが白つばめを献上した。
下総国しもうさのくに(千葉県北部と茨城県南西部)が白からすを献上した。

左京職獻白燕。
下総國獻白烏。

 白いツバメや白いカラスは、メラニン色素をつくる遺伝子が突然変異を起こして体が白くなる「アルビノ」と呼ばれる個体ですね。

いづみ
いづみ

本当に真っ白なカラスですね!?
私も実際に見てみたいな…

みちのく
みちのく

黒いはずのカラスが白い。ここから「白カラス」という語はありえない物事の例えとして使われることがあります。

祈雨

7月9日(壬辰みずのえたつ) 時節の雨が降らないため使いを諸社に遣わして祈雨きうを行わせた。

以時雨不降。遣使祈雨於諸社。



役所の費用給付

7月17日(庚子かのえね) 公廨くがいの禄(官司の公的財源から充てられる、官人への給与)を式部省の大学寮や散位寮に給付した。

公廨祿給式部省大學散位等寮。

 公廨とは、「役所、官庁、公舎、公の物」などを意味する語で、これに給与を意味する「禄」がついているということは、「役所の公的な財源から充当した給与」という意味かと思われます。

 そして、これが『続日本紀』の独立した記事として立てられているということは、単なる「定例の役人給与」ではなく、新しく制度化された給与制度と見て良いでしょう。

賑恤の詔

7月19日(壬寅みずのえとら) みことのりにより京師けいし(みやこ。ここでは藤原京)の80歳以上の高齢者全員に賑恤しんじゅつ(貧困者や病気の者に恵みを与えること)を加えた。

京師高年八十已上者。咸加賑恤。



住吉社に奉幣

7月21日(甲辰きのえたつ) 幣帛へいはく(供え物)住吉すみのえ社に奉った。

奉幣帛于住吉社。

 住吉社は現在の大阪にある住吉大社で、祭神は海の神であり、古来より航海や漁労に携わる人々は海上安全や豊漁を住吉の神に祈りました。

みちのく
みちのく

今回幣帛が奉られたのは、遣唐使の無事の帰還に感謝を示すためのものと考えられます。

贈位、封戸の伝領

7月22日(乙巳きのとみ) 従五位上坂合部宿禰唐さかいべのすくねもろこしに正五位下を贈った。
 故・右大臣従二位阿部朝臣御主人あべのあそんみうしの功封100戸のうち1/4を子の従五位上阿部朝臣広庭に伝領(相続)させた。
 贈従五位上高田首新家たかだのおびとにいのみの功封40戸の1/4を子の無位首名おびとなに伝領させた。

贈從五位上坂合部宿祢唐正五位下。
右大臣從二位阿倍朝臣御主人功封百戸四分之一。傳子從五位上廣庭。
贈從五位上高田首新家功封卌戸四分之一。傳子无位首名。
みちのく
みちのく

封戸、つまり領地のことで、亡くなった親の領地を子に相続させたという記事ですね。功封とは、国家に対し功績がある人に与えられた領地です。

贈位や高田新家については大宝3年(703)7月23日条でも触れています。



遣新羅使の帰国

8月3日(丙辰ひのえたつ) 遣新羅使従五位上波多朝臣広足はたのあそんひろたりたちが新羅から帰国した。

遣新羅使從五位上波多朝臣廣足等至自新羅。

『続日本紀』に記録される波多広足についての記述は以下の通り。

大宝元年(701)7月21日 左大臣多治比嶋たじひのしまの葬儀の監護を務める。
大宝3年(703)9月22日 遣新羅大使に任命される。
同年10月25日 遣新羅大使として天皇に謁見する。

いづみ
いづみ

遣唐使の影に隠れがちですが、新羅にも使節を送っていましたね。

イナゴの害

8月5日(戊午つちのえうま) 伊勢国・伊賀国の2国に蝗害こうがい(イナゴの害)があった。

伊勢伊賀二國蝗。
みちのく
みちのく

イナゴは稲に限らず畑作の作物や果ては紙まで食害してしまいます。



大風の被害

8月28日(辛巳かのとみ) 周防国(山口県)に大風があり、樹木を根こそぎにし、秋稼を損なった。

周防國大風。拔樹傷秋稼。
いづみ
いづみ

災害が続きますね…

みちのく
みちのく

こればかりはどうすることもできません…

参考書籍など

続日本紀(上)全現代語訳




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