【現代語訳】続日本紀 文武天皇紀 大宝元年② 唯一の御製和歌

大宝
みちのく
みちのく

こんにちは、みちのくです☀️
今回は、大宝元年(701)2月、監物けんもつ釈奠せきてんの祭り・文武天皇の吉野行幸などについて解説していきます!

いずみ
いずみ

ケンモツ?セキテン?
よく分かりませんがよろしくお願いします♨️

大宝元年(西暦701年)現代語訳・解説

仙人の暮らす仙郷のイメージ

(下物職の任命)、釈奠、伊勢斎宮の派遣

2月4日(丁未ひのとひつじ) みことのりにより、初めて下物職おろしもののつかさを任命した。

下物職とは、倉庫のカギを宮中から受け取り、庫内の物の出し入れに立ち会い、監察する役所です。
「下物職」の律令における表記は「監物」であり、「けんもつ」と読みます。

みちのく
みちのく

「おろしもののつかさ」というのは日本古来の読み(訓読み)で、
「けんもつ」というのは中国に由来する読み(音読み)ということです。

いずみ
いずみ

倉庫から物を外に出すときの動作、「物を下ろす」ところから
「おろしもの」という名前になったのでしょうか。

2月14日(丁巳ひのとみ) 釈奠せきてんをとり行った。※釈奠の礼はここにおいて初見である

釈奠とは、儒教の祖である孔子を祀る国の行事で、唐に学び導入されました。
儒教は国の統治に重要な思想や価値観・倫理をささえていたので、国の祭儀として成立したのです。
「釈」も「奠」も、もともと供物(くもつ)を供えるという意味であり、孔子像を安置し、酒を捧げ牛肉や羊肉を犠牲として供えるのが形式でした。

みちのく
みちのく

律令にも釈奠について規定があります☀️

学令がくりょう 3【釈奠条】
およそ大学・国学は、年毎に春秋の二仲にちゅうの月の上丁じょうていに、先聖孔宣父せんしょうくせんぶに釈奠せよ。其れ饌酒明衣せんしゅみょうえもちゐむ所は、並びに官物を用ゐよ。

(現代語訳)
大学(中央の学校)と国学(それぞれの国に置かれた学校)は、毎年2月と8月の最初のひのとの日に釈奠の祭りを行え。その捧げる酒と着用する清浄な衣服については、官有の物を用いること。

いずみ
いずみ

大学国学…ということは、釈奠は学問と関わりが深いということですか?

みちのく
みちのく

そう。儒教は、宗教や倫理の側面もあれば、「儒学」といって孔子や
その弟子たちの議論を学び、発展させる学問としての側面もあったの
です。

いずみ
いずみ

そういえば、仏教でも「学問僧」という人たちがいましたね。
宗教と学問は密接につながっているんですね!

みちのく
みちのく

学問を身につけることは、国を支える思想や倫理を育てることにつながり
ますからね。
ただし、今とは少し「学問」に対しての考え方は違うかもしれません。
単なる教養というよりは、直接国家の役に立つ知識や技能が求められたはずです。

孔子像(道明寺天満宮所有)
釈奠祭で供えられた供物
みちのく
みちのく

釈奠は、戦国時代に途絶しつつも江戸時代に復興し、規模は縮小しましたが今でも行われているところがあります。

いずみ
いずみ

今回の記事で、日本の釈奠が初めて記録に残されたということですね。
長く続く伝統の始まりですね✨

2月16日(己未つちのとひつじ) 泉内親王(天智天皇皇女)を伊勢の斎宮さいぐうとして遣わした。

伊勢斎宮とは、伊勢神宮に奉仕するために宮中から遣わされた皇女です。

いずみ
いずみ

いずみ、私と同じ名前ですね♨️

みちのく
みちのく

斎宮は、天皇の皇女のうち未婚の人から占いで選ばれ派遣されます。
治世2年(698)9月10日には、おばにあたる当耆(たき)皇女が遣わされて
いますが、今回交代となったようです(理由不明)。

吉野行幸

吉野離宮跡とされる宮滝遺跡

2月20日(癸亥みずのとい) 吉野の離宮に行幸した。

2月23日(丙寅ひのえとら) 民の戸籍を記録・管理する官人を任命した。

2月27日(庚午かのえうま) 車駕(天皇)が吉野の離宮から帰られた。

吉野離宮は今の奈良県吉野町にある「宮滝遺跡」がその場所であるとされています。
吉野の人里離れた山間部は、仙人が住む地とされ、飛鳥・奈良時代を中心に天皇・皇族がこの仙郷に惹かれて行幸が何度も行われました。

みちのく
みちのく

吉野は、国史において重要なできごとが何度も起きた場所です。
いずみさんは何か知っていることはありますか?

いずみ
いずみ

吉野といえば、南北朝時代に南朝の本拠地が置かれたところですね♨️

みちのく
みちのく

そうですね☀️
後醍醐天皇が京都を脱出し、三種の神器を持って吉野にもうひとつの
朝廷を打ち立てたということがありました。

いずみ
いずみ

あえて吉野を選んだということは…
やっぱりそれだけ特別な場所だったんですね♨️

このときの文武天皇の御製歌(天皇が自らつくり、詠んだ歌)が『万葉集』に載録されています。

大行天皇、吉野の宮に幸す時の歌

み吉野の山のあらしの寒けくに はたや今夜も我がひとり寝む

『万葉集』巻第1 雑歌 74番歌

(現代語訳)
吉野の山から吹く風が強く寒い。もしや今夜も、私はひとり寝をしなければならないのだろうか

みちのく
みちのく

文武天皇は、このとき初めて吉野を訪れました。
2月20日というと、今の暦だと3月。春とはいえ夜はまだまだ寒いはず…。
初めて訪れる土地に、期待感よりも不安が強かったのかも?

いずみ
いずみ

少々弱気になられているところに「帝らしからぬ…」という感想もありそうですが、私はご自身の思いをすなおに歌に表現されているところがとても好きです✨

みちのく
みちのく

国史では、個人の感情が記述されることはあまりないですから、和歌は古代の人の人間性に触れることができる貴重な史料ですね!
ちなみに天皇がのこされた、記録に残る唯一の和歌です✨

参考書籍など

続日本紀(上) 全現代語訳
伊勢神宮に仕える皇女・斎宮跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」 58)
失われた伊勢斎宮の発掘成果について知ることができます!
新版 万葉集 現代語訳付き
すべての歌が閲覧できる超大ボリュームだ!




次回予告

みちのく
みちのく

いよいよ元号「大宝」が新たに打ち立てられます!

いずみ
いずみ

あれ?まだ大宝元年じゃなかったんですか??

みちのく
みちのく

まだ改元はされていないので厳密には「文武天皇5年」となるはずなのですが、
『続日本紀』では元号が立てられた年の1月1日からさかのぼって大宝元年としているので、これに則って表記しております!
↓のバナーから次の記事へジャンプ☀️

コメント

タイトルとURLをコピーしました